十二 興志塾と塾生たち
興志塾に入塾する際に鯛を3尾も持ってきたという横田毒(よこた こたう)という人は読書を好み、ある時高場先生に一冊の本を10度も繰り返して読んだことを話した。するとこんな言葉が返ってきたという。
「足りぬ。予は30回程繰り返したものだぞ」
授業では『論語』、『孟子』、『尚書』、『史記』、『孝経』、『周易僭考』、『毛詩考』、『徂徠集』、『三国志』、『水滸伝』、『靖献遺言』等々、日本の物も中国の物も多岐にわたる書物が扱われた。乱は机に書物を置いてはいるけれどもそれを見ることはなく、博引傍証で広く様々な書を引用しながら講義を進めた。小柄な女性の身体、などと侮っていたなら驚く程の大きな声で授業を行い、三時間連続で講義しようとも疲れを見せなかったという。
教科書は印刷物を許さず全て手書きで書き写させる。そして授業で書を講ずる時は章句の枝葉末節に拘らず大綱を論ずるだけにして細部は塾生の自主研究に任せた。回読の際も行き詰まった生徒にはわからない箇所を飛ばすよう叱った。
「男子たるもの立て板に水を流すがごとく話ができなくてどうするか。忘れたりわからない箇所は飛ばせ。質疑の際よく考えて解説すればよろしい」
維新間もない動乱期。興志塾は徹底して実践的な内容を重視し、高場乱はその博学と熱意と精神性で塾名の通りに若者たちの志を興し元気を奮起することを目指した。
講義内容に水滸伝などの通俗的な小説まで含まれているのもそのためだった。高場先生が迫真の弁舌で三国志を、史記を、そして靖献遺言を説けば聞く者は目の前にいる先生の姿を忘れた。そこには忠臣、節婦、英雄、豪傑が次々と現れ、生徒たちは皆拳を固く握りしめ胸を熱くし血を沸かせる。このようにして古典の学問が、英雄たちの生き様が若者たちの血肉となっていった。
そんな調子で「豪傑塾」「腕白院」などと呼ばれていた興志塾。その中でも年少でありながら特に荒くれ者といわれたのが奈良原至だった。
興志塾に住み込みで生活している塾生たちは当番制で掃除や飯炊き、買い物を任されていたが、安政4年(1857年)生まれで頭山満よりも2歳年下の彼は当初料理当番を任せてもらえずに買い物のお使いばかりやらされていた。奈良原は塾生の中でも特に松浦愚(まつうら おろか)という人と特に仲が良く、この2人は一緒に醤油買いに行くのを楽しみにしていたという。
“愚”というのは自ら改名した名前だそうで、幼名は“百太郎”といったのだが、黒田家に仕える福岡藩士として愚直たることを美徳としてこう名乗った。しかし名が体を表し過ぎた人だったようで、非常な正直者であるのと同時に少し「足りない」ぐらいに学問を苦手としていつも先生に怒られ、皆から「松浦の馬鹿馬鹿」と言われ軽侮されたり敬慕されたりした。
馬鹿力があって、お遣いに出されると重い荷物を買ってくるのも平気だったが愚直な松浦はちょくちょく失敗をやらかしたらしい。釣銭を誤魔化されたり、買った品を帰り道で落としたり、買った野菜とランプの燃料に使う石油の缶を重ねて振り回しながら帰り、副食にされるはずだった野菜がひどい臭いで食べられなくなったり……。
そんな調子なので年少で且つ興志塾きっての荒くれ者の奈良原至がお遣いの時には松浦の見張り役に塾内で抜擢されていたらしい。松浦は嘉永4年(1851年)の生まれで奈良原より5歳以上年上なのだが、随分後にこの当時を振り返った奈良原からは「同じ年輩の友人」と記憶されていた。松浦が早いうちに亡くなった為に若かった頃の印象が強く残ったのか、それとも松浦愚という人物が愚直過ぎた故に年長者に思われなかったのか……。
