第103話 いざデートへ①
ピンピンピンッ
仮交際の話が挙がった三日後のお昼時。
インターホンが連打されて、コールが鳴り切る前に受話器を手に取る。
案の定、モニターには志乃原の姿が映し出された。
小悪魔後輩は、ボタンを押しても音が鳴らなくなったことで怪訝な表情を浮かべている。
「なんだおい」
志乃原は俺の乱雑な言い方に反応して、頬を膨らませた。
『先輩っお口悪い!』
「ごめん。ばいばい」
『あっ、ちょっ──』
何か言おうとした志乃原に構わず、俺は通話ボタンを切る。
すると再びインターホンが鳴り、モニターが明るくなった。
今度は画面一杯に、雪豹のキーホルダーが付いている鍵が映っている。
『先輩、私今鍵持ってるんですけど』
いつでも開錠できる、ということを言いたいのだろう。
俺は息を吐いて、平たい声を出した。
「お前、それ割とギリギリのラインだぞ」
『分かってますよ、だから脅すだけに留めてるんじゃないですか』
「脅してる自覚あんのかよ! ……てか、俺今から飯食うんだよな。お前の分は無いんだけど大丈夫か?」
『ひとまず中に入れてくれませんかね!』
「えー」
『先輩、今日の手土産はGODIVAのチョコレートです』
「そうか、開けていいぞ」
悲しいかな、一人暮らしの俺には高級チョコの魅力に抗えない。
鍵が開く音が聞こえて、志乃原の軽快な声が入ってくる。
「先輩ー、お邪魔していいですか?」
「GODIVA!」
「オッケーでーす」
俺が適当な返事をするのと、玄関のドアが閉まるのは同時だった。
やがて姿を表した志乃原は、薄ピンクのニットに、珍しくピンクゴールドのイヤリングを掛けている。
少しばかりドキリとしてしまうのは、男は揺れるものを好むという本能的な習性のせいだ。
「はいっ先輩、今週もお邪魔します」
そう言って、志乃原は高級感のあるショッパーを俺に渡してきた。中には本当にGODIVAのチョコレートが入っていて、俺は「うおー!」と感嘆の声を上げる。
男子大学生の一人暮らしに、高級チョコなど無縁の存在に近い。
生活費から差し引かれた自由に使用できるお金は、大抵つまらないことに変えていく。
礼奈と付き合う前は、ソシャゲの課金に変えていき、その殆どが藻屑に成り果てた。あの時のお金が今あればもっと色んなことができるのだが、それは嘆いても仕方ない話。
今問題なのは、俺がこのチョコレートですっかり飼い慣らされてしまったという情けない事実だけだ。
「でも嬉しいものは仕方ないな!」
「これで先輩のご機嫌が一週間保つんだから、安いものです」
「俺って思う壺だなー」
たまにこうして嬉しい手土産を持ってくるのが、志乃原の賢しいところだ。余程眠たい時ではない限り、家に入ってくることを許してしまう。
「先輩、土曜日ですけどバイトとかはないんですか?」
「今日はない。ゆっくりGODIVAることにするわ」
「そんな動詞はありません……」
志乃原は若干呆れたような声色で返事をしてから、続けた。
「それで先輩、考えてくれましたか? 仮交際の件」
「ああ、いいぞ」
「ですよねー、私も家に帰ったからよくよく考えてみたらかなり無茶振りしてしまったなと反省しまして。先輩の気持ちを蔑ろに──」
「いいぞ」
「ないが、蔑ろに……えっ?」
志乃原は暫く目を瞬かせた後、俊敏な動きで腰を上げた。
「早く言ってくださいよ、変な負け惜しみツラツラ並べちゃったじゃないですか!」
「ずっと言ってたわ!」
礼奈から二度も頼まれたのだ。最後まで迷いはあったが、受けてしまったのだから仕方ない。
だが当人である志乃原は俺に断られることを予想しており、かつ納得していた様子だったので、もしかすると今仮交際を受けたのは間違った選択だったかもしれない。
断ることで事態が丸く収まるのなら、それが一番だったというのに。
「やっぱりな──」
「やっぱりなしは、なしですよ。もう言質取りましたので」
「俺の人権どこいっちゃったの?」
「口は災いの元ですからね! ……誰が災いですか!」
「一人でつっこんでんじゃねえよ!」
俺が声を上げると、志乃原はケラケラと笑う。
「じゃあ、決定っていうことでいいですね。私、先輩と確かめたいこと沢山あったんですよ」
「なんだよ、確かめたいことって」
俺は訊きながら、志乃原の答えを何となく察していた。
