三十二 奈良原と北陸民権運動

 自由民権運動の主導権獲得を目指す土佐派に対して非土佐派が大いに巻き返した第3回愛国社再興大会が終わった3日後、奈良原至は大阪から京都・福井方面に向けて旅立った。

 第3回大会では国会開設請願の賛同者を増やすため愛国社に加盟する各政社から全国各地へ人材を送ることが非土佐派の杉田定一の提案によって決議された。その時に福岡の政社が担当する地域は九州地方と北陸地方と決まったため、奈良原は杉田定一の帰郷に同行する形で北陸地方の民権運動支援へと参加することになったのである。


 11月16日に大阪を発った奈良原たちは京都に立ち寄って東山(比叡山や清水寺等がある地区)を見物し、そこで平岡浩太郎から見送りを受けた。その後琵琶湖を船で渡り、愛国社に演説員の派遣を求めた義奮社がある福井県の小浜に辿り着く。出迎えてくれたのは40代以上の人ばかりで上はなんと77歳。義奮社は300名の社員が皆老人ばかりで壮者を見ず……という有様だったが、世の中には演説会というものがあり士気を鼓舞作興すると聞いて切望し、小浜でも演説会を行うために援助を乞うたのだという。


 義奮社を応援した奈良原と杉田はその後福井に移動し、越前の地租改正運動に関わる。杉田定一の父である仙十郎は当時石川県会議員も務めていたという越前随一の豪農にして醸造家で、定一が7月に発足させた自郷学舎も仙十郎所有の酒蔵を改造したものだった。

 ちなみに仙十郎が石川県の議員だったというのは彼らの郷里で自郷学舎所在地でもあった坂井郡波寄村という場所が当時石川県の一部になっていたかららしい。(現在は福井県福井市波寄町になっている)


 この自郷学舎は以前から福岡の向陽社と結び付きが深いところだ。向陽社の監事にして向陽社発足の中心的人物であった進藤喜平太を含めて20数名の福岡士族が度々自郷学舎に滞在したといい、自郷学舎開校時の生徒24名も内9名が福岡の人間だった。

 奈良原が杉田と自郷学舎を訪れたこの時も、旧知の民権家である土佐立志社の寺田寛や出雲の若山茂雄らの他に奈良原至の弟の奈良原時雄ら数名の向陽社員が福井に滞在していて、奈良原至と共に丸岡の演説会場へ向かった。


「国税なるものは国民相議して定めずんば真の国税に非ず。今や然らず。……よろしく其気力を振興し之を論定する箇所すなわち民撰議院を立つべし」

 そういった内容で杉田が国会論、奈良原至が租税論を語り、演説会は午後6時から11時まで行われたという。度々思うが当時の人々の体力と自由民権運動への情熱は凄まじいものである。

 この国会論と租税論の演説の後、杉田定一は地租改正反対運動を基盤とする形で国会開設請願署名の獲得を目指していくが、自郷社の社員たちは坂井郡内の活動で忙殺されてしまった。そのため、郡外の各村へは寺田や楠目伊奈伎ら立志社から派遣されて来た者たちと、後に玄洋社の社員となる岡喬(おか たかし)や宮原篤三郎、白水為夫(しろうず ためお)ら福岡の士族たちが署名集めに奔走していく。


 一方、奈良原至は演説会の翌日に杉田たちと別れ、単身で金沢へと遊説の旅を続けた。金沢では、前年の明治11年に向陽社を訪れた関時叙(せき ときのぶ)が向陽社を参考に精義社という組織を発足させていたが、この時はあいにく不在だった。代わりに他の者たちに遊説したところ同意を得て、北陸遊説の手助けとして志士一人を、という奈良原の求めにも応えて中島清愛という人が同行してくれることになったという。


