男は死んだ。だが、沼男《スワンプマン》は生きている

「桐谷……」


 出前をとった俺たちは、寿司をぱくつきながら、向かい合っている。


 対面に座った雲谷先生は、こちらの様子をうかがいながら、巻き寿司ばっかり食べていた。


「せ、先生と、仲直りしないか……昔から、感情的になると、論理的に喋れなくなるんだ……反省してるから、許してくれないか……?」


 醤油皿ひとつない部屋。


 俺は、タコを食いながら、殺風景な室内模様を眺める。


 まるで牢獄みたいな一室で、先生はなにを目的として生きてきたのか、なんのためにこの無機質な生活を続けてきたのか。


 ――桐谷彰……お前は、救われる……否、救われなければならない……なんのために、お前の傍に居続けていたと思ってる……


 先生は、俺の傍にいるために、教師という職を選んだのだろうか? 己の意思すらも捨てて?


「桐谷……頼むよ、お前とは喧嘩したくない……」

「…………」


 俺がそっぽを向くと、悲しそうな顔をして、先生はすり寄ってくる。


「ほ、ほら、桐谷! トロだぞトロ! お前、好きだろ? 美味しく食べてもらいそうに、ほ~ら、空を泳いでるぞ~! トロの空中遊泳なんて、そう視れるものじゃない! とろとろとろ~!!」


 26歳児が、真剣な顔で、寿司で遊んでる……過ぎ去っていく結婚適齢期のせいで、現実を受け止められない脳が、幼児退行を引き起こしているとでも言うんだろうか……(考察)


「先生は」

「お! な、なんだ!? なんだ、桐谷!?」


 俺が口を開くと、先生は心底嬉しそうに、笑って問いかけてくる。


「生きてて、楽しいですか?」


 そして、その笑顔が凍りつく。


「……この部屋は、あまりにも、非人間的過ぎるか?」

「一般的な観点から視れば」

「そうか」


 苦笑した先生は、つまんでいた寿司を置いた。


「桐谷……楽しいとは、なんだ?」

「善人から、金を搾り取ることでしょうね」

「桐谷、今、真面目な話してるぞ」


 金について話す人間は、いつだって、大真面目なんだが?


「『楽しい』というのは、快楽物質ドーパミンの分泌のことだよ。各々のもつ引き金トリガーに対して、要素ファクターが引っかかった際に、起こる反応のひとつに過ぎない。

 丁度、お前の誘引情報フェロモンによって、脳の受容体が刺激されるみたいにな」

「先生って、フィーネと似たような論調ですよね。なにかと論理付けて考えて、はすに構えて視るところとか」


 先生は、笑う。


「あの子も、恋愛否定派だからな……フィーネが、血液型占いの本を読んでいるところなんてまるで想像できない」

父親パパに依存してるだけですからね。恋愛経験ゼロだからこそ、俺を父親パパに出来ると思い込んだんでしょ」


 タマゴをつまんだ先生は、フタに溜めた醤油につけて頬張る。食事をしている時の先生は、無表情で、ただエネルギーを摂取するための行動としか、思っていないようだった。


「モモ姉の墓がある」

「は?」


 唐突に変わった話題に、俺は、イクラを飲み込み損ねてむせる。


「なんですって?」

「モモ姉の墓があるんだ。水無月たちを騙すために使った」

「……本物ですか?」

「生前墓だよ」


 ガリをこねくり回しながら、先生はつぶやく。


「恐らく、水無月や淑蓮あたりは、傷隠しテープで没年を隠したとでも推測するだろうが……そっちは、ただの偽装ブラフだ。実際のところ、私が誤魔化したのは、墓石に刻まれた文字色だからな。生前墓に刻まれた名前は、存命中は赤に染めるのが通例だ。

