いつくしみ深き
「桐谷っ! ほら、あんたの好きなメーカーのオレンジジュースあったから、買ってきてあげ……桐谷……?」
駆けて戻ってきたマリアは、人影のないバス停に佇む。
弾んでいた息と胸が、徐々に落ち着きを取り戻す。行き着く場所を失くした両腕が、缶を抱えたまま彷徨う。
「桐谷……」
嫌な、予感がした。
――あの世
なぜだか、あの冗談が、本当になってしまような気がして……どうしようもない、胸騒ぎを覚える。苦笑交じりに語ったアキラの声が、遠のいていくような感じ、自然と身震いしていた。
「…………」
気配、振り向く。
夕暮れに差し込む、影がひとつ、立ち尽くしている。
暮れてゆく太陽を背に、長く伸びた影法師が、マリアの足元にまで届いていた。橙と紅の混じった逢魔が時、暮れ六つ、大きな災禍を
「由羅……先輩……?」
問いかけてから、違うと気がついた。
長い前髪で顔を隠している彼女は、雲谷先生の隣に住んでいたご近所さんだ。背格好が似ているが、雰囲気が異なっている。長年、由羅と一緒にいるマリアだからこそ、その感覚で別人だと察しがついた。
だが、しかし、同時にソレは――由羅に酷似している。
「あんた……」
恐ろしさで、マリアは
「誰……?」
――
アキラの声音が、改めて、耳元に吹きかけられたかのようだった。全身の皮膚が粟立っていて、口から悲鳴に近い息が漏れる。
逆光で反射するスマートフォン、影はこちらに、画面を見せつける。
『あきらくんは、私のものだ』
拡大されたテキスト、ただそれだけなのに、マリアは恐怖で凍りつく。
『この世で手に入らないなら』
女性の人影が、三日月の形に裂かれて――
『あの世で手に入れる』
「アハッ!」
引き裂かれた、黒色の影、満面の笑み。
ぞくりと、悪寒が全身を貫いていって――マリアは、逃げ出した。
正確に言えば、逃げ出したのではない。アキラに伝えなければならないと思った。目の前に立つ由羅の
「桐谷……!」
泣きそうになるのをこらえながら、マリアは走った。
――なんだか、あんたも、大変なことになってんのね……一部の女性に好かれる体質か……
「桐谷……逃げなきゃ……先生と争ってる場合じゃない……桐谷、あんたは……クズなんだから……」
――王子とツバメは、なんのために救ったんだろうな
涙を飲み込みながら、マリアはささやく。
「逃げて……良いのよ……っ!」
彼女の懸命な訴えは、風に吹かれて消えていった。
バスの窓を通して、影と光が乱れ合う。
太陽とバスの逢瀬を拒む建造物が影を作り出し、そこを過ぎると、橙色の優しい光が入ってくる。あたかも、光と影が踊っているかのようだった。即席の影像たちが、光の妖精とじゃれ合っているかのようにも視える。
「桐谷」
ぼんやりと、窓の外を見つめていると、先生に優しく呼びかけられる。
「疲れたか?」
「……そうですね」
窓枠に肘をついている俺は、適当な返事を返す。
「もう、終わりにしても良いかもしれません」
「……そうか」
頭を撫でられる。
払いのける気力もなくて、為すがままになっていると、頭ごと抱き締められた。その冷たさに、悲しみを覚える。
「幸せにするよ……誓う……私の全身全霊をもって、お前のことを幸福にしてみせる……安心してくれ、モモ姉に約束したんだ……彼女の献身に応えるためにも、今度こそ、お前を幸せにしてみせる……」
今度こそ、か。
――桐谷彰……お前は、救われる……否、救われなければならない……
あんたは、俺に誰を重ねようとしてるんだ?
「さすがの貴女でも、空港に行くフリをして戻ってくるなんて、読み切れるわけもなかったと思うんですが」
「一度、私は、マリアの
――ワンコールをご
思い出して、俺は、自分の迂闊さにため息を吐く。
「位置情報を取得されて、当たり前か。あの時点で、仕込んでたんですね」
「あの状態で、マリアを連れて行くのはわかってたからな。手駒をほぼ全て奪われた状況でも、“歩”を動かせるならば、誰だって試してはみるものだ」
「わかってたなら、なんで、水無月さんたちには教えなかったんですか?」
雲谷先生は、俺の頭を撫でながら微笑する。
「都合が良いからな……利害の一致というヤツだ……水無月たちが、桐谷彰は海外に逃げて手出し出来ないと思わせれば……対応の時間が稼げる……私にとって、一番マズいのは、水無月たち全員を敵に回すことだ……いずれ、裏切るとわかっている手駒は、手元には置かずに処分するのが
敗けたな。
俺は、苦笑する。
完膚なきまでに、読み合いで敗けた。
「桐谷、少し眠れ……目的地までは、まだかかるぞ……」
うとうとしつつ、俺は、抱かれたままつぶやく。
「どこに……向かってるんですか……?」
「私の生家だ」
先生の生まれ育った家……この
俺たちだけが乗っているバスの中に、か細い子守唄が響き渡る。綺麗なソプラノ、その温かくて優しいフレーズに、俺は幼い頃の記憶を重ねる。
「これ……聞いたことがある……モモ先生が……母さんが、よく歌ってくれた……綺麗な子守唄……」
「賛美歌312番」
俺は、まどろみに身を預ける。
「『いつくしみ深き』」
目を閉じる。
『おやすみ、アキラ』
かつての、慈しみに溢れた笑顔が――まぶたに、浮かんだ。
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