 その夜は「寂寥に堪へず詩を賦し悶を消」したとのことで七絶二首を残した。

 奈良原至は興志塾でのエピソードからすると少し意外なほどの文筆家で、こうして遊説の様子を知ることができるのも『北陸紀行』が書かれているからであるし、北陸遊説の旅においても奈良原は『明治血痕集』という著作の原稿を持ち歩いて旅の合間に添削を行っている。

 『明治血痕集』は不平士族の反乱で賊軍の汚名を着て亡くなった人々の追悼集で、奈良原がかつて「師事兄敬友愛」した人々、生前親交があった人々を中心に西郷隆盛、前原一誠や武部小四郎、舌間慎吾、川越庸太郎などの略伝、詩歌、辞世などが書き記された書である。熊本にあった徳富蘇峰の大江義塾は門下生に宮崎滔天がいたが、滔天の兄である宮崎八郎も載っている『明治血痕集』は塾内で生徒たちに愛読されていたらしい。

 奈良原が旅先で添削の作業を行うとき、追悼の書でもある『明治血痕集』は夜空の星を敵陣の篝火に変え、窓を叩く風音を両軍の吶喊や進退のラッパや大砲の轟音といった戦争の音に変えて死者を蘇らせ、筆を度々止めさせたという。戦乱によって彼の心の奥底に刻み込まれた悲しみの深さがうかがえる情景だ。


 金沢を去る日、奈良原は「北陸連衡会」という構想を語っている。自分たちはこの春に九州一道の連衡第一次会を開催し、各地競争の精神によって運動が発展した。なので自分の北地遊説の目的も第一は国会開設請願だが第二は北陸連衡会に置いている……とのことである。

 そして金沢を去った翌日、奈良原は富山県大門新町で演説会の貼り紙を見つけてすぐさま稲垣又平や沢田平策らの弁士に遊説することができた。彼らも愛国社なるものの存在について聞いてはいたものの、辺鄙な地方のこととて詳しくはわからなかったのだとか。そこで愛国社の趣旨と国会開設について講台に上って話してもらいたい、と歓待を受け、その日は高岡に一泊し次の日は地元の豪農でもあった沢田平策のところに一泊することとなった。


 奈良原の飛び込みが功を奏してか、翌明治13年には高岡に北立社という政社が成立した他、国会期成同盟の合議書にも沢田平策が名を連ねることになる。

 また北陸道の連衡会開催は以前から福井の杉田定一も望んでおり、これもまた明治13年には福井自郷社の杉田定一に、向陽社を参考にしたという金沢精義社の関時叙、奈良原の遊説を受けた高岡北立社の稲垣示(稲垣又平)の三者が主催となった北陸有志大会の開催が実現する。稲垣示はその後自由党に入党し政友会創立にも参加したとのことで、有志大会の三者主催と併せてこれも奈良原の活動が結んだ縁なのかもしれない。


 その後の奈良原は明治12年12月に新潟県内でも遊説を行っており、その後もしばらく北陸道遊説の旅は続いたようだ。


 杉田定一の父仙十郎といい沢田平策といい、豪農という家柄の人が政治運動に現れたのが印象的だが、杉田仙十郎が石川県会議員であったように明治11年の府県会規則施行で下級士族よりも資産が多い豪農という身分の人々が政治への参加資格を得たことも関係するかもしれない。


 英国の法学者・歴史学者・政治家・外交官である初代ブライス子爵ジェームズ・ブライスが晩年の著書『近代民主政治』において「地方自治の実践は民主政治の最良の学校にしてその成功の最良の保証人である」という言葉を残すのはしばらく後(1921年)だが、明治政府もまた、意図するところが多少違っただろうが国会を開く前に一部の国民に地方政治への限定された参加の権利を与えたわけである。


 ただ県会議員の選挙権は地租を5円以上納める20歳以上の男子、被選挙権は地租10円以上を納める25歳以上の男子のみという非常に制限されたものだった。これに関する話についてはまた今度書くことにしよう。

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