He wants, she wants
いない!?
空港に駆け戻った淑蓮の目に入ったのは、水無月結のいないチェックインカウンター、フィーネ・アルムホルトの消えた保安検査場だった。
なにがあったのかはともかく、兄の脱出路は空けられている。既に飛行機に乗り込んでいても、おかしくはない。
どうする……どうするどうするどうするっ!?
焦燥に覆い包まれた淑蓮は、爪を噛みながら、苦悶を口から漏らし――通りすがりの係員をつかまえる。
「すみませんっ!! 私、迷子なんです!! 家族を呼んでください!! 両親からスマートフォンを持たされているんですが、どこかで落としてしまって!! その旨も含めて、アナウンスで両親を呼び出してもらえませんかっ!?」
「え……あ、あぁ、はい……お名前は……?」
「桐谷淑蓮です!! 早くっ!!」
迷子とは思えないくらいに、はっきりとしている淑蓮を不審に思いはしただろうが、係員の目から視れば彼女は幼い少女だ。本人が迷子だと言い張るのだから、アナウンスしてやらない理由もない。
数分後、空港内にアナウンスが響き渡る。
『迷子のお知らせを致します。
桐谷淑蓮ちゃん、桐谷淑蓮ちゃんが、国内線ロビーでお連れ様をお待ちです。スマートフォンをなくされて、連絡をすることが出来ません。お心当たりのあるお客様は、国内線ロビーまでお越しくださいませ』
二回、アナウンスが流れて、空港外からゆいとフィーネが駆けてくる。
「スマートフォンをなくした!? スマートフォンをなくしたってどういうこと!? だったら、あの連絡はなに!?」
「衣笠由羅に奪われました!! あの
「
息を詰まらせながら、淑蓮はゆいに詰め寄る。
「なんで、ココを離れたんですかっ!! なにがあっても、離れるなって、先生が言ってたのに!!」
「衣笠由羅にスマートフォンを奪われてるなんて思いもしなかったのよ。歩道を歩いてる最中に、トラックに轢かれるなんて、可能性があったとしても誰も思いはしないでしょう?」
「
なんで、無断で離れたんですかっ!?
とは、言えなかった。
恐らく、自分でもそうする。アキラを捕まえさえすれば、彼の死を食い止める手段自体は、雲谷渚と協力しなくてもどうとでもなる。アキラ確保の情報が正しいと判断できれば、先生を切り捨てるのは当然とも言えた。
即席のチームの絆なんて、そんなものだ。
「写真……」
もうひとつの
「ゆい先輩、私に写真を送った!? お兄ちゃんを捕まえたって写真!!」
「はぁ? 送るわけないでしょ?」
愕然とする。予想されていたことだったが、大きな
「だ、だったら、スマートフォンを奪われてたんですか?
だ、だって、私にチャットで――」
そこで、ようやく気がつく。
水無月結のアカウントが――
「
アキラくんがゆいに成りすまして、渚に成りすましてたのは……スミレの
愕然とする。
その場に崩れ落ちそうなくらいに、心身ともに落ち込んでいくのを感じながら、かろうじて淑蓮は口を開いた。
「だ、だったら、この写真は……?」
「貴女、Exif情報から、撮影日を確認してないわね?
二枚とも、数日前にこの空港で撮られた写真よ。たぶん、アキラくんは、最初からこの空港に逃げ込むつもりだったんでしょうね。事前に撮影しておいて、完璧なタイミングで貴女に送付し、
自身の愚かさに、その場で叫びだしそうになる。
こんな手口に引っかかるだなんて、平常時の淑蓮では考えられないことだった。なぜ、騙されたかと言えば、立て続けに許容量以上の情報を叩き込まれたこと、予想だにしない“衣笠由羅”という存在が混乱をきたしたこと……このふたつが挙げられる。
――
いずれにせよ、あの時の淑蓮は、確かに――
「……お兄ちゃんは、十数分前から搭乗待合室にいるみたいでした」
「それも、なんらかの
「外にいたってことは、たぶん、搭乗待合室内にいるような“音”を聞かされたんでしょう? 音源データなんて、幾らでもネットから拾ってこれる」
移り変わる電光掲示板、搭乗案内が切り替わって、飛行機が飛び立っていくのを教える。沈黙に沈む三人の間に、アナウンス音が虚しく響き渡る。
「また、負けたわね」
水無月結のつぶやきに、淑蓮は
「……ママ」
ゆいのスマートフォンを借りて、淑蓮は母親に電話をかける。
『なぁに、淑蓮ちゃん? 愛しのママの声で、先祖返りしたくなっちゃった? ばぶばぶぅ?』
いつもならば、笑って受け流せる冗談だったが、淑蓮の口から出てきたのは乾いた笑い声だった。
「……なんで、お兄ちゃんの味方するの?」
『だって、産みの親だもの』
「産んでないでしょぉ!! ママが産んでないから、私が、お兄ちゃんと結婚出来るのぉ!! 結婚式に来てくれるって、この間、約束したのにぃ!! なんで、いっづもいっづも、ママは約束破ってばっかりぃ!! もぉ、ぎらぃいいいいい!!」
泣きながら、感情を爆発させると、ゆいとフィーネは目を丸くする。
淑蓮は、ぐずぐずと鼻を啜りながら涙目を擦る。フィーネから手渡されたティッシュで鼻を噛んでから、ようやく平静を取り戻す。
『だって、アキラくんの頼みだものぉ。ココで、ママポイントを溜めておかないと、遅れて反抗期が来ちゃうでしょう? ほらぁ、この間の教育テレビでも、母親の愛情が、屈折しない子供を育てるって言ってたじゃない?