醤油買いの話に戻ると、奈良原・松浦愚のコンビは醤油買いに行くたびに2本の太い荒縄で醤油樽を吊り下げて、2本の縄の端を左右に長々と2人で引っ張ってブランブランと樽を揺らしながら往来一杯になって歩いたそうだ。興志塾は他で持て余されるような荒くれ者の豪傑青少年を好んで迎え入れ集めていたために、高場乱の門下というだけで福岡の町の皆から恐れられた。なので奈良原たちが来れば人も肥料を運ぶ手押し車も皆慌てて道の脇に逃げたという。大勢の人が一斉に避けていく様は見ていてなかなか面白かったようで、2人とも縄を一杯に広げて醤油を持ち帰ることを毎回楽しみにしていた。
ある日その醤油買いの帰り。2人は博多の櫛田神社の前を通り、社内に人だかりができているのを見つけた。見てみると宮司が長いヒゲを撫でながら拝殿の上に立って演説をしている。当時は演説ができる人が非常に尊敬され、芝居や見世物よりも珍しがられたもので、お遣い帰りの2人も興味を持って見物客の最前列に押しかけ、その宮司の演説を聞いた。
演説で宮司は王政維新以来、敬神の思想が地に落とされているとしてこれを嘆き、神というのは常に我が○○以上に尊敬せねばならぬと強く主張した。伏せ字にされた○○にはおそらく“天皇”や“皇室”、“皇統”などに類する言葉が入っていたのだろう。
そしてその例として元弘3年、後醍醐天皇の討幕計画に呼応した足利尊氏らが鎌倉幕府を滅ぼした頃の話を出した。当時九州随一の勤皇家武将であったという菊池武時は北条探題、少弐大友らの大軍を蹴散らそうと手勢を引き連れて博多櫛田神社の前を横切ろうとした。
宮司の話ではこの戦いが菊池軍に不利であることを示し給う神慮によって鳥居の前で馬が足を止めてしまったのだという。武時はそれに苛立ち、「この神は皇室のために決戦に行く俺の心がわからんのか」と神殿の扉に2本の鏑矢を射かけてそのまま戦場へ馬を走らせてしまった。
「馬を下りて神前に幸運を祈らず、斯様な無礼を働き神慮を無視したために、彼は勤皇の義兵でありながら一敗地に塗れ……」
宮司が得意顔でそこまで話したところに、奈良原・松浦コンビはどちらが先かという勢いで神殿に躍り上がり、2人がかりで髭神主を殴り倒し蹴りつけた。トドメに松浦が醤油樽を脳天に叩きつけたために髭神主は醬油の海のなかでノビてしまった。
後の成人した奈良原至は「この賽銭乞食め、神様の広告のために途方もないコトをぬかす。そういう貴様が神威を冒涜し、国体を誤る国賊じゃないか」ぐらいのコメントを出せたが、宮司を叩きのめした瞬間の奈良原至はせいぜい14か15歳ぐらいだったし、松浦愚については既に語った通りの松浦愚だったので2人ともそんなに気の利いたことは言えず、割れた醤油樽を御神殿に投げ込んで「この畜生、バチを当てるなら当ててみよ」と言い捨てて塾に凱旋した。
お遣いの帰りのことなので醤油樽も買ったばかりのたくさんの醤油も、必然的にその醤油を買った分のお代もすべて失われてしまったわけだが、2人が事情を説明すると高場乱先生は「ようしなさった。感心感心」と涙を流して奈良原・松浦コンビを褒め称えたので塾生皆が2人の手柄を羨ましがったという。
現代の価値観でこれを肯定的に解釈するならば、2人の行いは寺社仏閣や教会を政治に介入させない・宗教団体を圧力団体などにさせないという政教分離の原則を結果的に守ることへと繋がったと言うことができるだろうか。
“まだ子供で飯を炊くことが出来なかったから代わりにお遣いに走り回らされた”という奈良原至少年もやがて食事当番を任されるようになった。彼らは塾に寝泊まりしていたので食事の準備には朝食も含まれるのだが、塾内でも乱暴者の急先鋒と言われる奈良原は食事の支度が出来上がってもまだ寝ている奴がいた場合、火がついたままの薪を掴んできてそいつの懐に突っ込むという過激な方法で相手の目を覚めさせた。
そのために奈良原が朝食の支度を担当した日は塾生たちが年功の長幼を問わず早起きせねばならぬ騒ぎだったという。ところがいつものように奈良原が薪を放り込んでもただ一人だけ平然としている人物が現れる。それが頭山満だった。
