番外編④桐谷淑蓮と、水族館で寿司議論をする話

 水族館の前で、腕時計に目をやる。


「お、に、ぃ、ちゃ~ん!!」


 思い切り、背中側から抱きつかれて、首筋に何度もキスをされる。


 その光景を目撃していた、周囲の方々が、ぎょっとしていた。兄妹だとしても、あからさまに過剰なスキンシップだ。驚きを隠せないのも無理はない。


「……下りろ」

「はーい! わかりましたー!」


 笑顔の淑蓮は下りて、こちらに向き直る。


 斜めにかぶったキャップと、ぶかぶかのカジュアルパーカー。下に短パンを履いているのだろうが、パーカーの丈が長いので、なにも履いていないようにも視える。というか、それが狙いのファッションだろう。


 袖で手先を隠した淑蓮は、ニコニコ笑いながら、俺の手を引っ張った。


「お兄ちゃんと、ふたりきりで、デートなんて久しぶりだねっ! 私、昨日から、楽しみにし過ぎてて、高血圧症で病院送りになるところだった!」


 女子中学生で高血圧症って、血がラーメンの汁レベルだぞお前。


「ところでねところでね! 私、ちゃ~んと、大好きなお兄ちゃんのことを想って、デートの用意をしてきましたぁ!」


 俺も、ちゃ~んと、過剰スキンシップの妹を想って、帰宅の用意をしてきましたぁ!(自宅方面電車時間完全記憶トレイン・コンプリート)


「はい! お兄ちゃんの大好きなジュース!」


 そう言って、淑蓮は、いそいそと鞄から飲み物を取り出す。


「はい、どうぞぉ! 召し上が――」

「なんで、既にフタが空いてるの?」

「…………」


 淑蓮は、無言で、鞄に飲み物を仕舞い直す。


「それじゃ、行こっか、お兄ちゃん!」


 俺の妹は、気遣いが出来て、とってもお利口だなぁ!


 この水族館は、最近、リニューアルされたばかりだ。


 連日のテレビで、紹介されていたこともあり、水族館の前には行列が出来ていた。待ち時間が面倒ではあるものの、並ばざるを得ない。


 俺とイチャつけるチャンスと言わんばかりに、腕を組んできた淑蓮が、甘えた声を出しながら擦り寄ってくる。


「お兄ちゃん、好き好き好き好き好き好き好き好き好き、お兄ちゃん、好き好き好き好き好き好き好き好き好き、お兄ちゃん、好き好き好き好き好き好き好き好き好き、お兄ちゃん、好き好き好き好き好き好き好き好き好き、お兄ちゃん」


 ぼくの玩具いもうと……壊れちゃった……(ぐすん)。


 ようやく入場することができて、手を繋いだ俺たちは(俺は、握っちゃいないが)、薄暗い水槽で出来たトンネルを潜っていく。


「視て視て、お兄ちゃん! アレ! エイエイ!!」


 俺たちの真上を、巨大なエイが通り過ぎていく。エイの腹辺りを指差した淑蓮は、興奮で頬を上気させ、小さく跳ねながら俺の手を引いた。


 無邪気な反応。


 コイツもまだ、中学生なんだよなと思う……妙な技能を身に着けているせいで、あまり、そう思える時がないけれども。


「淑蓮」

「なぁに?」

「お前なら……どうやって、エイを寿司にする?」

「しない!」


 はにかんだ淑蓮は、俺に綺麗な笑顔を向ける。


「寿司には! しない!!」

「そ、そうすか」

「お寿司の話はやめよ? せっかくのデートなんだし、綺麗なお魚を寿司ネタにして、食欲を満たそうとするのはやめよ?」


 せっかく、水族館にまで来たのに、寿司の話以外、なにをすればいいんだろうか? 動物園に行って、肉の話をしないようなものだと思うが。


 水槽のトンネルを抜けて、俺たちは、マグロの群れが泳いでいる巨大な水槽の前に立つ。マグロの身が赤いのは、血液に含まれている『ヘモグロビン』や『ミオグロビン』が、多いからだと解説に書いてあった。


「へぇ……水無月さん辺りが、自分の血で寿司を握ってきて『はい、マグロ一丁♡』とか言ってきそうだな」

「…………」


 俺の片手を両手で掴み、ぶらぶらと揺らしながら、淑蓮は頬を膨らませた。


「な・ん・で、私と一緒にいるのに、水無月先輩の話するのぉ~!? 別にお兄ちゃんがなにを考えようとも、私は邪魔する気はないけど、なんだか水無月先輩の話されるのは、や!」