同時に、この一週間は相当疲労しそうだなと感じてしまう。
「それはですね──」
志乃原はそう言ってから、腰を下ろす。その際、胸元がチラリと見えた。春服ということもあって黒のキャミソールらしきものが視界に入り、思わず目を逸らす。
これは決してラッキーではない。なぜなら──
「先輩、今日は見ちゃってもいいんですよ。だって私、今は彼女なんですから!」
「近寄るな」
「言葉の暴力!」
このチラ見せは全て計算されているファッション。
視界に入ることが前提の下着であることから、志乃原自身は羞恥心を抱いていないはず。
男子が好きなのはあくまで本物の下着で、見えたら怒られてしまうようなものだ。
「本物の下着に謝ってくれないかな」
「それはちょっとよく分かんないですけど。いいじゃないですか、私もここに着くまではしっかりカーディガン羽織ってたんですから」
「え、それ見せ下着だろ?」
俺は視線をタブレットに釘付けしながら、訊き返す。タブレットには先程まで視聴していた格闘技の試合が無音で流れていた。
「先輩への見せ下着ですよ、誰彼構わず見せる訳じゃないです。まあ本物はその下にしっかりありますけど……そっちも見ます?」
「追い出すぞ」
「ですよねー」
俺の返事が予想通りだったらしく、懐かしむように目を細めた。
「最初に一夜を共にした時も同じこと言ってましたよね」
「間違ってないけど、なんかその言い方は語弊があるな」
志乃原が初めてこの家に泊まったのは、一月の中旬頃。礼奈から『浮気なんてしてないから』という電話があった日の夜ということは、今でも鮮明に想起できる。
あの頃とは身を取り巻く状況が大きく変わっている。
俺の、志乃原に対する感情も変化している。
「私と先輩、知り合ってからもう半年くらいじゃないですか?」
「ああ、サンタコスのあれな」
そう言って、俺は口角を上げる。
少々からかってやろうという心持ちだったが、志乃原は予想に反してドヤ顔をしてみせた。
「あれすごい似合ってましたよね。普通の人ならあんなにサマにならないと思うんですよ」
「そういやそういうやつだったなお前……」
「な、なんか失礼!」
志乃原は不満そうな表情を浮かべる。
俺は「悪い悪い」と二言詫びて、息を吐いた。
「要するに、気を遣わない仲の人と、一度恋人らしいことしたいってことね」
「そうです。遊動先輩の時と違って、今回は先輩も了承済みですから。変に拗れることもないかなと!」
「拗れなくてもな、まともな神経してたら仮交際なんてしないんだよ」
仮交際というワード自体を漫画などで耳にする機会はあれど、まともな大学生活を送っていれば実際にしている人など目にすることはない。
互いの両親の関係で仮交際をしなければいけなくなるという状況は漫画などでよく目にするが、そんなことは現実で早々起こり得ないことだろう。
少なくとも俺のような一般人には縁遠い話であることは間違いない。
「まともな神経してても仮交際する人もいるかもですよ?」
「どこにいるんだよ。俺らもう限りなく大人に近いんだぞ」
漫画などで仮交際という概念がある舞台の殆どは、中学か高校だ。
それは中高生という自己決定力に欠ける年齢だからこそ仮交際という曖昧な関係が成り立つのであって、何事も自分で決めなければいけない年齢になった俺たちには明らかに不向きだ。
中高生のそれと違い、大学生の仮交際から連想されるものは爛れた関係だろう。
その思考をまるっきり言葉にして伝えると、志乃原はあっけらかんと笑った。
「むしろ自己決定力が上がった結果が仮交際ですって」
「なんでだよ。その心は」
自分なりのロジックを笑い飛ばされたことで若干ムキになりながら訊く。志乃原はそんな俺に全く動じず、人差し指をピンと上げた。
「婚活してる人は、お見合いの時複数人と仮交際するなんて当たり前じゃないですか。その中に良い人が何人もいたとしても、最後には一人に決めなきゃいけないんですよ。ある意味最もシビアな選択を迫られるのが仮交際じゃないですかね」
「……どこで得た知識?」
「…………恋愛番組」
少しの沈黙。
俺と志乃原は見つめ合い、次第に志乃原の視線が横に流れていった。
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