夏果ての繭

@iwao0606

第1話

 さわさわと低い桑の葉が揺れる。

 つややかな葉で編まれた青々とした木漏れ日のなかで、少女は桑の葉を籠に入れて行く。

 お蚕さまを飼うこの村では、餌やりはこどもたちの仕事だ。

 ただ一等良いものは絶対にとらないのが、決まりごととなっている。

 まだ背の低い少女が手を伸ばすと、足元で猫が体を寄せてはやわらかな毛並みを押し付けてきた。

 お蚕さまがねずみに齧られないように、村ではたくさんの猫を飼っている。その猫たちのためにわざわざ稲藁でつぶらを編んでいるのだ。

「猫さん、暑いよ」

 しかし、猫は気ままに戯れることをやめない。お蚕さまを守る猫だ、邪険にもできず、少女は仕方がなく暑さに耐えながら葉を摘み続けた。

 籠いっぱいになったところで、少女は溢れる汗を拭う。

 紺碧に塗り込められた真夏の空。からからと乾く喉に、空っぽの水筒。

 今日は特別に暑いものだから、減りが早かったのを忘れていた。

「綾ー! どこー!」

 姉の呼ぶ声に、綾と呼ばれた少女は大きく返事をした。

「絹代姉ちゃーん! ここだよー!」

「あ、綾。そこにいたのね。あんたが熱中症にならないか、お母さんが心配してたんだよ」

 絹代は代わりの水筒を差し出す。綾は受け取るやいなや、一気に飲み干す。暑さに溶けそうな体が、冷たいお茶のおかげでぴしっともとに戻った気分だった。

 ふと綾は、絹代の後ろにいるひと影に気づいた。ひと影と言う言葉が正しいのかわからない。

「あ、絹代姉ちゃん。餌やりの時間?」

「そうよ。ほら、しろがねさま、食べてくださいな」

 絹代姉ちゃんは、手をひいていたしろがねさまの口もとに桑の葉を押し当てる。するとしろがねさまは、表情なくもそもそと桑の葉を食べ始めた。

 咀嚼するたび、白銀の髪が黄色い雨合羽から溢れる。

「よく食べて大きくなってくださいね、しろがねさま」

 しかし、しろがねさまは返事することなく、ただぼぅと与えられる桑の葉を食べ続けた。

 しろがねさまと呼ばれるモノは、ひとを模した蚕だ。本当はしろがね蚕という名だが、この村ではしろがねさま、と敬意を込めて呼ばれる。

 しろがねさまは主に桑の葉を食べ、二週間のうちに繭を吐くようになる。その繭から村のひとびとは糸を紡ぐ。紡がれた糸はしろがねのように白くひかることから、とても高く売れる。

 山あいの小さな村ではしろがねの糸で得たお金は貴重だった。わずかな平地ではろくに米も作れないものだから、そのお金で米に買うしかないからだ。

 しろがねさまはこの村の何よりも大事に育てられる。

「綾もそろそろだね」

 十二歳の誕生日を迎えると、こどもたちは初めてしろがねさまの世話を許される。

「うん!」

 綾は大きく頷いた。


 綾が誕生日を迎えた朝、村長が幼いしろがねさまを連れてきた。

「お誕生日おめでとう。ようやく綾もしろがねさまのお世話をできる年になったね」

 村長は優しい祝いの言葉を綾にかける。

「ありがとうございます」

「この村はしろがねさまとともにある。しろがねさまがいなければ、この村はない。綾、こころしてしろがねさまのお世話をするんだよ」

「はい」

 綾が立派な返事を返すと、村長はしろがねさまの手を彼女の手に預けた。

「しろがねさまは雨にお強くない。夕立の多い季節だから、綾、特に気をつけるのですよ」

「はい」

 しろがねさまは、ひどく水に弱い。触れれば、すぐに皮膚が溶けてしまう。

だから雨は厳禁だ。気候の変わりやすい山あいのうえに、夏の夕立はなかなか厄介だ。

 綾は小さなしろがねさまに丁寧に黄色い雨合羽を着せた。そして、手を引けば、しろがねさまは綾の望むままについて行った。


 梢がぐんぐんと伸びるように、日に日にしろがねさまは大きくなっていった。はじめは綾の背丈より小さかったが、いまではずいぶんと高くなってしまった。それでも綾にとってはしろがねさまは、自分だけのものとよく可愛がっていた。

「よく食べるんだよ」

 綾は一等良い桑の葉をしろがねさまに与えた。しろがねさまは表情なくもそもそ食べていたが、綾にはしろがねさまがとても喜んでいるように思えて、自分までうれしくなっていた。

 食卓の席ではしろがねさまの話ばかりをしてしまう始末だ。

「そんなにつきっきりだと、ちょっと心配ね」

 母は心配そうに綾を見つめる。

「大丈夫だよ!」

 母の心配の意味を理解していない綾は、元気に否定する。

「その通りよ、母さん。綾なら大丈夫よ。そのうち落ち着くわ」

「そうだといいけどね。綾、あんまり入れあげないのよ」

「わかりました! それより聞いてよ、お母さん、お姉ちゃん!」

 ふたりは少し困ったように綾の話を聞き続けた。


 ある日、しろがねさまは座敷からまったく動かなくなってしまった。

 手を引いてもぴくりともしないものだから、綾は何か病気にでもなったのではないかと心配した。

「そろそろ繭を吐くね、これは」

 ちょっと村長に連絡を入れてくるよ、と母は出かけて行ってしまった。

 いよいよ、しろがねさまが繭を吐く。その事実に綾はうれしくなってしまった。ずいぶんと大事に育てたものだから、とびっきりいい糸を吐くだろう、と。

「ねぇ、お姉ちゃん」

「なぁに?」

「しろがねさまは糸を吐いたあと、どうなるの?」

「そりゃあ、普通のお蚕さまと一緒よ。茹でて、糸を取るだけよ」

「え?」

 絹代の言葉を即座に綾は理解できなかった。

 糸を吐いて繭を纏った蚕は、そのままお湯のなかで茹でられる。やわらかくなった繭を紡げば、ひと巻きの糸ができる。

 そして、繭を剥がれてしまった蚕は、湯のなかで茹であがるのだ。

 綾は村で見慣れた光景を思い出す。

「しろがねさまは体が大きいから、五右衛門風呂でやるんだけどね」

「……じゃあ、しろがねさまはどうなるの?」

 綾はおそるおそる絹代に尋ねてみた。

「お湯に溶けてしまうよ。だって、しろがねさまは水に弱いもの」

 だから代わりに水に強い糸を吐くんだけどね、と絹代は付け加える。

 ぐらぐらと沸騰する釜の湯に、綾は地獄に突き落とされた気分になった。

 母が戻ってきて、しろがねさまを茹でるのは明朝になった、と連絡してきた。

「それまでに繭を吐くだろうから、お座敷は使えないわね」

 そんな母の言葉など耳に入らず、綾は呆然としろがねさまの傍らで、座り込んでいた。

 ぼーんぼーんと柱時計が鳴る音に顔をあげれば、もう午後の三時だった。

「こんな時間だ……」

 明朝にはしろがねさまが茹でられる。

 ぴくりとも動かないしろがねさまの手を握ってみれば、ぬくりもりがあった。

 胸に耳を寄せてみれば、確かに脈打つ鼓動がする。

 しろがねさまを逃すしかない、と綾は思った。まだしろがねさまを逃すまでは時間がある。

 あたりを見渡せば、母や絹代は明朝の支度で忙しそうに走り回っていた。空の端が黒く濁っていたが、まだ青い空が広がっている。

 綾はしろがねさまに黄色い雨合羽を着せようとするが、いつも以上にしろがねさまの体は重かった。汗をだらだら流しながらも、なんとか雨合羽を着せ終わると、綾はしろがねさまの手をひいた。

 いつもならしろがねさまは手の引く方角に、ついてきてくれた。

 だが、しろがねさまは動く気配など見せず、微動だにしなかった。

「動いてよ! 動いてよ! ねぇ、お願い動いてよ!」

 綾がどんなに体重をかけても、しろがねさまは動かない。

 明るかった空がどんどん黒くなり、真っ暗になっていく。

 ぽつりぽつり地面に小さな跡を残したのもつかの間、ザァザァと激しい音を立てながら、雨降り出す。

 夕立が降ってしまえば、しろがねさまは外に逃せない。水に触れてしまえば、溶けてしまうから。

 綾は体を打つ雨のなか、立ち尽くす。しろがねさまの傍らでは、猫がにゃーとあくびのような声を出して鳴いた。


「立派な繭になったね」

 村長はしろがねさまが吐いた繭を見て言った。

 座敷の真ん中に大きな繭を作ったしろがねさまを、大人たちは四人がかりで運んでいく。外では母が支度してくれた五右衛門風呂が、ぐつぐつとお湯をたぎらせている。

 大人たちはしろがねさまを湯に放り込む。熱い湯のなか、しろがねさまは激しく暴れ、飛沫があがった。が、徐々にその動きは小さくなる。

「糸の巻き方は知っているだろう? さぁ、やってごらん」

 綾は言われたとおり、繭から糸を紡いでいく。綾は必死に釜のなかを見ないようにした。が、繭から伝わる糸が細くなると、どうしても釜のなかを見なければならない。

 釜のなかには何も残っていなかった。

 そして、綾の手のなかにはひと巻きの糸があった。

 しろがねさまの体は湯に溶けていってしまったのだ。

 村長は釜の湯を柄杓で掬うと、綾のほうへ差し出してきた。

「これを飲めば、もう大人だね」

 綾は少しためらったあと、柄杓に口をつけた。何の味もしない、ただのお湯だった。

 だが、確かにしろがねさまはこのなかに溶けていってしまったのだ。


 精霊流しの提灯が、川を流れていく。

 からん、ころん、とどこからか糸繰り機の音が響き、合間を縫うように猫がにゃーと鳴く。しろがねさまの手をひいた大人たちが、川面を歩いていく。 

 ご先祖さまとともに、しろがねさまも一緒に供養されるのだ。

 綾も新しいしろがねさまの手をひいて、歩いていく。

 この夏の果てに何度も繭から糸を紡ぎながら、生きていく。

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