しあわせ

 長い沈黙があった。


 俺は、なにを言うべきなのか迷っていた。この機会を逃せば、消えてしまいそうな想いがあった。でも、世界に流れている時間は平等で、与えられる機会も同じように振り分けられている。


「私が殺したの」


 だから、最初に、彼女が言った。


「渚くんに、己の理想を押し付けた。彼が幸福な王子様に視えた。互恵的利他主義からはかけ離れた、唯一無二の存在だと定義した。目の前にある善性は、揺るがされることはなく、私の祖母を救ったようにきらめき続けるのだと疑わなかった」


 ぼそぼそと、電話口から声が聞こえてくる。


「彼は、金箔で包まれた王子様なんかじゃなかった……」


 静まり返った車内に、悲壮が響く。


「人間だった……疑いようもなく……彼は……あの子の優しいお兄さんで……ただ、人を救いたかっただけの青年だった……」


 薄暗さを増していく世界の中で、俺が握り込んだ画面だけが光っている。窓の外から視える景色には、ただ、灰色の雲があった。


「あの頃の私には、わからなかった……腎臓を女の子にあげると聞いて、彼がまた奇跡を起こすことを疑わなかった……一緒にお爺さんとお婆さんになって、私たちは正しいことをしたんだと語り合えると思っていた……」

「…………」

「私は、ツバメだった」


 俺は、目を閉じる。


「王子の肉をついばんで、黄泉へと導いた渡り鳥だった」


 座席に、身体を預ける。


 生ぬるい体温が、そこに残っていた。飲みかけのオレンジジュースが、ドリンクホルダーに支えられて、銀色のプルタブが沈黙している。


 俺は、じっと、ソレを見据える。


「だから、彼を真似てみようとしたの。

 そうすれば、いずれ……同じゴミ溜めで死ねると思ったから」

「つまり、俺を救ったのは、雲谷渚の沼男スワンプマンですか。貴女は、彼の真似をして、救いを演じていただけだった」

「最初は、そのつもりだった」


 電話口の向こうで、先生が微笑んだのがわかる。


「でもね、私は、アキラくんたちに出会ってから自分の夢を思い出した。この子たちを幸せにすることは、渚くんとは関係がない、ただ私のしたいことだと感じた」

「先生」

「信じて欲しい」


 慈愛の溢れる声音で、彼女は言った。


「私は、私の意思で、アキラくんを愛していたよ」


 なんと答えればいいのか、俺は答えるべき言葉を知らなかった。もし、自分が、先生の元にいれば、きっと答えることが出来ただろう。簡単に言えた筈だ。


 でも、俺は、言えなかった。


「みんな、本当に可愛かった……どんどん、大きくなっていって……問題を抱えている子もいたけど……渚の協力もあって、解決出来た……『さくら組』の子たちは、みんな、きっと幸福に生きられる……ようやく、確証をもてた……」


 その声には、疲労がめられていた。自身の生命を少しずつ、さくら組の28人の子供たちに分け与えたかのように、先生の声音は弱々しかった。


「そこまでして」


 思わず、俺は、口を開く。


「そこまでして、なんで……?」

「愛に理由なんてないよ」


 彼女に、優しく、諭されて。


「ただ、そこにるだけ」

「なら」


 俺は――


「俺が、これからすることにも――理由なんてない」


 俺としての、答えを出す。


「……アキラくんは、いつも、私の作る料理を美味しそうに食べてくれたね」

「父親が、料理下手だったんで」

「膝の上で、いつも、丸くなって眠ってた」

「前世が、猫だったかも」

「いたずら好きで、いつも、私が帰ると押し入れに隠れて脅かそうとした」

「好きな女の子には、イタズラするものですよ」


 長い、長い、沈黙がある。


 ゆったりと、やさしく、たしかめるように――彼女は、言った。


「大きくなったね……」


 自分の頭の上を、先生の手が往復する。かつて、幼かった俺の頭を『アキラくんは、ちいさいね~』と、先生が撫でてくれた。熱を出した時には、一晩中付き添って、額の熱を確かめてくれた。


「本当に……大きくなったね……立派に……立派になった……嬉しいよ……アキラくんの立派な姿が見れて、先生は、とっても嬉しい……」

「視えてないでしょ」


 俺は、留めていた感情を電話口に押し込む。


「貴女には……視えてなかった……俺の小学校の遠足も授業参観も卒業式も……中学校では、俺が何部だったか知ってますか……好きな食べ物と嫌いな食べ物だって変わった……身長だって伸びてるんですよ……顔つきだって変わった……水無月さんやフィーネだって、様変わりしてるんですよ……貴女の教え子は……さくら組の子供たちは……現在いまを生きて変化している……なんで、視てくれないんですか……どこにいるんですか……貴女には、俺たちを視る義務があるんじゃないんですか……?」

「視えてるよ」


 俺は、拳を握り込む。


「視えるの……目をつむると、みんな、笑っている……幸せに生きている……誰も彼もが、笑いながら、お爺ちゃんお婆ちゃんになるの……私と渚くんが信じていた未来を……みんなが、叶えてくれてるんだよ……今でも、さくら組のみんなと撮った写真を視れば……あの幸福だった日々が蘇ってくる……みんなの笑顔が、永遠でありますようにって……先生、いつも、神様に祈ってるから……」

「あんたはっ!!」


 思わず、俺は叫ぶ。


「あんたは、幸せにならなくて良いのかよっ!! それでっ!! それで、良いのかよっ!!」

「先生、幸せだよ」


 先生の、笑顔が視えて、俺は呆然とする。


「みんなの幸せが、私の幸せなの」


 嘘じゃ、なかった。


 だから、もう、なにも言えなかった。全身の力が抜け落ちて、その幸福に、応えられる言葉はどこにもなかった。


「私、子供が欲しかったの……お医者様から、将来、子供は作れないって言われて……でも、どうしても諦められなくて……だから、幼稚園の先生になった……みんな……みんな、私の子供たちだよ……私と渚くんの子供たち……ねぇ、アキラくん……先生、ちゃんと、知ってるよ……あなたの好きな食べ物……」


 俺は、項垂うなだれて、車内に降った雨を見つめる。


「先生のオムライス」

「……下手くそなんだから」


 俺は、ささやく。


「あんたは、料理、下手くそなんだから……そんなわけねーだろ、ばーか……」

「信じてるよ」


 彼女の言の葉に、俺は無言を返す。


「さくら組のみんなも、なぎさも、アキラくんも」


 声に、耳を澄ませる。


「全員、しあわせになれるって」


 彼女は、言った。


「アキラくんを信じてる」


 急に、先生は、なにも話さなくなる。


 静まり返った電話口から、しあわせそうな寝息が聞こえた気がした。


 だから、俺は、そっと口ずさむ。






 教会。


 壁掛けの電話機アンティークからは、ヒモが伸びていて、誰かと誰かを繋いだまま取り残される。ステンドグラスから差し込む七色の光が、この世界には愛があると知らしめていた。


 その教会には、さくらの形をした名札を胸に着けている女性ひとがいた。彼女の膝の上には、28人の子供たちが映る写真があった。


 車椅子に乗ったその女性は、全身の力を失って、だらんと座り込んでいた。垂れ下がった手からは、受話器が伸びている。


 宙ぶらりんになった受話器は、ゆれながら、か細い歌声を発していた。


 いつくしみ深き――受話器から流れる少年の歌声は、嗚咽が入り混じって、たどたどしくも美しく響き渡る。


 七色の光を浴びた女性の顔が、ゆっくりと照らされる。


 彼女は、しあわせそうに……笑っていた。

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