あなたはもう何も見えなくなりました

「わん・つー・すりー!」

「うぉお!!」


 コップを上げた瞬間に、忽然と消え失せたスポンジボール。隣のコップを上げると、そこには、消えた筈のスポンジボールがあった。


 兄の目から視れば、私は、手も触れていない。スポンジボールが、瞬間移動したかのように視えていることだろう。


「すげぇ!! 俺の妹はノーベル賞か!?」

「人間だよ」


 ゴミ溜めの中で、私は、鼻血で顔を真っ赤に染めている兄と笑い合う。


「なぁ、兄ちゃんにだけ教えてくれよ。どうやってるんだ?」

「あのね、魔法マジックはどんでん返しなんだよ」


 得意気に、私は、とある本で読んだ内容を兄に伝授する。


「最後の最後、視えてるものが、ひっくり返るの。本当はね、ぜーんぶ、準備が済んでるんだけど、魔術師マジシャン以外には視えないようになってるんだって。

 だから、ほら」


 私は、コップを逆さにして、上部に貼ってあったマジックテープを見せる。


 コップをひっくり返した状態で、ボールを投入し、上部に貼り付けることで消える。もう片方のコップには、ボールを予め貼り付けておき、上側をポンッと叩いて『消えました』と手順を踏むことで現れるようにしておくのだ。


「す、すげぇ……予定調和で、ボールが動くのはわかってたけど……やっぱり、何回視ても驚いちまう……でも、なんだか、ネタがわかるとズルっぽいな……」

「うん。魔術師magician詐欺師imposterって、良く同じようなモノだって揶揄されたりするもん。

 でもね、私はね、ちゃんと違いを知ってるの」

「ん?」

魔術師マジシャンは――」


 私は、笑う。


「人を幸せにするの」


 兄は、笑って、頭を撫でる。


「予定調和なのは、この世界に住む人たちは、みーんな最後には幸せになるってわかってるから! ハッピーエンドは、とーぜんなんだよ! 愛は必ず勝つの!」

「そうだな、きっと、俺たちのことも魔術師マジシャンが助けてくれるさ。現在いまは、不幸に見えても、きっといつかは幸福へとひっくり返る。

 俺の妹のことを幸せにしてくれる」

「だいじょうぶだよ! お兄ちゃんのことも幸せにしてくれる!

 だって、将来、私は――」




 目を閉じていた先生は、ゆっくりと目を開いた。


 その目に宿っていたのは、どういった類のものなのかはわからない。ただ、彼女の潤んだ瞳に潜む決意は、俺のことを真っ直ぐに見据えていた。


 公園の真ん中で佇む彼女は、ただ、虚ろに立ち尽くしている。


「桐谷彰」


 くすのきあやを引き連れた俺に、彼女はささやきかける。


「お前の教師として……最後の教育を始めよう」


 対峙している俺は、苦笑する。


「そこは、教壇じゃねぇよ。神を信じない聖職者が、舐めた口叩くな」


 先生は、煙草を咥えて、口端を曲げた。


「桐谷、後ろにいるのは誰だ? 新しいガールフレンドでも紹介してくれるのか?」

くすのきあやだ」


 雲谷渚の亡霊は、眉をひそめる。


「驚いたな。ココに来て、新しい亡霊が登場か。

 桐谷、女の過去を探るような輩はモテないぞ」

「安心してくださいよ。文字通り、死ぬほどモテるので」


 俺の背後にいたくすのきあやは、自らの過去を恥じるかのように、前髪で顔を覆い隠したまま前に出る。


 ゆっくりと、膝をつき、額を地面に擦り付けた。


「スゴイじゃないか、桐谷。お前、畜生ケモノに芸を教え込んだのか。何Vの電圧で調教したんだ?」

「先生、復讐なんてなにも生みませんよ」


 ぴくりと、先生は反応を示す。


「最近の台本は、空気中に書いてあるのか?」

「暗誦です」


 肩を竦めた先生は、微笑を浮かべる。


「ご紹介頂きまして、どうもありがとう。

 私がようする『雲谷渚を愛している人間ひと』を紹介してもいいかな?」

「どうぞ」


 滑り台の影から、ひとりの女性が現れる。どこかで、視たことがあるような女性ひとだった。


くすのきあやだ」

「は?」


 俺は、目の前で土下座しているくすのきあやと、先生がくすのきあやだと紹介した女性を見比べる。


「……二重身ドッペルゲンガーとでも言うつもりですか?」

「いや、どちらかが偽物だろうな。私は、そこで地にひれ伏している哀れなヒキガエルみたいなのがニセだと思うが」

「身分証――」


 先生は、一枚の免許証を投げ捨てる。


 俺の足先に落ちたソレを拾い上げると、『くすのきあや』という氏名が記載されて顔写真が貼ってあった。ご丁寧に隅から隅まで、欠点のないような作りをしていて、指摘しようがない。


「桐谷、お前は、なにをもって彼女が本物オリジナルだと言うんだ?」

「…………」

くすのきあやさん」


 先生は、隣で手持ち無沙汰に立っている彼女にささやく。


「私たちは従姉妹同士ですが、私の本名はなんと言いましたっけ?」

「雲谷渚です」


 煙草に火を点けた先生は、哀しそうに笑う。


「桐谷」


 紫煙が宙空で惑って、先生の顔を覆い隠した。まるで、黒色に塗り潰された写真みたいに、彼女は目の前で消え失せる。


「私は、男か? それとも、沼男スワンプマンか?」


 煙の仮面に隠れた彼女は、つぶやいた。


「証明してみせろ……桐谷彰」


 なにも言えずに、俺は、拳を握り込む。


「水無月、フィーネ、淑蓮、そろそろ出てこい」


 俺の指示を受けて、アパートで待機していた筈の水無月さんたちが、遊具の陰から姿を現す。申し訳なさそうに顔を伏せて、俺のことを一瞥もしなかった。


「桐谷、本当に、水無月たちがお前に協力していると思っていたのか?」


 俺は、ただ、彼女たちを見つめる。


「少し考えれば、わかるだろう?

