十四 愛国社創立大会と政社結成
明治7年・8年、全国には政府への不満をぶつけるため、また同時に四民平等の時代を迎えた武士たちの経済的自立を図るための集団として士族政治結社が日本各地に相次いで結成した。その中でも土佐立志社は、明治6年の政変で下野した参議の板垣退助と自由民権運動の理論的指導者たる植木枝盛を擁する有力集団であった。
彼らは政府批判の点で全国政社の団結を画し、明治8年2月に全国有志の総集会として愛国社創立大会が大阪で開かれ、武部・越智もこれに参加する。
主な出席者は筑前の越智彦四郎、武部小四郎、豊前の増田宋太郎、梅谷安良、肥後の宮崎八郎、加賀の島田一郎、睦義猶、他にも因幡や安芸、伊予、讃岐から来た人がいたという。
増田宋太郎、梅谷安良は後に中津隊を組織して西南戦争に参加、宮崎八郎は協同隊を組織して西南戦争に参加した人物である。宮崎八郎の弟宮崎滔天は後にアジア主義者として頭山満らと度々行動を共にする。島田一郎は西南戦争のさらに後に大久保暗殺を実行し、睦義猶はその斬姦趣意書を起草した人物となる。
思想については細かい点で違いがあったと思われるが、不平等条約改正という国権の課題、それぞれの目的を達するための公議公論という民権の道、そして改革を実行しつつ互いが結びつき、外国の脅威に対して国内を団結させる尊王の思想という三つの目的意識が共有されていたためにそちらは問題とならなかった。
出席者たちを困惑させたのは実質的な会の主宰ともいえる土佐派総帥の板垣退助が、近代日本における元祖「政界の惑星」とも言うべき人物だったことである。愛国社創立大会と同時に明治政府の大久保利通、伊藤博文、井上馨と明六政変で下野した板垣退助、木戸孝允が「大阪会議」を開き、板垣と木戸はあっさり参議に復帰した。
このまさかのタイミングでの裏切りにすら思える板垣の参議復帰に武部らは大いに落胆した。愛国社創立大会出席者に西南戦争へ呼応した者が多く出たのはこの時の板垣に対する失望が西郷隆盛への傾倒に繫がった為だとまで言われるほどである。
とにもかくにも福岡へ帰ってきた越智と武部は自分たちもそれぞれの政社を起こすことにした。武部小四郎は矯志社、越智彦四郎は強忍社という組織を結成して同志を集めた。
この内、後に玄洋社の主なメンバーとして名を知られるようになる面々の多くが武部の矯志社に参加する。平岡浩太郎、進藤喜平太、宮川太一郎、松浦愚、箱田六輔、奈良原至、等々。いくらかゴーイングマイウェイな気質のある頭山満も面倒見が良い宮川太一郎に誘われて矯志社に入った。
また、奈良原の提案で矯志社にいた十代の年少者たちが少年党として集まり、晨鶏社として独立、さらに箱田六輔を呼び入れて社長の役目を頼み、堅志社と改称する。しかしながら奈良原も箱田も矯志社を抜けたわけではないらしく、一部メンバーが重複した形で強忍社、矯志社、堅志社という3つの組織が並び立った。
3社共に高場乱の興志塾で学ぶ者たちによる結社であり、思想的にも大きな違いは無かった。これはおそらく、彼らが情報交換や活動内容の話し合い等を行うにあたってそれぞれのやりやすい規模に分かれたもので、掛け持ちにも大した問題は生じなかったのだろう。
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