十三 武部小四郎と越智彦四郎

 若者たちが興志塾に集まっていた時期は単なる充電期間というわけではなく、塾生たちは勉学の傍らで意見交換を行いながら積極的に反体制運動や武力を用いた反乱に参加している。大改革に邁進する新政府は全国各地から不満を集めており、いわゆる不平士族たちからは新政府の中心的人物として大久保利通が目下最大の敵とみなされていた。


 ちなみにこの時期の反乱活動で士族によるものばかりが取り扱われるのは、なにも“四民平等が定められて、武士階級がチョンマゲや帯刀や苗字などの名誉的な特権を失ったから”などという子供に説明しやすくするために極限まで単純化されたような理由ばかりではなく、維新後ほとんど間もない時期のために古くからの階級社会に基づく行動の違いが出たのである。

 徳川体制下の武士と言うのは軍人・政治家・官僚役人といった務めを担う階級であり、幼い頃から政治に関する思想を教えられ、公に身を捧げいざとなれば戦や仕事上の責任に命を捨てるよう育てられる。ある種のノブレス・オブリージュ的な思想が備わっており、裕福な者から末端の貧乏足軽まで政治意識がかなり高い集団と言うことができる。

 そういったものが士族に一任された階級社会で、農民は裕福であっても“農民であり続ける”こと、“農民としての成功を固める”ことを周囲からも求められる。裕福になっても農民としての“本分”を外れて政治運動を主導することはほとんどないし、まず政治的な学識等を身に着けることから難しい。

 学制が整備され、四民平等の人材養成システムとして学歴社会が出来上がるまでは農民は領民の一員として新政府軍の兵士になる程度で、あとは即戦力の政治家・官僚・軍の将校などとして新政府中枢で活躍するのも、逆に反政府運動に身を投じるのも武家階級ばかりが目立つ形になってしまうのである。

(もちろん明治時代に旧士族や公家以外で活躍した人もそれなりの数いただろうし、それ以前に武家なのか農家なのか明確に分けられないような家も相当数あっただろう)


 閑話休題。福岡の若い士族たちの間で中心的な人物となっていた者の内で、いち早く反政府運動へと積極的に動いたのは就義隊のリーダーである武部小四郎と戊辰戦争で功を上げた越智彦四郎だった。

 新政府方針を専制的として非難する声は明治6年の征韓論争と西郷ら大物政治家の下野をきっかけにして全国に大きく燃え広がる事となるが、この時筑前では政府が軍艦を派遣したというほどの大規模な百姓一揆が起こっている。対処に追われた福岡の士族らがしばらく政府批判どころでなくなるほどの騒ぎだったが、戊辰戦争で活躍した武部と越智はここでも指導力を発揮して名を上げていった。


 そうしてついに明治7年、まず越智が佐賀の乱への関与を目論む。彼は福岡滞在中の大久保利通を訪れ、乱の調停役に立候補した。しかし大久保からは代わりに政府側に就いて乱の鎮撫隊を結成するよう逆提案されてしまう。途中で反乱側に合流して寝返ろうと考えた越智は喜んでそれを引き受けた。

 武部は福岡にいるうちに大久保を討つべきと主張し鎮撫隊結成に反対するも、説得ができないと悟ると「皆酔生夢死の徒ばかりだ」と制止を諦めて一人山に籠ってしまう。越智は仕方なく武部抜きで出陣するも大久保利通と陸軍の児玉源太郎の謀略に嵌ってしまい、銃の口径に合わない弾丸を支給された上に最前線で佐賀軍との衝突を余儀なくされ壊走する羽目となった。

 日本屈指の謀略家としての才を発揮する大久保には越智も武部も能力が至らず、二人の佐賀の乱への呼応は失敗に終わった。しかしながらこの時の二人の行動の差に表れたそれぞれのタイプの違いは両者を分断して疎遠にすることなく、むしろ彼らは死を共にするレベルで友情を厚くし強く結びついていくようになる。

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