「なら、淑蓮の話にする?」

「う、うん!」

「だから、俺は思ったんだよ。淑蓮辺りが、自分の血で寿司を握ってき――」

「違うね。私の逸話として、すり替えて欲しいとは一言も言ってないね。

 でも、お兄ちゃんは、平常運転で素敵。そんなところも大好き。愛してる」


 俺の妹は、今日も無敵です。


「お前の、嫌いな寿司ネタってなんだっけ?」

「…………」

「お~い!」


 不貞腐れて、俺の背中に抱きついたまま、よちよち歩く淑蓮がそっぽを向く。


「怒ってんの? なんで?」

「…………」


 俺の背中に顔を埋めたまま、答えようとはしない。すっかり、ねモードである。


「お~い、淑蓮ちゃ~ん? どうちたのかなぁ~? 深海に顔面突っ込まれて、チョウチンアンコウの仲間入りしたいのかなぁ~?」

「知らない。

 お兄ちゃんなんて、嫌――大好きぃ!!」


 こんなにも、躍動している情緒、はじめて視た……


「わかった。私、お寿司の話もする。お兄ちゃんのこと愛してるから、頑張って、お兄ちゃんの領域ゾーンに到達する」

「じゃあ、俺の問題出していい?」

「いいよ」

「お」

「下から三段目」


 こわい(問題全文『俺の部屋にあるタンスに、お菓子がはいっている段は上から三番目……ですが。下着が入っているのは、何段目でしょうか?』)


「じゃあ、私も、お兄ちゃんに問題だすね? ね?」

「おいおい、俺が、何年、お前の兄をやってきたと思ってる。楽の章(楽勝のお洒落な言い回し)だよ」

「なら、まずは小手調べ!

 私の誕生日は、いつでしょぉ~か?」

「……………………」

「じょ、じょうだんだよね?」


 笑顔が固まった妹の前で、俺は、必死に考えを巡らせる。


「待て……ちょっとだけ、時間をくれ……お前の学費を入金してる、銀行の口座番号ならわかるんだ……だが、誕生日は……相手になにかを与えなければならない日って、基本的に意識の外だから……」

「い、いいの! だいじょうぶ! 私は、お兄ちゃんのこと大好きだから! だ、だから、いいの!」


 などと鼻声で言うものだから、俺は、ため息を吐いて答える。


「6月1日だろ?」

「あっ……」


 ぱぁっと笑って、淑蓮は、正面から俺に抱きつく。


「愛の力だぁ!」


 通信力だぁ!(母親にメールで教えてもらった)


 イルカショーの案内アナウンスが、館内に流れる。淑蓮が行きたがったので、まぁ良いかと外に出てみることにした。


 晴天の空の下。


 スタッフたちが、グッズやら食べ物やら飲み物やらを売っていて、早くも最前席をキープしている親子連れで賑わっていた。中央にある舞台上のプールには、本日の主役はまだ姿を現しておらず、俺たちは真ん中辺りに腰を下ろす。


「淑蓮、飲み物でも飲むか?」

「え……」


 立ち上がった俺を見上げ、淑蓮は頬を桜色に染める。


「か、買ってきてくれるの……ど、どうしよう……し、心臓、バクバクしてる……お兄ちゃんへの愛で、心室細動起こしそう……抱きついちゃうかも……」


 その時は、AED(Aberrant Embrace Defense)してやるよ。


「い、いいの、ホントに?」

「あぁ、もちろん」


 俺は、笑顔で手を差し出す。


「だから、財布を出せ」

「うんっ!」


 淑蓮の金で飲み物を買ってきて、ふんぞり返った俺は、イルカショーとやらに目線をやる。好き好きいいながら、俺の胸板に顔を擦りつけてくる淑蓮は、猫かなにかだと思ってショーに集中した。


 華やかな音楽が流れ出し、スタッフたちの手の動きに合わせて、イルカどもが跳ねたり泳いだり弾いたりする。水しぶきが上がる度に、淑蓮は「きゃー!」とかいうわざとらしいセリフを言って、俺の服の中に隠れようとした。


