二十七 向陽義塾と向陽社の始まり

 頭山が高知にいる間。福岡で精力的に働いていた進藤は秋月出身の成美社2代目社長吉田利行から成美義塾を譲り受け、直接引き継ぐという形で“向陽義塾”を設立する。そしてその塾長には箱田六輔を据えた。

 実のところこの時の箱田は暗殺や武装蜂起の路線を堅持していて自由民権運動の路線には消極的であり、頭山・奈良原・進藤が自由民権路線に傾倒してからは「ほったらかしだった家のこともやらなくちゃいけないし」と半ば隠棲したようになっていた。

 しかしながら活発に動き回って各方面をまとめ上げていく進藤の姿には心惹かれる面もあり、さらに進藤本人の懇願や高知から戻ってきた頭山の説得もあった。


「箱田さん。こんな激動の時代にあんたほどの人物が公から離れて家庭内のことばかりで良いのですか」


 箱田六輔は15歳の頃に乙丑の獄で野村望東尼を姫島に護送して以降、戊辰戦争への参戦や就義隊の活動、興志塾の入塾や堅志社の社長就任、前原一誠宅の訪問等々、人生の各所で国事を考えさせられる出来事と密接に関わってきた。

 そんな彼にとって“こんな世の中で公から距離を置いているべきか”、“箱田六輔という人間は国事から離れて落ち着いていられるのか”というのは非常に痛い殺し文句だった。


「天下万民の幸福をひたすら追求する志士が為すことなく漫然と安逸をむさぼっていることは不忠不義である」


 ここまで言われると立ち上がらずにいるのは無理で、箱田は正式に向陽義塾塾長に就任することとなった。かつて成美義塾の設立に尽力したという郡利が幹事長として塾の経営を任され、更に講師陣も多彩な人材が集結する。


 漢学の講師には興志塾塾長の高場乱が招かれた他、頭山満や高場乱が学んだ亀井塾の四代目で、頭山を教えた亀井暘洲の息子である亀井紀十郎や、高場乱の母方の従兄弟で、亀井暘洲に学んで「亀門の四天王」と呼ばれた坂牧周太郎、同じく高場・坂牧の従兄弟で高場・坂牧と共に亀門四天王と言われた上野友三郎、また成美社初代社長として西日本新聞の前身の前身の一つにあたる「福岡新聞」を発行した臼井浅夫などの名前が並ぶ。(西日本新聞は玄洋社系の「九州日報」と「福岡日日新聞」が合併したもので、「福岡日日新聞」は「筑紫新報」と臼井の「福岡新聞」が合併した新聞)

 臼井浅夫の実家は代々遠賀郡で農家をやっていたが、彼は刻苦勉励の結果藩主黒田公に認められて藩校の教官として福岡藩士の身分を得た秀才で、この後明治12年中に上京して元老院に就職したという。


 その他には藩校時代の修猷館元教官で十一学舎の教師でもあったという宗盛年、同じく修猷館と十一学舎の元教師で、十一学舎のあった荒戸町の「荒津義塾」なる場所でも教師だった原田潤助といった名前もある。修猷館関係者の向陽義塾教師では福井掬という人が明治元年には修猷館副訓導をやっていて、後の明治24年には熊本第五高等中学校の国語・漢文・歴史科教授となり、同年に同校の英語科教授として赴任したラフカディオ・ハーン(後に小泉八雲)と同僚になったという。


 漢学だけでもそうそうたる面子が揃ったことがうかがい知れるが、向陽義塾は自由民権運動を目指す塾として法律、英語、理化学も教えた。法律の講師には奥村貞の名前がある。

 彼は明治4年11月に福岡県秋月出張所で聴訟課権少属といった役職で訴訟関係に従事し、明治6年11月頃には長崎裁判所に奉職。その経歴を存分に活かして向陽社でも代言局(弁護士事務所)や法律研究所を指導したらしい。向陽義塾の法律講師には他に2人の名前があって、共に法律、英語、理化学を担当した。彼らはなんと外国人教師だったのである。


 史料には英国人医師のペレーとアメリカ人宣教師アッキンソンの名が記されているが、このうちペレーの方はどういった人物かを特定する手掛かりがなく、玄洋社について取り扱った本でも一部では「英国人宣教師のペレー・アッキンソン」と両者が混同されて一人の人物と思われたりしている。しかし少なくとも宣教師のアッキンソンがアメリカ人で、ある程度素性のわかる人物なのは確かなようである。


 アメリカ人のプロテスタント宣教師であるJ・L・アッキンソンは、前任者のデイビス氏が同志社開校のために京都へ去った後を受け継ぎ、明治8年10月から明治13年の6月まで神戸教会こと摂津第一基督公会の牧師を務めた。

 神戸教会はちょうどその明治8年10月に神戸英和女学校(神戸女学院)の校舎を完成させ、デイビスから職を受け継いだばかりのアッキンソンも建設委員会議長に就任して創設に関わったという。


 この神戸教会と筑前士族には奇妙な縁があった。福岡の変で各隊連絡役や挙兵趣意書起草者として活躍し10年の重懲役刑を宣告された八木和一や、同じく福岡の変に参加して2年の懲役刑を受けた青年たち36名が神戸の監獄に移されていたのである。アッキンソンの指導する摂津第一基督公会会員らは神戸英和女学校初代校長のタルカット女史に相談し、この青年たちに慰問伝道を行うことに決めた。

 特に熱心だったのが、明治9年に熊本バンドと呼ばれる熊本での集団入信に参加した不破唯次郎という同志社の学生で、繰り返し獄中を訪問して献身的な活動を行ったという。この誠意ある伝道は感動を呼び、八木を含めて数名がキリスト教に入信したとのことである。


 神戸英和女学校のタルカット女史とアッキンソン牧師は立志社にもまた縁があった。頭山と奈良原が高知を訪れるより少し早い明治11年の春、2人は中国四国を廻って伝道旅行を行った。そして4月2日にはアッキンソンの希望で土佐立志社にて彼の臨時演説会が夜7時から開かれ、山のように聴衆が詰めかけたという。この好評を受けてアッキンソン牧師は15日まで2週間程度の間、土佐立志社にて6回の演説会を開いたとのことである。

 好学の士である植木枝盛は早速この4月2日のうちにアッキンソンを訪ねたという。さらに植木は婦人問題(女性の権利向上)にも関心を持ち、6月3日には神戸を訪れる。摩耶山に登って山上からの風景を眺望した後、アッキンソン牧師を訪問し、共に神戸女学校を見学した。

 向陽義塾の教壇には土佐から植木枝盛と北川貞彦らも来ており、アッキンソンが短期間ではあったと思われるが向陽義塾の講師となった要因なのかもしれない。


 福岡県内外から優れた講師陣を集めた向陽義塾は明治12年1月5日の日曜日に開校式を行い、いまをときめく自由民権運動の理論指導者植木枝盛による演説で華々しいスタートを飾った。塾の趣意書には植木やアッキンソンらの影響か「公同博愛主義」が掲げられている。

 同月には向陽社幹事職であった箱田六輔が社員間の公選によって正式に社長へと就任。頭山満、進藤喜平太、山中立木、上野弥太郎の4人が監事になり、郡利と中村耗介が議長、樋口兢と榊治人が副議長、林斧助が書記を任され、藤崎彦三郎と加藤直吉が会計係を担い、「民権伸張・国権回復」を掲げて広く社員を募集した。福岡県令の報告では成立時の向陽社の社員は280名ほどを数えたといい、向陽社は目覚ましい活動を始めたのであった。

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