幸福な王子
「3秒で来い」
「……は?」
俺の命令に対して、電話口の相手はそう言った。
「住所は、もう送信した。3秒位内に来なかったら、幼稚園児のフリをして『いつも、いじめてくれたおねえさんへ』と称して、お前の家に数百もの似顔絵と呪言を送りつける。期待の幼児虐待ガールとして名を
「は!? いや!? どういう意――」
電話を切る。
俺は、ゴミ捨て場から拾ってきた小説を片手でめくりながら、開けっ放しの窓から下を見遣る。
長い前髪で顔を隠したご近所さんが、電柱の裏側から、こちらを見上げていた。
目が合ったので、気さくに挨拶をすると、彼女は凄まじい勢いで逃げ出し――転んだ。足を引きずりながら、必死に逃走を続けており、追い打ちをかけたい気持ちになったが、面倒なので放っておく。
十分後――
「はぁ……はぁ……はぁ……!」
「遅いぞ、三流」
ようやく、マリアが到着した。
汗だくのマリアは、真面目も真面目に、制服を着込んでいた。俺が「入れ」と言うと、無言で距離をとって、制汗スプレーなどでケアを始める。
「急に意味不明な理由で謎の場所に呼びつけて、ようやくやって来た女の子に『遅いぞ、三流』って。
あんたには、常識ってものがな――いわねぇ!!」
「自己完結するなよ。会話を成立させろ」
手鏡でてきぱきと身だしなみを整えているマリアに飽きて、読書に戻っていると、いつの間にか影が出来ている。
「へぇ~」
四つん這いになったマリアが、反対側から、読書中の本を覗き込んでいた。
「あんたって、本なんて読むのね。毎回、RPGのレベル上げばっかやらされるから、ゲーム以外に趣味なんてないのかと思った」
「知識階級の人間として当然のことだ」
「誰が知識階級よ、あんたなんて常識低級で――ぎゃぁ!!」
胸元がぱかぱか開いていたので、引っ張って色を確認すると、とんでもない勢いで引っ叩かれる。
「……訴えますね」
「冷静に訴訟を起こすな!! なんで、あんた、要らんことばっかするのよ!! 人の下着を確認するって、犯罪なのよ犯罪!!」
「でも、自由研究の課題だし……」
「自由と無法を履き違えるな。
で、なに読んでるのよ?」
ぱっと、本を取り上げられて、
「『幸福な王子』……オスカー・ワイルドだっけ?
随分と、似合わないもの読んでるのね」
「そうか?」
返却されて、俺は、挿絵に描かれた『幸福な王子』を見つめる。
両目にはサファイア、腰の剣にはルビーが装飾され、全身は金箔で象られ……心臓は、鉛で出来ている『幸福な王子』という名の像だ。
この王子の像が、ある日、渡り鳥のツバメの助けを借りて、貧しい者たちにすべてを与えていった。
唯一の財産であるルビー、己の両目であるサファイア、皮膚とも言える金箔を分け与えていき、最後にはみすばらしい姿の銅像と……冬を迎えて、死に絶えた
あまりに汚らしい王子の銅像を前にして、救われた街の人たちは、像を融かすことにした。王子の清き心に感嘆して、貧者への施しを手伝ったツバメの死骸と一緒に、融けなかった王子の
「この物語の最後で、唐突に現れた天使と神に、王子とツバメは救われて楽園での幸福を約束された……だが、もし、最後に、天使も神も現れなかったら」
俺は、救った筈の人々の手で、溶鉱炉へと落とされていく王子を見つめる。
「王子とツバメは、なんのために救ったんだろうな」
「……王子もツバメも、きっと、気にしたりはしないわよ。
彼らの優しさが、多くの人たちを救ったんだから」
「もし、俺が死ぬことで、多くの人々が救われるとしたら」
俺は、マリアにささやきかける。
「お前は、気にしたりしないか?」
「え……い、いや、急になんの話? どうしたのよ?」
「別に」
俺は、本を閉じる。
「ただ、お優しい王子は、きっと……ツバメだけでも、救ってやりたかったと思うよ」
息を呑んで、聞き入っていたマリアは――ハッと、顔を上げる。
「き、桐谷! な、なによ、らしくないじゃない! あんた、そういうキャラじゃないでしょ? ちょ、ちょっと待っててよ、ジュースでも買ってくるから」
こちらがなにも答えないうちに、マリアは、靴を履くのももどかしいとばかりの慌てようで、外の自販機にまで駆けていった。
――アキラくんは、幸福な王子って知ってるかなぁ~?
何度も何度も何度も、繰り返し、俺を膝に抱いたあの
――先生は、幸福な王子になりたいの
幾度も。
――渚は怒るけどね、先生は、ただ分け与えたい
幾度も。
――愛がこの世界にあるって、先生だけは信じてあげたいの
幾度も。
――先生は、アキラくんを愛してるからね
幾度も、言っていた。
「……参ったな」
窓から見下げた俺は、自販機から、こちらに戻ってくるマリアを見つめる。
「冬が来る前に、終わらせるしかないのか」
外の階段を駆け上がる音を聞きながら、目を閉じる。
「まぁ、最後くらいは」
――先生は、アキラくんを愛してるからね
「らしくないことでもするか」
駆け込んできたマリアが、俺へと缶ジュースを差し出す。
俺は、彼女に、微笑みを向けて――
「テメェ!! 俺は、炭酸飲めねーつってんだろ、買い直してこいやボケがぁ!!」
手元にあった、幸福な王子を投げつけた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます