三十四 玄洋社社長決定戦
ところで共愛会の組織が出来上がった明治12年12月(から遅くとも明治13年4月まで)には向陽社の中でもう一つの騒動があったらしい。正倫社内の分裂と玄洋社の発足である。
時期がばらついているのは史料によって若干の違いがあり、一部では相互に矛盾さえ生じていて正確な日付を特定できなくなってしまっているためだ。しかし後の玄洋社関係者の回想や伝記等では明治12年12月とするものが多いようなのでこちらもそれに則って語ると、明治12年10月に向陽社社長が箱田六輔から平岡浩太郎に交代したことが影響したか、明治12年の冬には向陽社内で箱田と平岡の主導権争いが発生したのだという。
頭山満・箱田六輔・平岡浩太郎の3人は後に「玄洋社三傑」と並び称される面子だが、ここで改めて平岡浩太郎のキャラを述べると弁護士業も営んだ経験を持つ平岡は博多織を着こなす洒落た人物だったらしい。その弁舌は豁達軽快で比喩に富み、華やかな舞台に立った名優のごとく観客を魅了するものだったという。また行動が俊敏で、長期持久戦はともかく短期決戦的な仕事の指揮官としてとても優れ、例えるなら単騎敵陣突入で大将首を上げてくるような大働きさえも得意としたそうだ。
一方でリーダーとしては一人で突き進んでしまうところがあったようで、進藤喜平太は平岡と頭山を比較して「平岡は行儀が良いが一緒に遊びに行っても楽しくない。頭山とは何度遊んでも楽しい」と評し、明治の博多で大暴れしていた侠客の大野仁平という人もまた平岡と頭山を並べ、「平岡が進む勢いは敵の千軍万馬をモノともせず、一挙にして蹴散らすような武者ぶりだが、さてあとをふり返ってみると、大将ひとりいい気持になっているばかりで、あとに従うものはいくらもない。これに対し、頭山の進むのはノソリノソリとまるで牛の進むようで、いかにも間がぬけているが、あとからあとからと軍勢がついてゆく」と語る。
また幼少期から傲岸不屈の負けず嫌いで、子供の頃の平岡は「七」の字の最後の筆を右に回すのではなく左に曲げる癖があり、寺子屋の先生がその手をとって直そうとしても払いのけ「先生は右に曲げたらよい。自分は断じて左に曲げる」と言い張ったなんてエピソードも伝えられている。この負けず嫌いは大人になっても残ったようで、なんでも自分が一番じゃなければ気が済まないところがあったという。
一方の箱田六輔は「箱田あれば西南の方面は安心なり」と板垣退助に言われた自由民権運動の実力者である。この明治12年頃に流布した「明治民権家合鏡」では民権運動家たちが相撲番付になぞらえて格付けされ、横綱が常設されていない時代だったため板垣は大関に、箱田はそれに次ぐ門脇にランクインした。
人望も厚く、博多の大商人たちが向陽社のスポンサーについたり、農民たちが集まってきたのも箱田の人柄が慕われてのことだったといわれる。箱田家自体も福岡では有名な資産家であったといわれ、向陽社の運営は「箱田金」と呼ばれる資金によって盤石に支えられていた。愛国社大会などで遠方に長期滞在する際に箱田六輔は予定日数分の宿代を前払いしたうえで残金を政治運動費に惜しみなくつぎ込んだ。箱田家の資産は民権運動のために彼一代で使い潰されたという。頭山満の孫である頭山統一氏の表現によれば「箱田は、かれの理想に向って、綿密な思慮に基づいて情熱的に行動し、周到な計算をたてて、家産を蕩尽した」のである。
そんな思慮深く周到で人望も厚く民権運動の実力者として知られた彼だが、かつて矯志社や堅志社の若い衆を萩の乱連座に扇動し福岡の変の前に社員たちを多数投獄させるきっかけを作ってしまったのも箱田であり、大久保利通暗殺直前に大臣県令の暗殺を主張していたのも彼だった。まだ若く、そして時代の情勢もあったとはいえ情熱的とだけ言うには時に行き過ぎることがあり、さらに言うと箱田六輔も平岡浩太郎に負けず劣らず大概な負けず嫌いでもあった。
共に豪傑塾と言われた興志塾の塾生だっただけある我の強さだが、ここにさらに筑前士族たちの不平士族反乱運動での経験の相違が重なってややこしい状況になっていた。士族反乱に加わり投獄されたのは同じでも、前原一誠の萩の乱への連座容疑で武装蜂起の前に逮捕されたグループと西郷隆盛の決起を待って福岡の変に参加し武装蜂起の前後に逮捕されたグループとの2つのグループが別々に苦労を分かち合ったことになってしまい、それぞれが派閥化していった。