 頭を引っ叩くと、涙目で出てくる。


「お、お兄ちゃんの匂いが、一番、安心するんだもん……」


 妹避けに、今度から、全身に味噌塗りたくってこようかな。


 イルカショーが終わって、館内に戻る。

 

 話は、好きな寿司ネタへと及んだ。


「俺は、タコなんだよ」


 海の生物との触れ合いコーナーで、ナマコを触りながら俺は言った。


「知ってる。

 う~ん、私は――」

「イクラだろ」


 即答すると、淑蓮は目を丸くする。


「う、うん……二番目は、イカかな」


 イクラはともかく、おかしいな……家族で寿司屋に行った時は、人体実験と称して、いつもガリだけ食わせてきたのに……まだ、反抗期の頃で「死ね!!」とか言ってた頃だったからかな……


「というか、お前も、俺の教育の賜物で可愛く育ったなぁ」

「ん~!」


 なんで、目を閉じて、唇を突き出すのかわかんない。


「家に来たばかりの頃は、自宅でひとりサバゲーしている俺のことを睨みつけ、舌打ちして『……消えろカス』とか言ってたのに」

「忘れてっ!!」


 切羽詰まった顔で、淑蓮は俺に詰め寄ってくる。


「お、お兄ちゃんを好きになったのが、本物の淑蓮だよ……あ、あんなこと言ってたの……本当に忘れて欲しいの……今は、心から、愛してるから……なんなら、タイムスリップしてぶっ殺してくるよ……?」


 随分と、手の込んだ自殺だなぁ。


「と、ところで、お兄ちゃんは、ガリに合うお寿司ってなんだと思う?」


 露骨に話題を変えてきたので、優しい俺は、ノッてやることにした。


「コレは間違いない。オニオンサーモンだ。ガリの辛味とマヨネーズの重さが相殺されることで、ふくよかなハーモニーを刻みだす。口の中に残るのは、爽やかなサーモンの甘みと、オニオンの食感だけだ」

「なんでかわかんないけど、私、ガリ単品で食べるのが好きなんだよね……そんなに、美味しいとも思わないのに……なんでだろ」


 人体実験、成功してるぅ~!!(歓喜喝采)


 寿司の話をしながら、ヒトデをひっくり返したりしていると、あっという間に日が暮れていた。最後にお土産コーナーに立ち入ると、淑蓮は、じっとイルカのペンダントを視ていて、俺の視線に気づくなり目を逸らす。


「帰ろっか?」


 俺は、頷いて、外に出る。


 太陽が、傾いていた。


 オレンジに色づいた空が、茫漠とした情感を刺激する。一日の終わりを迎える寂しさが、世界を覆い隠していくみたいだ。子供を背負った父親が、横を通り過ぎていき、淑蓮は、哀しそうにその背を見送った。


「……羨ましいか?」

「どうなんだろ、わかんない。元々のお父さんって、あんまり、憶えてないし。今のお父さんに、おんぶをせがむのもなんかちがうなーって」


 手持ち無沙汰になった俺は、ポケットに両手を突っ込む。


「いつも、お前、絶対にお土産を買わないよな?」

「うん、だって」


 後ろ手を組んだ淑蓮は、振り返って――橙色の中で、笑った。


「失くしちゃったらいやだから」

「…………」


 俺は、そっと、淑蓮に近づいて……その手に、“タコ”のペンダントを握らせる。


 呆気にとられた淑蓮は、くすりと笑って、俺を見つめる。


「なんで、タコ? イルカ、くれるのかと思った」

「俺が好きだから」


 それから、俺は、しゃがみ込んで背を差し出す。


「ほれ」

「……いいよ」

「こういう時にだけ、遠慮すんな。

 いいから、乗れ」


 遠慮がちに、首に手を回してきた淑蓮が、俺の背に乗った。


 歩き出す。


 ぎゅっと、力強く、淑蓮は俺を抱きしめる。


「……お兄ちゃん」

「ん?」

「大好き」

「兄として、な」


 そっと、淑蓮は、ささやく。


「私」


 俺は、ただ――


「絶対に、お兄ちゃんだけは失くさないから」


 聞こえないフリをする。


 夕暮れの中を歩きながら、俺は、瞳の中に怯えを隠していた頃の淑蓮を思い出す。


 あの時の淑蓮は、寿司屋で、イクラを食う時だけ――笑っていた。

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