 愛にかこつけたお前のあやふやな訴えで、黙って付いてくる人間がいるわけがない。桐谷彰を生かすためになら、桐谷彰を簡単に裏切るのが人間ひとだよ。そこには、お前の意思は介在しない。望みは受け入れられない。愛なんてない。

 ただの合理性だ」

「ち、違うっ! わたしたちは――」

「黙っていろ、水無月」


 なにも宿していない目で、先生は水無月さんを見つめる。


「今、私が話している……授業中だ。

 優等生だろ、お前は」


 水無月さんは、喉から怨嗟らしき音を漏らして、唇を噛み切りながら黙り込む。赤色の血液が滴って、身震いしている彼女の情動を伝えていた。


「本当に、ココまで長かったよ。ようやく、ひっくり返った」


 雲谷先生は、薄笑いを浮かべる。


「モモ姉を使って、お前を操作コントロールした甲斐かいがあったよ」

「……は?」


 どくんと、心臓が跳ねた。


 胃が落ち込むような衝撃を覚える。吐き気に似た感覚が、全身を巡っていって、頭の中で蟲が這いずり回るかのような嫌悪感がある。


 悪寒に震えながら、俺は口を開く。


「どういう……意味……ですか?」

「モモ姉を利用したんだ」


 彼女は、笑う。


「モモ姉から、急に、話したいと言われて違和感を覚えなかったか? 今まで、連絡ひとつ寄越さなかった女性ひとが、突然、お前に連絡するなんておかしいと疑わなかったのか?」


 そうだ。モモ先生は、一度も、俺と話したいなんて言ってない。


 ――モモ姉が……お前と、話したがってる


 言ったのは――雲谷先生だ。


「本当は、モモ姉は、お前と話すつもりなんてなかった。ただ、あの女性ひと時間制限タイムリミットを見計らって、彼女に弱音を吐き続けることで、無理矢理にお前と“繋げた”んだ」


 ――渚を助けて欲しい


「モモ姉が、病に侵されていることは知っていた。前日、病院から、危篤状態だと連絡も受けていた。最後に、私と話したいと言っていたから、タイミングさえ見計らえば、お前と話をするように仕向けるのは簡単だった」


 モモ先生からの最後の電話は、俺の携帯スマホにかかってきたわけじゃない。


 ――そういう思し召しかぁ……


 モモ先生は、最後に、雲谷先生の声を聞きたかったんだ。


「感情的になっただろ、桐谷……私をかわいそうだと思っただろ、桐谷……モモ姉のために救おうと思っただろ、桐谷……それだけの決意をめれば、死もいとわないと周囲からは視えていただろうな……そうすれば、水無月たちを操作コントロールすることなんて簡単だ……桐谷彰は、善人で、自己犠牲のもとに死ぬ危険性があると思い込ませれば……こうやって、簡単に、お前を裏切る……」


 先生は、俺に身を寄せる。


 線香の臭い、死の臭いだ。彼女の全身から発せられている煙は、影のようにまとわりついて、隠しようのない死臭を漂わせている。


 俺だけに聞こえる声量で、亡霊はささやきかける。


「そこで土下座してる女性は、くすのきあやでもなんでもない……私が雇った役者だよ……お前が初めて声をかけた時から、彼女は私に雇われていた……あのクズが、今更、改心するわけないだろ……淑蓮に誘導させていたんだ……なにもかもが、私の手のひらの上で……お前は、私に感情移入して踊り続けていた……」


 ぱちぱちぱちと、笑顔で、先生は拍手を送る。


「おめでとう、桐谷! この世界に、愛なんてないんだ! なにもかも、私が用意した“作り物”だと、お前は一度足りとも気づかなかった!

 お前の信じた愛は、なにひとつとして本物なんかじゃない! 私の書いた脚本通りにかたられた創作物だよ!」


 なにも言い返せずに、俺は立ち尽くす。


「桐谷、お前が最後に話した女性は、本当にモモ姉だったのか? もし、彼女が偽物で、私の用意した別人だとすれば、お前の感じている愛は紛い物だとは思わないか?」


 笑顔の先生は、笑っていない目で俺を見つめる。


「桐谷……お前が人伝ひとづてに聞いた私の過去は、正真正銘、本物オリジナルだと言えるのか……モモ姉が、お前を想いながら死んだと誰が証明できる……あの女性ひとの『愛している』という言葉は本物か……そこに、ひとかけらの愛も混じっていないのかもしれない……それでも、お前に愛を証明できるのか……」


 俺の肩を叩いて、先生のささやき声が、耳朶に吹き込まれる。


「どうした……証明してみせろ……男か……沼男スワンプマンか……実の兄や大恩ある女性の死すら利用する人非人に、血が通っていると思うか……愛が、そこに視えるのか、桐谷……」


 俺の両腕が、だらんと垂れ下がる。


 ゆっくりと、目を閉じると、先生の言葉だけが聞こえた。


 ――アキラくんを信じてる


「……るよ」

「なに?」

 

 俺は、顔を上げる。


「今から、あんたにも」


 地に伏せていたくすのきあやは、凄まじい勢いで立ち上がり――俺の首元へと包丁の先を突き付けて――


「視せてやるよ」


 俺は、目を開いた。

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