少年時代から“仙人修行”と称して度々気まぐれに山籠もりをし、飲まず食わずで過ごすなどの無茶をして心身を鍛えていた頭山は懐中で燃え続ける薪にもまったく動揺せず、というより微動だにする気配すら見せずに奈良原を眺めた。
二人は薪が燃え尽きるまで見つめ合い、火の消えた薪を奈良原が回収したところで頭山はその腕を掴んで組み伏せ謝罪させた。共に塾内で年少の奈良原と頭山の二人はこの時のことがきっかけで気心の知れた親友になったという。
頭山満と松浦愚とのエピソードでは膝を組み合わせて押し合う「膝こぢ」という遊びをした話が伝えられている。
ある夏の暑い日に頭山と宮川太一郎が膝を投げ出すようにして話していた時、宮川が頭山の足を見て「なんという小さな足かい」と言った。それに頭山が「貴様のような余分な肉は俺の足にはつけない。小さくてもこれが一番良い足だ。走り競べでも膝こぢでも負けはせぬ」と言い返し、宮川がその負けず嫌いっぷりに笑っていた。
そこへ“太一郎の手下で喧嘩が何より好きな”松浦愚が「膝こぢなら俺が」と名乗り出てきたので頭山は受けて立ち、松浦が悲鳴を上げようが降参を訴えようが構わず上下関係を叩き込まんばかりにねじ伏せ膝で押し続けたという。
実は松浦は戊辰戦争後武部・箱田・進藤・平岡らのいた「就義隊」のグループに所属していたらしく、そうなるとかつては宮川太一郎らと対立していたはずなのだが両者が和睦し共に興志塾に入ると松浦は宮川の子分と見られるようになっていた。
松浦愚は塾内での扱いやキャラが既に述べた通りの感じであったし、宮川太一郎の方はその面倒見の良さを伝えるエピソードがいくつも残されている人なので二人は自然にそういった関係になっていったのだろう。
頭山はそういったリーダー格とも仲良くなり、塾内で注目を集める人物になっていった。そもそも講師である高場乱と同じ亀井塾を既に出ていて漢学の素養を積んでいたので、頼まれればすぐにでも代講をこなすことができるぐらいであった。
あまりの能力の高さに塾生たちからこんなことを尋ねられたという。
「そういえば頭山。お前、歳は幾つかいな」
頭山が「ちょうどハタチじゃ」と答えると周囲に笑いが起こった。
「二十は二十でも、戊辰の頃の二十歳だろう」と。
頭山満は西暦で言うと1855年生まれ。戊辰戦争の年、つまり十干十二支でいう干支の“戊辰”が1868年なので実年齢よりも7歳くらいは上に思われていたらしい。頭山がそのぐらい年上の相手も「足軽の子」と見てまったく臆さなかったので尚更そう思われたのだろう。
(宮川太一郎は1847年頃の生まれらしい)
高場乱と頭山満にはこんなエピソードもある。ある晩、奈良原が外で酒に酔って遅くに返ってきたのに対し、年長の塾生が指導として繰り返し殴りつけるような厳しい折檻を行った。それを特に何か思うでもなく眺めていた頭山の背を、高場は飛びつくようにして掴み、目に涙を湛えて訴えたという。
「貴方ほどの人がどうしてあんな非道を放っておくのか」
高場が代講も任せられる頭山をいかに高く評価していたかわかる言葉だが、この時の頭山はまず第一の感想として“普段男らしく振舞って偉そうに見せている人なのに、こういうところで女性として生まれた一面が出てくるのは面白いな”ぐらいのことしか思わなかったらしい。まだ20歳前後の頭山の精神的な若さみたいなものが伺える回顧談である。
また頭山は高場の授業への熱意と質素倹約の仕事ぶりを評価しつつも一方で、学問的なことは滝田塾や亀井塾であらかた身に着いていて興志塾で得るものはほとんどなかったという。
確かに頭山満という人間の精神性だとか学問教養などの根本的なところは興志塾以前に出来上がっていたかもしれない。だが興志塾で国の将来を憂い、行動を起こす意志と能力を持った若者たちと苦楽を共にしたことは彼が一人の偉人として歴史に名を遺すきっかけに繋がっていった。
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