一匹の爆弾

 俺は、全裸だった。


「……そうきたか」


 フィーネの邸宅には、古代ローマの公衆浴場バルネアもかくやと言った、俺の家よりもデカい浴室が備わっていた。なんせ、風呂の中に柱があるくらいだし、大理石で象られた浴槽は異様なくらいに光り輝いている。


 てっきり、拷問部屋にまで連れて行かれて、手足の数本はぶった切られるかと思っていたが、まさかの日本の心、風呂である。にごり湯の中から、スタンガンを携えた水無月みなつきさんが出てきそうで、思わずお湯の中を念入りにチェックしてしまった。


 しかし、コレではっきりしたな。フィーネは、俺に手を出すことはできない。盤上遊戯チェスの最中での脅迫は、ただの脅しにしか過ぎず、アイツが俺のことを傷つけることは不可能ということだ。


 まぁ、正直、賭けは賭けだったが……まさか、五体満足でくぐり抜けられるとは。フィーネだったら、俺を芋虫にして、毎日青汁を飲ませるくらいは笑顔でやりそうだったのに。


 俺の想像以上に、パパへの愛が深くて重いというこ――


「パーパ♡」


 背中に柔らかい感触。


 振り向かなくても、誰がいるかはわかった。


「一緒にお風呂なんて、久しぶりだね。ちっちゃい頃に戻ったみたい。遊戯チェスの後は、いつも、ふたりでお風呂に入って色んなお話をしたよね」


 生やん……この柔らかさ、生やん……


 ヤンデレとふたりで風呂に入るのは、そんなに珍しいことでもないが、生で攻めてくる猛者はあまりいない。


 水無月みなつきさんは「視られるのが恥ずかしいし……」とか正統派ヒロインみたいなことを言うし、淑蓮すみれはいつも脱いでるようなもんだし、由羅はなんで時々俺の家の風呂で水泳の練習してんの。


 全裸で立ち尽くす俺の前で、必死でバタ足をしている由羅(スクール水着Edition)を思い出し、興奮感がスッと消えていく。全裸の父親を思い浮かべるよりも、あの意味不明な恐怖感のほうがよほど効く。


「で」


 フィーネを振りほどいた俺は、湯船の中へと入っていく。


「目当ては、なんだ? 新手の拷問を加えるつもりなら、土下座するから、許してください。やめて」

「強気なのか弱気なのか、アキラくんはわからないね」


 裸体を隠そうともしないフィーネが追いかけてきて、にごり湯の中に身を沈めてゆく。きめ細やかな肌をもつ白い肩だけが、雲間から覗いた月みたいに、怪しげな光をまといながらつやめいている。


「腕時計、すり替えたでしょ?」

「……あの、もうちょっと、離れてもらえませんか? さっきから、足を絡めてくるの、やめてください」

悪戯Honey Trap


 笑ってられるのは、今のうちだけだぞ!! 俺が!!


 べたべたべたべた、寄り添ってくるフィーネの攻勢は見事だったが、俺には衣笠由羅という心強い味方がいた。俺の頭の中では、既に百人近い由羅がバタ足をしていて、あの時の冷えた感覚が蘇ってくる。


 なんで、コイツ、人の家の風呂で本気ガチのバタ足してるんだろ……?


「…………」

「その虚無みたいな顔……Incredible!

 フィーに迫られて手を出さないなんて、アキラくんくらいのものじゃないかな」

「もし、腕時計をすり替えてたとして」


 当然、着けたまま入浴している俺は、これみよがしに腕時計を見せびらかして、驕慢きょうまんに笑んで見せた。


「水無月さんたちと接触できなければ、俺に勝ち目なんてないだろ? 勝利条件は、俺の愛する対象が、この腕時計を鳴らすことなんだから」


 本当に愉しそうに、俺に寄り添ったフィーネは笑った。


「フィーの提示した勝利条件、ちゃあんと理解してるんだね。

 共通認識ルールがなければ、語ることもることも解ることもできない。相互理解っていうのは、共通の認識をもって同じ世界を視ることを言うんだよ。『赤』について知らない人間と『赤』について理解し合うことはできない。

 ひとりひとりの感覚質クオリアは異なるんだから、本来のフィーたちは、目の前のまやかしについて、共通認識ルールを設けることで理解し合う“フリ”をしてるだけなんだよ?」


 あのさぁ!! 腕時計の話しようよぉ、ガキじゃねぇんだからさぁ!!


「If you can’t explain it to a six year old, you don’t understand it yourself」


 はいはい、アロハアロハ。


「つまり、お互いに感じてることは理解できないから、両者に通じる意味合いに置き換える必要があるってことかな」


 最初からそう言えや裁判、開廷!! 有罪、死刑、閉廷!!


「それでね、アキラくん」


 いつの間にか、外れている腕時計――驚きを隠せなかった俺は、指先でくるくると、腕時計ソレを回しているフィーネを見つめる。


「今のが、非注意性盲目Inattentional blindness。対象が視野の中に入っていようとも、注意が向かなければ視えなくなる。人間の情報処理能力には限界があって、思考内容が日常と逸脱すればするほどに、注意の方向性ベクトルが散乱するようになってるんだよ」


 Three blind miceを口ずさみながら、嫣然えんぜんと微笑んだフィーネは、にごり湯の中に腕時計を投げ込んだ。人差し指をくるくると回っていたソレは、きらりと回転して、真っ白な湯の中へと消えてゆく。


「Ok, here is the question」


 フィーネは、ニコリとも笑わない目のままで笑う。


「フィーは、あの三匹の盲目ねずみのうちの一匹に“爆弾”を仕込みました……そして、もうそろそろ、爆発して死んでしまいます」


 三匹の盲目ねずみ――水無月結、桐谷淑蓮、衣笠由羅――三人の顔が浮かんで、俺は腕時計が消えた辺りを見つめる。


「もしかしたら、アキラくんがその腕時計を諦めて駆けつければ、爆弾を解体して救うことができるかもしれません」


 爆弾。それは、恐らく、比喩の筈だ。あの三人に爆発物を埋め込めるだけの時間も場合も場所も、存在しなかった。


 なら、爆弾って……なんのことを言ってる?


「さて、それは、誰で――」


 ぽかん。


 フィーネ・アルムホルトは、唐突にあらぬ方向に目線を向けて、大口を開けたままで宙空をじっと見つめる。そこになにがあるのかないのか、不気味なまでの視線が注がれて、彼女はまばたきひとつせずに注視を続けていた。


 そして、俺は、視る。


「アキラくん」


 無――虚空が、こちらを見つめていた。


「ネズミって、共食いするんだよ?」


 ささやくような歌声Three blind miceが、静まり返った浴場に響き渡っていた。

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