彼女は、構成されている

 赤色のレンタカーが走る。


 国道沿いに視える海は、蒼色に映えていた。


 のんきに日向ぼっこをする海原を他所に、沈んだ顔のサラリーマンが歩いていた。自然の前で自然から外れた中年男性は、社会という枷に縛られて、安全に死路を進んでいる。


「…………」


 ハンドルを握っている先生は、薄黒いサングラスをかけていた。


 開け放たれた窓からは、風が入ってきて、先生のエアリーショートを揺らす。舞い上がる髪の毛は、彼女の美しい横顔をくすぐって、祝福を与えてから去っていった。


 ぼうっと、見つめていると、先生は微笑んだ。


「寝てて良いぞ」

「先生に襲われるから寝ません」


 片手でハンドルを握った先生に、もう片方の手で頭を撫でられる。


 少なくとも、そこには、慈愛が溢れているように思えた。


「どこに向かってるんですか?」

「わからない」


 くすりと、先生は笑う。


「わからないんだ……私は、どこに行きたいんだろう……」

「誰にもわかりませんよ」


 窓の外で、疲れ切った表情の男性が、トボトボと歩いていた。


「だから、最期にゴールがある」

「詩的だな」

「ロマンチスト・アキラとは俺のことですよ。拾った自作詩を校内放送で垂れ流したら、作者から殺害予告の返歌が届きましたからね」

「最低だな」


 車は、走り続ける。


 他愛のない会話に耳を向けながら、俺は、カーラジオに耳を澄ませる。先生の笑い声に合わせて、司会が重苦しい声で病死の話をしていた。周波数が切り替えられて、アメリカのジャズバンドが演奏を始める。


 ETCを通って、高速に入った。


 水分補給はこまめにしておけと、先生からオレンジジュースを手渡される。そこで、ようやく、俺はマリアを放置していたことに気づいた。


「あんた、どこにいんのよ!?」

「地球」

「ばーかっ!!」


 電話をかけると、元気な端役モブの声が耳に飛び込んでくる。


 先生に目線で促されたので、スピーカーに切り替えた。


「すまん、マリア。これから、桐谷と駆け落ちする。ラブラブなんだ。教師と生徒の禁断の愛を応援してくれ。レディースコミックに載っているようなドギツイ偏愛を、この無垢な身体バディにぶつけるつもりだ」

「桐谷、下手くそな声真似で、私を偽るな」

「……もしかして、拉致られてる?」


 俺は、正解音代わりに口を鳴らす。


「そ、そう……雲谷先生と一緒なんだ……なら、良かった……」


 明らかに安堵している声音、雲谷先生は目を細める。


「どういう意味だ、マリア?」

「由羅先輩の二重身ドッペルゲンガーが……いや、桐谷を狙ってる女の人がいて……なんだか、雰囲気がヤバそうで……『この世で手に入らないなら、あの世で手に入れる』とか言ってて……私、桐谷に伝えなきゃって……」


 先生は、正面を見据えたまま苦笑する。


「驚いたな、嘘じゃないらしい。桐谷の体質か。

 誘蛾灯フェロモンに惹きつけられた羽虫が一匹」

「先生、桐谷のこと――」

「わかってる、安心しろ。悪いようにはしない。そういう輩から、桐谷を守るために雲谷渚は存在している。

 水無月やフィーネの代わりに、私がコイツを守るさ」

「……でも、先生は」


 数秒の沈黙の後、か細い声がスピーカーから伝わる。


「先生は、誰が守ってくれるんですか?」

「……必要ない」


 手を伸ばした先生は、画面を叩いて通話を終了した。


 二時間ほど、高速を走り続けて、俺はいつの間にか眠りに落ちていた。


 ――アキラくんは、将来、どんな大人になるんだろうね?


 夢を視た。


 ――たのしみだなぁ~! 先生、立派な大人になったアキラくんを視るのがたのしみ!


 優しい夢だった。


 ――きっとね、カワイイ奥さんと一緒に、美味しいご飯を食べてるんだろうなぁ~!


 束の間の、ぬくもりがそこにはあった。


 ――え? 先生のご飯が、一番美味しい? 先生と結婚する?


 あの頃の俺は、警察から捜索されていることなんて知らなかった。


 ――私の周りを、ぜーんぶ、幸せにしてくれるの?


 あの女性ひとが、なぜ、俺を守ろうとしていたのかわからなかった。


 ――それなら


 でも、今ならわかる気がする。


 ――しあわせになってね


 俺の体質も、遺伝子も、誘引情報フェロモンも関係ない。


 ――しあわせになってね、アキラくん


 そんなくだらない要素で、あの女性ひとは構成されていない。


 いつくしみ深きが聞こえる。


 あの女性ひとの美しい歌声が、柔らかな優しさが、身に染み入るような慈愛が響いてくるような気がする。


 そして、その子守歌が。


 唐突についえた。


「ッ!?」


 勢いよく身を起こす、車は止まっていた。


「…………」


 びっしょりと、寝汗をかいていた。


 気色の悪い感触が、全身を覆い尽くして、気味の悪い感覚に襲われる。数千匹のアリにたかられながら、手足の端から食いちぎられていったかのような、現実味のない疼痛が身体を支配している。


 俺と先生の乗っていた赤色の車は、山間のサービスエリアに駐車されていた。ロックを外してから、外に出ると、閑散としている喫煙所で先生が煙草を吸っていた。


 見つめていると、手招きされる。


「どうした、顔色が悪い。まるで、死人だぞ。さっきまで、幸せそうな顔で寝ていたのに、急に地獄に叩き落されたみたいだ」

「先生」


 俺は、言おうとして口をつぐむ。


「……寝直します」

「あぁ。途中で、薬局によろう。無理はするな」


 俺は、車に戻って――着信音が鳴った。


 先生が、置き忘れた携帯スマホの画面には、名前が写っている。


 だから、俺は、両手で顔を覆う。


「…………」


 そして、電話をとった。


「……もしもし」

「そっか」


 夢の中でも聞こえた優しい声は、そう言った。


「そういう思し召しかぁ……」


 俺は、電話を切ろうとする片手を精神力で押さえつける。


「アキラくん」


 俺は、耳を澄ませる。


「お話しても良い?」


 モモ先生の声に、俺は「はい」と答えた。

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