向陽社の幹部である箱田と平岡がライバル関係になっていく中、かつて前原一誠に与しようとした者たちは箱田の側につき、西南の役に関係した者たちは平岡を推すかあるいは吉田真太郎(「川越余代」という名に改名したともいわれる)を擁立する。
真太郎の兄の吉田鞆次郎は一到社出身で向陽義塾校長であったと既に記したが、この年、明治12年の5月から短期間の間だけ正倫社の社長にも就任していたのだとする資料もあるらしい。
吉田真太郎自身は平岡と同様に西南戦争で薩軍と行動を共にした人物だという。真太郎の名を吉田「震」太郎と表記する書物もある。“吉田震太郎”というとかつて西南戦争の際、武部と越智が呼応の意思を伝えるため十一学舎の世話役だった川越庸太郎と共に薩軍本営へと送り出した人物の名前になるが同一人物だろうか。川越庸太郎と吉田震太郎は無事に薩軍本営に到着してそのまま薩軍と共に転進。川越は城山で戦死し、吉田は可愛嶽脱出の時に本隊とはぐれて官軍に捕らえられたという。
とにもかくにも向陽義塾校長で正倫社社長でもあったらしい吉田鞆次郎の実弟にして西南戦争を薩軍側で参戦したという経歴を持った吉田真太郎は、西郷と呼応して西南戦争あるいは福岡の変に関わった者たちにとって擁立される資格充分だったということだろう。
原本が残っていないので正確なところはわからないが十二月二日の日付で高場乱先生から箱田・平岡両名を諌める書簡も送られたという。しかし当の本人たちはこのとき福岡を留守にしていた。
頭山満はその頃第三回愛国社再興大会の全国遊説運動案に従って日薩地方(宮崎県(日向国)と鹿児島県(薩摩国・大隅国)ということか)に自由民権運動への参加を呼びかける旅をしている予定だったが、社内の騒動のことを聞きつけて向陽社の方に様子を見に来た。
すると肝心の箱田・平岡コンビは共に正倫社社員としてこれまた第三回大会で決定された(というか自分たちが主導者として推進した)愛国社東京支社設置のため東京と福岡を行き来しており、特に平岡浩太郎は第三回大会で東京支社設置を再提案した福島の河野広中らと一緒に前11月23日から東京の目ぼしい立地を見て回っているところだった。
では残りの一人。西南戦争に関わった者達から平岡浩太郎と共に擁立されていた吉田真太郎は箱田・平岡の両方が不在という状況でどうしていたかというと、社の幹事としてほかの社長候補2名が留守中の社内を取り仕切りつつ、己は「中立派」の代表であると自任して箱田派・平岡派の対立から距離を置く姿勢を見せている。
「中立派」というのは社の主導権争いから離脱することを望んでいるようにも見えるし、野心的なものとして解釈するなら双方の対立にうんざりした社員たちの指示を集めて最大勢力となり、漁夫の利を得ようと目論んでいる……という策も想像できなくはないが、流石にそれはかなり迂遠な策であるし、社内の対立・分断に対して当分何かをしようという様子も無さそうだ。吉田自身の経歴が平岡派側に寄りすぎて仲裁に入ろうにも入れなかったのかもしれない。
彼らの仲裁には頭山満が動いたと伝えられる。騒動の内容を把握した頭山は平岡と箱田を福岡に呼び戻し、吉田を含めた三名に説教を食らわせた。
「いったいあんたらは何たる狭量の人たちじゃ。たかが知れた筑前の、しかもそのまた片隅の向陽社の中で3つも別々の組を作って争うとはどうした了簡、何たる醜態」
頭山は大きくため息をついて慨嘆しきったという声音で言った。萩の乱に関係して投獄された者たちが主に箱田の側につき、西南戦争に関係した者たちが平岡もしくは吉田を擁立したということは、つまりほとんど正倫社の元不平士族たちによる分裂である。
列強帝国主義による植民地支配の侵食が極東アジアにまで及ぶ中、開国した日本の行く末を考えなければならぬと自分たちは土佐やさらにはイギリス、アメリカから来た人たちまで講師として招き、農民や商人たちとも一緒になって自由民権思想や西洋の法制度などを学んできたのだ。
そんな帝国主義の世界の中で。日本は士農工商が一致団結した国民国家に脱皮して国難に当たらねばならぬというときに。日本の中の、九州地方の、福岡県の、福岡市の中の、向陽社という一政治結社の中の、正倫社という元不平士族グループが分裂して騒いでいる。
