究極的な利他主義は、究極的な利己主義でもある
煙草を吸っていた先生は、顔をしかめる。
「桐谷……線香臭いぞ」
先生こそ、独身臭いですよと答えたら、俺は一体どうなってしまうんだろうか……好奇心が、アキラくんを殺しそうだ……たすけてくれ……。
先生に案内されて、俺は二階へと上がる。
緩やかな螺旋階段を上ると、ふたつ並んだ小部屋があった。
片方の部屋の扉には、『なぎさ』と書かれた、ロケット型のネームプレートが下がっている。もう片方の部屋には、花の形をしたネームプレートが吊り下がっていたが、名前の欄は油性マジックで真っ黒に塗りつぶされていた。
「隠し事はしない」
髪の隙間から、先生の瞳が覗き込む。
「これから、ふたりで生きるんだ。すべてを曝け出そう。互いが互いを生きる糧として、貪り
私がお前に望むことはないが、お前が私に望むことはあっていい。一方的な捕食関係で、私を損ない続けていい。
ただ――」
先生は、苦笑する。
「幸せになってくれ」
俺は、無言で、『なぎさ』の部屋へと入る。
「…………」
兄の遺影に近寄ることを自ら禁じた彼女は、同じようにして、影が焼き付いた聖域へと入ることを拒んだ。爽やかな笑顔に閉じ込められた影は、あの仏壇に焼き付いたまま、永遠を彷徨っている。
そして、ココにも、影は焦げ付いていた。
生前の彼が、残していった品々は、どれもこれも統一性がなかった。
本棚に並べられた本の種類はバラバラ、ゲームのパッケージは特定のジャンルに偏らず、CDは賛美歌からデスメタルまである。あたかも、複数の人間が、この狭い部屋を
「兄は、究極的な利他主義だった」
開きっぱなしの扉の隙間から、先生はささやいた。
「不登校児童のために、彼らと趣味を合わせていたんだ。正直言って、兄の本当の趣味は、私ですら知らない。バイト代で稼いだ金は、誰かを救うためだけに費やされて、身体に収められていた臓器すら死後に分配された。
たったひとつ、残った心臓は、不要物と一緒に灰と化した」
ポケットに手を突っ込んだ先生は、口先で煙草を揺らしながら、宙空を見つめる。
「苦しみながら、誰も彼もに見捨てられ、兄は失意の裡に
惑いながら、彼女はつぶやく。
「善きサマリア人の法に則れば、兄は無罪だろうな」
俺は、学習机に置かれた写真を見つける。
そこには、学生時代のモモ先生と雲谷渚、そして先生、三人が映っていた。例の如く、渚と先生の顔は塗りつぶされていたが、その男性特有の骨格で判別がついた。
かつてのモモ先生は、幸せそうに、美しい笑顔を浮かべている。
「兄は、究極的な利他主義だったが」
写真から目を逸らして、先生は微笑む。
「同時に、究極的な利己主義だった。
家族の反対を押し切って、他人に腎臓を押し付けたんだからな」
「愛してたからでしょ」
俺は、写真を元の場所へと戻して振り返る。
「人間を」
そして、苦笑する。
「俺には、まるで理解出来ませんがね」
「……同意見だ」
続いて、先生の部屋に入って、すぐさまタンスを漁り始める。
「桐谷、お前、なにを探してる?」
「パンツ」
「死ね……」
情緒的な『死ね』をプレゼントされて、俺は然るべき機関に通報するべきだと思った。教師が生徒に言って良い言葉ではない。金目の物を残して、可及的速やかに逮捕されて頂きたかった。
タンスを漁っているうちに、下着の代わりに、卒業アルバムを見つける。先生の痴態でも暴いてやろうかと開くと、そこには、切り貼りされた『雲谷渚』が映っていた。
「…………」
「懐かしいな。昔、私は、こんな顔だったんだよ」
正確に言えば、切り貼りされた雲谷渚の“顔”が映っていた。
高校生時代の先生の身体に、実の兄の顔が貼り付けられている。女性の体つきに、男性の顔面が、
「…………」
きっしょ(素直な意見)。
普通に、先生の顔が視たかったので、ベリベリと剥がし始めると、先生に押さえつけられる。
「桐谷、お前、普通は剥がさないだろ」
「いや、だって、気色悪いし……先生の高校生時代のカワイイ姿視たいし……この時は、将来、独身化するとは思わないんだろうなって……かなしいねぇ……!」
「上から目線で、急に哀れむな」
俺は、不器用なので、最終的に卒業アルバムはズタボロに破壊された。良い歳して、過去の栄光に
「先生の写真、一枚もないの?」
「お前が、今、卒業アルバムごと破り捨てたんだよ」
「本物の先生の写真」
ぴたりと、先生の表情が静止する。
無音が流れる。
じっと、俺を見つめたまま、先生は瞬きひとつしない。呼吸が止まっている。心音さえも消えた気がした。
真っ黒な瞳が、俺を覗き込む。
「私は、雲谷渚だ」
「もう、死んだよ。遺影も視えねーのか、テメーは」
片手で、首を掴まれる。力は
「私が、雲谷渚だ……誰からも、認められなくても……私が、兄の生きた意味を残すんだ……そのために、生きている……私は、
「……やっぱり、盲目だな」
俺は、微笑を浮かべる。
「影を追ったところで、あんたに意味は見いだせない」
「か細い首だな、簡単に折れるぞ」
「もう、矛盾したな。俺を救おうとしつつ、殺すって脅しても意味ないだろ」
俺の首に両手をかけて、俯いた先生は、ぼそぼそとささやく。
「私は……私は、努力してきたんだ……お前を救うためだけに、身体を鍛えて、学んで、利他を極めた……私は、雲谷渚だ……今度こそ、やり直すんだ……お前たちならば、きっと、お兄ちゃんにお礼を言ってくれる……今度こそ……今度こそ、報われなければならない……この世に、愛がないなら……神がいないなら……」
先生は、ひくひくと頬を痙攣させながら俺を見つめる。
「私が……兄を救う」
彼女の頬を撫でて、俺は、その一筋の涙を拭った。
「自分を救えない人間に誰が救えたんだ?」
「…………」
「あんたは、やり直してるんじゃない」
俺は、先生の頬を両手で包む。
「繰り返してるんだ」
先生の両手が、小刻みに震える。
ゆっくりと、その手が離れていって、顔を伏せた先生は階段を下りていく。俺は、その背中を見送ってから、ズタボロに破けた卒業アルバムをめくった。
そのページでは、唯一、“渚の顔”が綺麗に剥がれた写真があった。その下にあった女の子の笑顔が、あらわになっている。
「……カワイイ顔してるじゃん」
ふたりの笑顔を切り取って、先生の机から取り出した糊で、『なぎさ』の部屋にあった三人の写真に貼り付ける。
「やり直すってことは」
三人の笑顔が並んだ写真を視て、俺は自分のらしくなさに苦笑する。
「こういうことだろ」
先生を追って、俺は階段を下りた。
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