三十五 明治13年の国民主権論と2種類の三権分立
正倫社内で行われた箱田・平岡の代表決定戦騒動の傍ら、明治12年12月に発足した筑前共愛公衆会(共愛会)は精力的な活動を繰り広げていた。
「共愛会」の名称や会憲等を定めた第2回の集会が8日に閉会してから、玄洋社初代社長の地位を平岡浩太郎に譲ったばかりの箱田六輔が早くも26日には南川正雄という人物と共に共愛会の建言委員に選ばれ、国会開設と条約改正の2つの建白書を携えて東京へと出発しているのである。
明治政府の元老院は国民一般からの建白書受付を業務内容の一つとしており、箱田らは共愛会員が起草した両建白を元老院へと提出しに向かったのだ。
国会開設の建白書は岡山県の両備作三国親睦会が12月29日に全国のトップを切って提出、共愛会は翌明治13年1月16日に提出し2番手となった。
両備作三国親睦会は筑前の共愛会等と並んで自由民権運動で特に有望とされた組織の一つで、県議を委員として10万の会員を抱えていたという。福井の豪農杉田仙十郎が石川県会議員となっていたように、県議が委員になって数多くの有志大衆が参加したこの両備作三国親睦会もまた、政治に意欲を持った農民階級を組織の基盤としていた。
ちなみに“美作同志会”などの呼称も見かけるが、これは略称か、別名か、あるいは共愛会に向陽社、漸強社、集志社、その他各政社の社員が参加したのと同様、三国親睦会の中に加わっていた団体の名称ではなかろうか。
建白書の提出に関して筑前共愛会は両備作三国親睦会に先を越されてしまった形に見えるが、筑前の民権運動家たちはこの岡山の民権運動とも一定の交流があったらしい。
土佐派が書き記した『自由党史』に筑前の民権家が愛国社第三回大会で担当と決められた九州と北陸の2つの地方ブロックのみならず西日本の中国地方瀬戸内海側である山陽道においても通りかかったついでに遊説を行ったと書かれているそうだ。
「福岡の共愛会は、条約改正の建白案を提出する希望を抱き、来坂の途上、山陽一帯の地を遊説して頗る同志を得ること多かりしと云ふ」……とのことである。
東京へ行く“上京”や“東上”ではなく、大阪に行く“来坂の途上”と言うことと三国親睦会の建白書提出が共愛会より2週間以上早いことからすると、あるいは共愛会の建白書提出の道すがらというよりも第二回及び第三回愛国社再興大会が大阪で開かれた際に正倫社のメンバーが福岡から陸路で大阪の愛国社大会会場に向かって山陽地方を通過した際のことかもしれない。
実際どのタイミングで接触したのかはともかくとして互いに意気投合したらしい福岡と岡山の民権運動家たちは、共に単独での提出という形にこそなったものの、少なくとも共愛会側の建白書提出自体は相手からの賛成を得たものだったという。
共愛会の名称や会憲等を決めてからわずか2週間余りで提出というのは流石に建白書の内容まで全てを共愛会で議論したものではなく、大阪で愛国社会議が行われていた頃、つまり共愛会の前身(?)である筑前国州会(仮)の時には既に福岡の建白に向けた動きが始まっていたらしい。
共愛会の建白書は「福岡新聞」を発行したという地誌学者吉田利行(向陽義塾の前身として進藤喜平太に成美義塾を譲った人物)が草案を書き、南川正雄と共愛会連合本部長にして平田派の国学者でもある郡利がこれを決定、国会開設と条約改正の建白書の内容について共愛会第一期会議員65名は出来上がった建白書に署名するという形で関与することとなった。ちなみにこの共愛会第一期会議員65名中、士族は40人前後だったという。
残りの20数人の中には農民の署名者もいたが地租改正などには触れられず、この建白書においては国会開設と条約改正に要求を絞ったようである。
1月2日に東京へたどり着いた箱田と南川は建白書草案の添削を沼間守一という人物に依頼し、沼間の書生である角田真平へ託されることに一旦は決まった。
だが、ちょうどその頃、東大予備門の英語教師をしていた金子堅太郎が沼間の紹介によって法律や規則の調査を担当する元老院第二課へその月の26日に配属することが決まる。その縁だろうか、金子は自分と同じ福岡出身の箱田らが持ってきた建白書草案の話を沼間から聞かされた。
金子は草案を取り戻して自分に任せるよう南川に迫り、これまた福岡出身の東大生だった井上哲次郎と協議し、政府へ提出するために適した文章を書き上げて提出させたという。
井上哲次郎は岡倉天心の同級生で彼と共にフェノロサの影響を受けた太宰府出身の哲学者。西洋の言葉から「倫理学」、「世界観」、「絶対」などといった日本語訳を作り上げた人物だとのことである。
共愛会が提出した2つの建白書の内、今回はまず国会開設の建白書について語る。
共愛会が提出した国会開設の建白書「国会開設ニ付建言」の内容の特徴は、国民主権論と2つの三権を分けることによる立憲君主制の主張である。
共愛会の国会開設建白書はまず「人民は国の大本なり。政府ありて人民あるに非ず、人民ありて政府あるなり」と国民が国家政府の礎であることを宣言し、第一に国会開設によって人民の代表を集めること、第二に国会によって民意を反映した憲法(民定憲法)を作ることを要求している。
そして建白書は国会開設と憲法制定による2つの三権分立を求める。1つは「立法司法行法」。“行法”とは法律の執行のことだがここでは“行政(権)”を指す。つまりはこちらが一般に学校の社会科で教えられる三権分立の話である。
それと一緒に「国会開設ニ付建言」が並べているのが「政権君権民権の分界」を明確にすることだ。独自の伝統や歴史等を受け継ぐ帝統には政府権力に容易に踏み込ませられない部分が存在する。国民の人権にも政府権力に踏み込ませるわけにいかない一線がある。一方で民意が要求したとしても個人個人の自由が無限に行使されようとすれば社会の安定が崩れ治安が乱れたり国内がバラバラの集団に分断されてしまうかもしれない。
そしてまた、君主の権威も政府の方針や民意をむやみやたらに覆すような無制限の権力となってはならない。つまりこれは政府権力と君主の権威と民衆の自由を立憲主義である程度制御する立憲君主制の主張だろう。そうみると、板垣退助が頭山満に語った天皇親政の否定は向陽社を通じて共愛会の活動にある程度受け継がれたのかもしれない。
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