まさに蝸牛角上の争いの寓話も斯くの如しの有様であった。
「俺がここで話をつけようとする以上、今後決してそういういがみ合いなどすることは許さん。三派それぞれ盟約書のようなものも書いているなら、ここで出して焼き捨ててしまおう。そしてケチな根性も一緒に焼いてしまう。愚劣だぞ貴公らは。党派を結ぶなら結ぶで、もう少し雄大にやりなされ」
箱田と平岡は頭山よりも5歳ほど年長であったが、年少の頭山が語る道理には反論することが出来なかった。対立が収まったところで対立の原因である“社を率いるべき人物”について頭山の提案があった。
「ちょうど三派の代表が揃ったのだし、ここで入れ札による投票を行って新たに社長を決め直すのはどうか」
三名とも納得し、それぞれ社長に相応しいと思われる人物の名前を半紙に書く。
「頭山」「頭山」「頭山満」
選ばれたのは、頭山だった。
「ああ、三票とも一致した」
「これで決まりましたな」
「うむ」
頭山はたった今三人の前で道理によって年長者を説得する実力を示していた。人を惹きつけるカリスマ性もあり、組織のリーダーとして素質は十分と言えるだろう。しかしこれに待ったをかける人物が出た。選ばれた当人の頭山満その人である。
「いや待ってくれ。これはいかん。俺は社長にはならん」
その言葉に吉田真太郎が抗議した。
「あんたは社長を投票で決めろと提言した。我々3人はそれに従って投票した。それなのに今更不承知を言うのは筋が通らん」
「いやごもっとも、と言いたいが、俺だけは別だ。君ら3人の互選じゃ。自分から言い出しておいて当選してしまい、それを断るというのが理屈に合わないことは承知しているが、俺には考えがあって、一切表面に立たぬことにしている。悪いがもう一度投票し直してくれ」
3人とも渋々ながら仕方なしに頭山の言葉を受け入れ、再投票の結果平岡浩太郎が選出された。
「まあ、しばらく平岡にやらせときやい」
社長が平岡に決まった時、頭山は負けず嫌いな箱田にそう声をかけたそうだ。(思い返してみると頭山満も特に幼少期から若い頃は負けず嫌いのエピソードが多く、“玄洋社三傑”と言われた頭山・箱田・平岡は3人揃って負けず嫌いのトリオである)
玄洋社や頭山満について取り扱った書籍の多くはこの時同時に向陽社の社名を改めて玄洋社にしたと書かれているが、正論党グループが多数派を占める向陽社はもちろん、元不平士族のグループを中心とした向陽社員が愛国社で活動を行う際の組織名である「正倫社」という組織名もまた玄洋社発足の後も残っていることが確認され、後に玄洋社員となる人々は向陽社、共愛会、玄洋社、正倫社などといった幾つもの組織の間を行き来していたと史料に書き記されている。
この時点で玄洋社の活動内容が他とどう区別されていたのかははっきりしない。
また、玄洋社の初代社長といわれる平岡浩太郎の雅号もまた“玄洋”の2文字だが、この雅号をいつから名乗り始めたのかもよくわからない。
ところで玄洋社という社名はこの後アジア主義思想と結びついて植民地独立運動支援を行ったり等していく中で植民地を持つ欧米列強から黒龍会共々“ダーク・オーシャン・カンパニー、ブラック・ドラゴン・ソサエティ”と直訳されて異様に恐れられたり、とある本では四神の玄武とまで結び付けて“ロシア帝国等に対する日本の北方の守りを云々……”と不思議な解釈が語られていたりするが、単純に故郷の海である玄界灘にあやかったものだろう。玄界灘は略称が“玄海”。古くは“玄界洋”、“玄洋”などとも言われていたそうである。
ちなみに中華地域周辺の伝統的な世界観である五行説では五行のうちの水行が“黒色”、“北方”等の要素と関係づけられるが、日本も中国も北半球にあるので陸地の北側に川や海があって南から当たった日光が山や崖など陸側のものに遮られたらその水面は暗く、あるいは黒っぽい色に見えるというただそれだけの話だ。
少し余談が長くなったが、ともかく平岡浩太郎の社長就任によって向陽社内の元不平士族らの対立は落ち着き、玄洋社も発足。頭山はようやく安心して南九州へと遊説の旅に出かけたという。
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