二十八 植木枝盛の九州滞在

 明治11年の5月に奈良原を連れて福岡を旅立った頭山は向陽義塾と向陽社がいよいよ正式に発足するということで年末、立志社との半年もの交流を終えて福岡に帰ることにした。

 その際、高知における自由民権運動の理論指導者である植木枝盛に「もし良ければ福岡に来てみないか」と声をかけると二つ返事のOKが帰ってきて植木枝盛は向陽義塾の教壇に立つことになる。


 明治日本で国会開設要求と自由民権運動の代表として思い浮かぶのは福沢諭吉・大隈重信の率いる慶応義塾大学・早稲田大学門下生と板垣退助・植木枝盛の率いる土佐立志社であろう。大隈重信らが二院制の国会などイギリス型の制度構想を推進し、板垣退助らがフランス型の一院制を掲げていたのを授業で習って覚えている方も多いと思われるが、実のところ土佐立志社も最初はイギリス方式を研究していた。しかしライバル関係にある大隈たちもイギリス方式でいくつもりらしいことがわかったためにフランス方式へと乗り換えたのである。


 英語からフランス語へと言語も思想も違う別の方式へと乗り換えながら組織の理論指導者であり続けられる辺りに植木枝盛の優秀さがうかがえる。その頭脳に合わせて彼の自信家ぶりもずば抜けたもので、「われ学ぶ所なし。ただ植木枝盛を以て植木枝盛を学ぶのみ」などとうそぶいているほどだった。

 しかしあまりに民権運動に熱中していたためか、優れた頭脳を持つ理論指導者でありながら地元では付き合いが悪い人だったという。神戸女学校を訪ねたのも、向陽義塾の教壇に立ったのも、その好奇心を満たしながら自らの明晰な頭脳をより働かせられる場所を求めてのことだったのかもしれない。


 1月4日、植木枝盛は博多の宿に人力車を利用してたどり着いたがこの日は新年早々あいにくの荒天。「此日寒気実に猛烈、途上辛酸云ふべからず」という大変な道中だったようだ。頭山満が太平洋に面した高知の夏に悩まされたように、植木枝盛も日本海に臨む福岡の冬に苦労させられたらしい。

 翌1月5日には向陽義塾の開校式で演説。とつ弁で土佐訛りのある演説だったらしいが、新たな運動への興味は大きく、向陽義塾生徒や向陽社社員以外の人々も見物人として群集を成したという。


 植木は3月18日まで九州に滞在し、様々なことを日記に書き残した。三が日から間もないということで、頭山の家で雑煮をご馳走になったり、筥崎宮(宇佐八幡宮・石清水八幡宮と並ぶ三大八幡宮の一つ)で玉せせり祭を見物したり、愛宕山(鷲尾愛宕神社。元々鷲尾神社と呼ばれていたところに福岡藩2代目藩主黒田忠之が京都・愛宕山の愛宕神社総本社から愛宕権現を勧請してきたもの。総本社及び東京港区の愛宕神社と並べて日本三大愛宕だとするところもある)に登ったり、また2月11日の紀元節では明治5年に禁止された松囃子が復活した第1回博多どんたく祭を見るなど福岡各地を観光している。


 余談だがこの紀元節の頃は向陽社についての流言が飛び交っていたらしい。紀元節とは皇室の初代である神武天皇の即位が西暦で言うと紀元前660年の2月11日ではないかという説に基づいた建国記念日だが、「向陽義塾生徒が紀元節前夜に暴発する」というデマが流れ、不安のあまり実際に避難する市民まで現れたという。

 出獄した元不平士族たちが集結していることもあってか紀元節後もデマは払拭しきれず、社員の募集や集会に支障をきたしたとか。


 それはさておき。植木枝盛は福岡を楽しみつつも、その一方でせっかく来たからには、とばかりに植木は講義、演説、執筆と非常な熱意をもって動き回った。向陽義塾では津田真道の『泰西国法論』を教科書に連続して講義を行う。

 “泰西”とは西洋世界を指す言葉で、『泰西国法論』は刑事法も含んだ広義の公法学についてまとめたもの。西洋法学についてまとめた日本初の書物であり、政治行政制度全般の概論として非常に評価が高く、向陽義塾で植木が授業を行った翌年には政府から教科書として使うことを禁じられたというほど自由民権運動において重要な書籍である。


 3月18日までの間に植木は福岡だけでなく佐賀、熊本、久留米と各地に足を運んで講義や演説を行った。この年全部で38回の演説を行い、その内の13回が福岡県での演説だった。毎週土曜日の向陽社演説会で壇上に立った他、後に玄洋社へ合流する香月恕経(かつき ひろつね。秋月出身)が200~300名の社員を集めて盛んな演説会や討論会を行っていたという甘木の集志社にも招かれ、さらには六本松や平田派の国学者である松田敏足が博多若竹町に開いていた漸強義塾でも演説を行い、街頭演説も試みたという。


 執筆活動では、高知でも盛んに歌われ頭山満も覚えて帰ってきたという『民権数え歌』の別歌詞として『かそへ歌 自由の煙』(『自主自由の数へ歌』とも)を出した。九番の歌詞を「九ツとせ、ここは西海福岡よ、自由の風が吹くぞいな、このうれしさよ」とするなど、自由民権の思想をより広めるために民権数え歌を福岡向けに変えたもので、狙いは見事当たり九州地方で大ヒットしたそうである。


 また、植木枝盛の代表的な著作として『民権自由論』があるが、これもこの頃に福岡で書き上げられたものだった。福岡での自由民権運動への関心の高まりを見てか、福岡の書店・集文堂船木弥助が執筆を依頼したもので、出版は植木が福岡を出た後の4月となった。

 こちらの狙いもまた大当たりし、福岡での第一版はすぐさま売り切れ。6月には大阪で2軒の書店から同時に再刊したものの、海賊版まで出てしまう大人気となる。


 植木枝盛は福岡を出る少し前の3月16日に向陽社の社員たちと箱崎松原の越智彦四郎・武部小四郎の墓へ参った後に送別の宴を受け、18日に大勢の人に見送られながら大阪の第2回愛国社再興大会へ参加するため船で福岡を後にした。

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