三十三 筑前共愛公衆会の発足
明治12年10月中旬。第3回愛国社再興大会の突然の延期に対して正倫社のメンバーが愛国社に参加する他の九州政社と共に久留米で会議を開いていたちょうどその頃、「条約改正について会議を開きたい」という旨の書簡が筑前各郡の有力者へと届けられた。
会主総代は向陽義塾幹事長にして向陽社議長、同時に福岡区長でもあったという郡利。その他に郡利と共に向陽社議長を務め同時に福岡県会議長でもあったという中村耕助や、かつて一到舎という組織に平岡浩太郎と共に所属していた大庭弘など、向陽社幹部クラス八人が発起人として名を連ねていた。
さらには平田派の国学者で日本の法制史に精通し、宗像神社の宮司を務めた経歴もあるという博多若竹町漸強義塾塾長の松田敏足と、宗像郡の元庄屋で明治5年私費でドイツに留学、明治12年8月には松田敏足と『博多新聞』を発行しこの頃は第五十八国立銀行の取締役でもあったという徳重正雄。このような経歴を持つ2人がこの「条約改正についての会議」のために直接足を運んで各郡の有志を説得してまわったという。
ちなみに大庭弘が平岡浩太郎らと共に所属していた一到舎は弁護士業務を行う代言社で、武部・越智らの筑前三政社と同時期にあった。社長は筑前勤王党志士の息子で後に中学修猷館館長となった尾崎臻(おざき いたる)、副社長は郡利、その他大庭弘、平岡浩太郎や、後に向陽義塾校長となる吉田鞆次郎といった将来の民権運動家たちが集まり、志士の集合体として弁護士業務を通じて民権拡張につとめたという。
向陽社も土佐立志社が行っていたのに倣って法律研究所や代言局を置き、そこで一到舎の弁護士業務も受け継がれた。
話を戻して、11月6日・7日の両日に博多聖福寺を会場として行われた会議は福岡向陽社、松田敏足の博多漸強社、香月恕経の甘木集志社などかつて植木枝盛が九州滞在中に演説を行った場所を始めとして強忍社、養成社、清胸社、篤志社、忠国社などといった名称の様々な政社が加わり、集まった有志は800人を超えたという。
この11月6日は大阪で第3回愛国社再興大会が開かれた日であり、後に玄洋社の代表的人物として知られる頭山満や平岡浩太郎、箱田六輔、奈良原至、来島(的野)恒喜といった正倫社の面々は揃って大阪にいたため不在である。(奈良原は第3回愛国社大会後北陸へ、的野恒喜は壱岐や対馬へと大会の決定に従い遊説に向かっている)
郡利などは国会期成同盟の成立後にそちらの公会でも出席・発言を行っているので、いくらか正倫社寄りの人間だったのかもしれないが、第3回愛国社再興大会と同時期に「条約改正についての会議」という全く別の動きを主導していた向陽社側の人々というのは、この時点だと“正論党”にいた人がほとんどだったと考えられる。
殊更「条約改正について」というテーマで人を集めて会議を企画したのも、愛国社大会で条約改正問題が後回しにされたことにより別の場所で条約改正に関する議論を行う必要性を感じたか、あるいは組織のテーマや目標をほとんど国会開設一本に絞った愛国社に対しての対抗心じみたものもどこかにはあったのかもしれない。
いざ会議が始まると「諸説紛然」の大激論となり、特に「此会に臨み、是迄名も聞へざりし人にて大に奮発し、激切高尚なる議論を立てし人も多かりき」と当時の『朝野新聞』に伝えられている。とりわけ多かった意見は、“会議の議題に国会開設要求を加えよ”という集会の目的に関するものだった。
そもそも会議の参加者800人の有志は筑前各郡から呼び集められたため、向陽社の他に漸強社、集志社、強忍社、養成社、清胸社、篤志社、忠国社といった各政社の社員や、朝野新聞にも書かれたような“これまでの政治運動で名前も聞いたことがないような人々”も数多く来ていた。
つまり向陽社内での正倫社・正論党の方針分裂騒ぎなど知ったことではない、それどころか下手すれば愛国社再興大会での会議の内容すら知らない人たちもいたかもしれないわけである。
当時の政治に関する民衆の重大な関心事といえば「国会開設」による参政権獲得と「不平等条約改正」の二本柱であり、愛国社大会に参加できていない人々からしてみれば会議の目的をわざわざ不平等条約問題だけの一辺倒に絞ってまるで愛国社大会とのある種の“分業体制”を始めるような主催者の考え方は大いに不満だっただろう。
結局この会議は主催者の思惑を超えていく形で国会開設と条約改正断行の請求の両方が決議され、同時に12月1日に開かれる次回以降の会議は参加者の底辺を拡げて筑前全体の大集会――「筑前国州会(仮称)」とすることが決められた。
初回の会議でさえ有志が800人も集まったのに参加者の底辺をどう拡大するのかというと、間接選挙で代表を選ぶのである。そのやり方はまず1村か2,3村で集まって小集会を開き、その中で代表を選ぶ。選ばれた代表がまた集まって郡区ごとに3人から5人の総代を選出するというトーナメントのような方式だった。
筑前15郡から選ばれた総代は80人に満たない程度の人数まで絞られたが、この会議の試みは2回目にして既に各地の関心を集めていたらしく、筑前の外にある近隣地域からも傍聴人が詰めかけたという。この傍聴人たちにも発言は許され、会場では議長席近くの答弁席と別に傍聴人のための発言席が用意されている。
参加者側の入れ込みようも相当なもので、福岡区長であり県庁の属官だった郡利は会議と同日に辞職して筑前国州会(仮)の福岡区総代に、また福岡県会議長で怡土・志摩・早良の郡長だったという中村耕助や遠賀郡の書記だった毛利晋一なども同様に辞職して会議に従事したという。(自分から職を辞したのか県庁・県会の側から辞めさせられたのかははっきりしないが)
この頃には11月の第3回愛国社再興大会に参加していた正倫社側の面々も帰ってきていたらしく、(奈良原至は富山県の高岡近辺で遊説中)条約改正と国会開設要求の会議ということで積極的に参加したらしい。会議の議長には郡利、副議長は林斧介が選ばれた。林斧介はかつて武部小四郎の矯志社に所属し萩の乱連座容疑で進藤喜平太・奈良原至らと共に逮捕された人物であるから、正倫社と非常に親しい人物だったとみて間違いあるまい。
本会議は5日から7日までで、8日に閉会。組織の名称は筑前国州会(仮)から「筑前共愛公衆会」に変わり、略称は「共愛会」と決められ、会憲も定まった。
大日本帝国共愛会会憲三章
第一 民人共同公愛の真理を守る可し
第二 国権を弘張し帝家を輔翼する事を務む可し
第三 自任反省国本の実力を養ふ可し
(ここでは読みやすくするため送り仮名等のカタカナをひらがなに書き換えている)
「共愛」や「民人共同公愛の真理」といった言葉には向陽義塾の趣意書にあった「公同博愛主義」と同様、向陽社とJ・L・アッキンソンらプロテスタント系キリスト教思想との繋がりをうかがう人もいる。
また会憲三章にて組織名を「大日本帝国共愛会」としたのは、いずれ筑前共愛公衆会の理念や活動を日本全国に広め、筑前の共愛会をもやがて成立する全国的な共愛会連合の一部にしてしまおうという壮大な展望を反映させたものらしい。
とにもかくにも“筑前一国九百三十三町村人民”の結合体として発足した筑前共愛公衆会はスタート直後から自由民権・国会開設要求運動における一大勢力として、精力的な活動を始めていったのである。
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