ところで、屈折って、どういう意味?』
「も、もぉ、余計なこと……し、しないで……」
『幾ら、淑蓮ちゃんの頼みでも、それは無理よ~。だって、もう、アキラくんに頼まれちゃって『うん』って言っちゃったもんっ。今回のことだけじゃなくて、終わった後のことも言われてるの。
まるで、スパイ映画みたいで、ママ、ワクワクしちゃっ――』
電話を切る。
無言で、ゆいにスマートフォンを手渡すと彼女は苦笑する。
「泣かなくていいわ。きっと、わたしたち、何回やったところで、アキラくんには勝てないもの。彼の操る“愛”に翻弄されて、引っ掻き回されるのがオチ。
冷静にまともな状態で挑めば、百戦中百戦、否応なしに勝てるでしょうけど……それが無理だってこと、貴女にも、わかってるでしょう?」
「“He wants” the female happiness which breaks and “is wanted” for male happiness, said」
美しいフィーネの
「男の幸せは「われ欲す」、女の幸せは「彼欲す」ということである……ニーチェとアキラくんって、死ぬほど気が合いそうだわ」
まさに、兄のために用意されているかのような言葉だった。だからこそ、淑蓮は、真の敗因を受け止めざるを得ない。惚れたら負けとはよく言うが、最初から、勝てる戦いではなかったのだ。
「彼に勝てるとしたら」
空港から三人は歩き出て、飛び去っていく飛行機を見つめる。
「愛を知らない人でしょうね……」
誰を指しているかは、容易に想像がついた。
「それで、肝心の雲谷先生はどこに行ったんですか?」
「Beats me.
お土産でも買いに行ってるんじゃない?」
もう、手の届かないところに行ってしまった兄を想いながら、これからどうするべきなのかを淑蓮は考えていた。
「……に、桐谷!」
揺さぶられて、俺は、座席の上で身じろぎする。
「着いたわよ、ほら、とっとと起きて。口元に、よだれ、ついてるじゃない。どれだけ、熟睡してたのよ。
こっち向いて、拭ってあげるから」
優しく口元を拭かれて、俺は、大きく背伸びをする。
「……もう、着いたのか?」
「そうよ。ほら、立って。他の人の迷惑になっちゃうでしょ」
マリアに
閑散としているバス停には、ちらほらと人影がある。駅前にまで買い物に来ている人たちが、時刻表の前にたむろしていて、ショッピング先について相談していた。
その横をすり抜けて、歩き始める。
「ようやく、戻ってきたなぁ……空港に行くフリして、直前で引き返すだけの簡単なお仕事だったわりにはよく寝た……」
「アカウント偽ったり、電話かけたり、色々と
それで? コレで、もう、海外に行ったフリは終わり?
「お前の家」
「死ね」
「親父の実家にでも逃げるよ。高校の単位は足りてるから、多少は休んでも問題ないだろうし、ジジババどもは俺の愛らしさに文句も言わねーだろ。
淑蓮たちが痺れを切らして、俺を求め始めた頃合いに戻ってきて、味方に着くように説得すれば勝利確定だ」
バスを乗り換えるために歩きながら、マリアは嘆息を吐く。
「よくもまぁ、こんなこと考えつくわね。徹頭徹尾、自分をダシにしたこんな作戦、新宿のホストだって真っ青よ」
俺が相手してるの、
俺は、住宅街に戻るために、乗り継ぎのバス停のベンチに腰を下ろす。後ろ側のベンチに座っている、新聞を広げていた女性が身じろぎをした。
「おい、プリン・ア・ラ・モード、買ってこいよ」
「どの店のが良いの?」
コイツ、平然とした顔で、プリン・ア・ラ・モード買ってこようとしてる……心魂にまで染み付いたパシリ魂……こんな人間に育てた鬼畜の顔が視てみた――俺や……。
「お、オレンジジュースでいいや」
「あんまり、甘いものばっかり飲んでちゃダメよ。今回は、頑張ったから良いけど、普段はお茶とかにしておきなさい」
俺の姉かなんかかコイツはとか思いつつ、歩いていくマリアの背中を見送る。背後から、新聞をめくる音が聞こえてきて、平和な日常にあくびを返した。
「で、次のバスって、何分後だ?」
「12分後だ」
俺の独り言に、背後から返答が来る。
「あぁ、コレは、ご丁寧にあり――っ!?」
聞き覚えのある声音、背筋が凍って、俺は振り向き――
「よう」
新聞紙をズラして、背後の雲谷先生が微笑を浮かべる。
「遅かったな、桐谷」
俺は、冷や汗を流しながら、かろうじて口端を曲げた。
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