慈善は、それが犠牲である場合のみ慈善である

「…………」


 不用意にも、俺たちのことを招き入れたくすのきあやは、ペットボトルのミネラルウォーターを差し出してくる。


「お茶、飲まなくて……コレしかないから……どうぞ……」

「どうも」


 俺は、受け取って、彼女の住む部屋を眺める。


 雲谷先生の部屋には、生活感が全くなかったが、彼女の場合はその逆だ。まるで、巣のような部屋だった。


 壁には女性ものの古着が大量にかけられており、こちらを覆い潰さんばかりの圧迫感があった。床にはガチャガチャの容器カプセルが山となっていて、足つぼマッサージのために放置しているのかと疑わんばかりだ。


 開かれた、折りたたみ式テーブル。


 向かい合わせに座っている楠綾は、目線を彷徨わせている。こちらをちらちらと見上げながら、唇を噛んだり、頬を掻いたりとせわしなかった。


「汚い部屋ですね」


 正直に俺がそう言うと、彼女は顔を伏せて、自分の人差し指を甘噛みする。


「こっちの方が、落ち着くから……」

「雲谷渚への贖罪ですか?」


 ありとあらゆる前提を略して、そう言い放つと、楠綾の表情がハッキリと変わる。


 複雑な情動の変遷だった。


 皺には歴史が刻まれていると、どこかの本で読んだことがあるが、彼女の表情筋の動きにも経緯が表されているかのように視えた。


「ごめんなさい」


 無表情で、彼女はつぶやく。


「ごめんなさい」


 そして、静かに、ひれ伏して頭を下げた。


「別に、俺は、復讐しに来たわけじゃありませんよ。他人がひざまずく姿は大好物ですが、俺の足を舐めるつもりのない女性ひとのつむじを視てもね」

「あなたは……なに?」

「雲谷先生の隠し子」


 不審者を視るような目で、楠綾は俺を不躾に観察してくる。手負いの獣みたいな、ギラついた眼光で、目の下には色濃いくまがあった。


「渚お兄ちゃんに救われた人?」

「まぁ、ある意味」


 少なくとも、モモ先生がいなければ、俺はこの世にいなかった可能性が高い。幼稚園時代、自分をコントロール出来なかったフィーネに攫われていたら、良くて廃人パパ、悪くて水槽中の脳味噌パパだ。


「雲谷渚の仏壇を手入れしてたのは貴女でしょう?」


 無言で、彼女は頷く。


「なんで、ヒーロー人形を?」

「……渚お兄ちゃんが、好きなのかなって思って」


 いや、アレは、雲谷渚の好みじゃない。


 雲谷渚は、幼い頃に心臓移植手術を受けている。貰い受けた心臓の持ち主である少年が、ヒーロー人形を集めていて、彼の母親から譲り受けただけに過ぎない。


 彼にとっては、ただの善意の象徴シンボルだ。


 なんてことを、贖罪中の当人に言っても詮無きことだろう。


 利己的な償いに、利他的な要素を付随するべきじゃない。仏壇にヒーロー人形を飾っても、怒るような人間はこの世にはいないのだから、生きている人間がどうしようとも問題はない。


「話を聞く限り、貴女は、見習いたいくらいのクズだった。なんで、急に心変わりをして、そんなことを始めたんですか? このアパートに住んでいる理由も、雲谷渚並びに先生への償いのつもりですか?」

「…………」


 クッション代わりのゴミ袋に背を預けて、楠綾は深く息を吐いた。


「……影が視えるの」

「影?」

「渚お兄ちゃんの影」


 そう言って、彼女は、上を指す。


 天井。その先には、雲谷先生の部屋がある。


「お葬式の時に、渚お兄ちゃんの制服を着た彼女が……こちらを睨んでいた……葬儀場の二重身ドッペルゲンガー……本当に、そっくりだった……魂の質量を計って、区別しなければわからないくらいに……その顔が、その目が、その影が……焼き付いて、離れなかった……」


 しきりに、自分の唇を撫でながら、楠綾は声を震わせる。


「罰だと思った」


 四つん這いになった彼女は、必死の形相で床のゴミを掻き分けて、表紙が真っ白なノートを取り出す。


「視て!!」


 その中には――影が描かれていた。


 何度も、何度も、何度も、鉛筆で繰り返し塗り込まれた黒色の影が、すべてのページに描かれている。人型の影。色濃い黒で浮き彫りになって、目の裏へと、その黒色を焼き付けようとしているみたいだった。


「あの子の背中に、この影が視えるの……だから、傍にいた……罰を受ける必要があるから……渚お兄ちゃんが、あたしを赦してくれないから、この影が視え続けるの……」


 図らずも、先生の復讐は完遂していたらしい。まぁ、先生の頭にあるのは、俺の救済だけで、楠綾のことなんて歯牙にもかけてないんだろうが。


「つまり、雲谷渚並びに先生に謝りたいんですよね?」

「いや、あたしは――」

「なら、俺が手伝いますよ。

 もしもし、雲谷先生」


 硬直している楠綾を横目に、先生へと電話をかけた俺はニヤリと笑う。


「雲谷渚を愛している女性ひとを見つけました」

『……なに?』

「待ち合わせましょう、1時間後。

 敗けたくなかったら、先生も、適当に雲谷渚を愛してそうな人を連れて来たほうが良いですよ」


 先生の鼓膜を破壊するために、俺は、電話口へと絶叫する。


「純愛バトルしようぜ!!」


 電話を切った俺を視て、楠綾は――ただ、呆然としていた。

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