 墓には『西条桃』と俗名が刻まれてるが、表面に塗料を塗り込んで、赤色には視えないように細工した。前日に雨が降らなくて、助かったよ」

「生前墓って、生きてる間に、作っておくお墓のことですよね……なんで、そんなもの……相続税対策ですか……?」

「お前は、金のこととなると、なんでも知ってるな」


 先生は、くすりと笑って、寿司を選ぼうとし――やめた。


「モモ姉にとって、死が到達点ゴールだからだ」

「なら、俺の到達点ゴールは、直電ワンコールで10万円もってくる奴隷の量産かな」

「斜め上方向から、張り合ってくるのやめてくれるか?」


 真面目ぶった顔をしているので、ガリを顔面に叩きつけてやると、教育指導(物理)を受けたので拝聴の姿勢に入った。


「……桐谷」


 先生は、表情を消して、ささやく。


沼男スワンプマンって知ってるか?」

「……いえ」

「晴天」


 唐突。


 雲谷先生は、沼男スワンプマンのお話を語り始める。


「外へと散歩に出かけたある男が、曇り空ひとつない空の下で、運悪く雷に打たれて死んでしまった。その男の傍には、沼があった。

 昏い昏い。

 どこまでもくらくて、くらくて、くらくて、たまらないくらいに底冷えしている沼だった。丁度、男が雷に打たれて死んだ時、その昏い沼にも、もうひとつの落雷が潜り込んだ」


 膝を立てて座っている先生は、ぼそぼそと、目の前の空間をめつけながら語る。


 ――生きている間に、七回も落雷に遭う人間もいる


 俺は、思い出している。


 ――その確率は、22,000,000,000,000,000,000,000,000分の1


 もうひとつの、落雷の話を。


「男と沼、両者に落ちた落雷。雷を浴びた泥沼は、化学反応を引き起こし、死んだ男と全く同一の生成物を生み出した。

 泥とも人とも思えぬ沼男スワンプマンは、その昏い昏い瞳も、人懐っこい微笑みも、好きな食べ物も愛した女性も、悲しみの感じ方も爪の先の曲がり方さえも、原子分子素粒子レベルで同一の姿形と要素と構造を呈していた」


 聞き入った俺は、箸をテーブルに置く。


「男は死んだ。だが、沼男スワンプマンは生きている。

 沼男スワンプマンは、己が人間であると信じ込んでいた。彼は、自分が落雷に打たれたものの、奇跡的に助かったと信じ込み、敬虔なクリスチャンとしていつものように神に祈りを捧げた。

 男は死んだ。だが、沼男スワンプマンは生きている。

 沼男スワンプマンは、男の家へと帰って、大好きな両親と一緒に談笑しながら食事をした。小さな妹のために読み聞かせをして、枕元の小説を12ページ読んで、小さな灯りを眺めてから眠りに落ちた。

 男は死んだ。だが、沼男スワンプマンは生きている。

 沼男スワンプマンは、愛する女性に告白をして、彼女は男からの愛を受け入れた。幸福の絶頂を感じながら、彼は大好きな妻に愛を捧げ、子供をもうけて、毎日のように幸せな日々を送った。そして、徐々に年老いていき、孫たちに囲まれながら、眠るようにして息を引き取った。

 男は死んだ。そして、沼男スワンプマンも死んだ」


 先生は、そっと、俺に告げる。


「果たして、男と沼男スワンプマンは、同一人物と言えたのだろうか?」


 なにかを言おうとして、なにも口にはできず、黙り込んだままの俺を見つめて、先生は哀しそうに口端を曲げる。


「モモ姉は、あの墓を作ったことで、沼男スワンプマンになった。あの女性ひとは、死という名の救済を迎え入れて、本物オリジナルに還りたいと願っている」


 先生は、微笑む。


「そして、きっと、私も、な」

「なんで……そこまで……?」


 彼女は、なにも宿していない目で、俺を見つめた。


「愛だよ、桐谷」


 瞳の中で、無が、渦巻いている。


「お前の言うところの」


 憎悪を押し隠しながら、ぐるぐると、螺旋を描いて――


「くだらない、愛だよ」


 回っていた。

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