二十九 向陽社内の反発と愛国社内の対立

 植木枝盛の後に続いて頭山・箱田らが福岡を出発し、第2回愛国社再興大会に参加するのだが、向陽社は第1回愛国社再興大会の呼びかけで成立した政社にもかかわらず、「向陽社」という組織名で愛国社大会に参加することは一度もなかった。少々ややこしい話かもしれないが、向陽社の社員は愛国社大会や土佐から来た「他国人」に不信感を残していたグループと、頭山たちのように植木枝盛や愛国社大会との関係を深めたグループの2つに区別されていたらしい。


 向陽社は社長箱田六輔の人徳もあってか発足時にはおよそ280人の社員が所属していた。そこに不平士族反乱に参加して獄中にいた50人ほどが少し遅れて合流する。この50人は演説会で盛んに政体を批判し、土佐立志社から植木枝盛と北川貞彦を教員として招いたのも彼らだったと見なされている。

 福岡県令渡辺清の報告では、当人たちによる呼称か福岡県庁側が名付けたのかわからないが多数派の方を正論党、遅れて合流した方は激論党と呼ばれていた。当然ながら向陽社の幹部には箱田六輔、頭山満、進藤喜平太など出獄してきた者や反乱に参加した士族が多く、激論党は少数派ながら向陽社の主流との結び付きが多数派の正論党よりも強かったようだ。


 そしてある日、教員の一人――――ひょっとすると土佐より招かれた植木枝盛の方から「愛国社に加入するの可否如何」という議題が上がった。“もうじき第2回大会だが、参加できそうか”と確認されたのだろう。

 一応多数決を行い、集まった50人のうち30人が賛成したので一旦は加入が決定した。ところがこの多数決では正論党の人数が少なかったらしく、後から異議を申し立てられてしまう。

 曰く「“愛国”の名だけで盲信するな」、曰く「他国人に進退をゆだねるな」等々。別に組織名だけでついて行ったわけではないだろうが、あるいは元・不平士族の激論党がよほどそういった言葉に惹かれそうだったのか、それとも“他国人”に余程の不信を抱いていたのか。


 再議の結果、正論党は代表3人を大阪に送って愛国社の趣意を問試し、国家のために有益ならば入社する、少しでも納得できなければ入社を断ると決め、植木枝盛が福岡を出発した翌日の3月19日にこの3人も大阪へと向かった。その中の1人に官員の職につきながら向陽社の活動に参加している人物もいたが、渡辺県令によれば「日ごろ激論党を圧するに足る人物なので黙認している」とのことである。


 そして激論党は結局正論党を説得できなかった、もしくは説得を諦めたらしい。激論党は第2回大会に奈良原至ら十数人を送って参加したが、彼らは皆「正倫社」という“正論党”に対抗するようなちょっとややこしい団体名を名乗った。

 向陽社という組織としては愛国社に加入するかどうかで政倫社と正論党に分かれたものの、彼らは完全に袂を分かつまでは行かず、また互いの足を引っ張るようなこともせず、各々で精力的な自由民権運動を続けていく。


 第2回愛国社大会では、政倫社所属の奈良原至が「関以東に地方人民の連合ができていない」ということから“東京に愛国社の分社を設置し、愛国社への東日本からの結集を促す”という提案がなされた。資金は東北会同の期まで福岡政倫社が負担するとまで訴えて熱心に働きかけるも、この時は否決される。


 愛国社大会の目的である国会開設請願のためにも東京分社の設置はやった方が良いことのように思われるが、なぜ否決されたのか。愛国社大会の参加者で、福島の民権運動家である河野広中などは愛国社及び土佐立志社を創設した板垣退助にこの第2回大会の後で愛国社東京分社設置を直接訴えたものの、帝都での開催は政府を刺激しすぎることや予算上の不安といった理由をつけて拒まれる。

 各地から愛国社に参加している士族たちの政治結社は一部例外を除くと必ずしもその経営状態は順風満帆と言い難く、愛国社大会のリーダーたる立志社はそんな彼らの面倒を見ていた。その点では金銭的に苦しかったのは確かだが東京分社の資金について奈良原は福岡政倫社の負担を申し出ているので予算上の不都合はそこまでない。

 そして立地についてもまた、政府中枢機関に近接する都心部で開かねばならぬという理由もない。「関以東に地方人民の連合を作る」というのが重要なのであり、東日本の人々もこれまでの愛国社大会参加者である西日本の人々も集まりやすそうな陸海の交通の便に優れた都市が東京というだけで、政府を挑発しない手ごろな場所があるならもっと郊外、あるいは別の都市でも良かったかもしれない。


 結局この時東京分社設置に反対していたのは立志社を始めとする土佐の民権運動政社と見られる。では何をそこまでして反対する必要があったのかというと、どうやら土佐の士族が占めている自由民権運動の主導者としての地位を脅かされるのが嫌だったということのようなのだ。

 実際にその不安は杞憂ではなかったが、他県出身の者たちが同情できる理由でもなかった。さらに9月開催の予定だった第3回愛国社再興大会が突然2ヵ月も延期されるに至って土佐の民権運動グループに対する不信はますます強まり、福井の民権運動家杉田定一が「急ぎ上阪せよ」と頭山満を呼び寄せ、土佐派とアンチ土佐派がそれぞれ団結して激突していくことになる。


第2回愛国社大会は福岡政倫社を中心としたグループと愛国社大会の創設者である土佐立志社との、日本の自由民権運動のカタチとその主導権をめぐる激しい争いの幕明けであった。

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