第102話 礼奈の依頼
「真由ちゃんの仮交際、ちゃんと受けてくれた?」
サークルからの帰り道、礼奈はたい焼きを二つ両手に持ちながら訊いてきた。片方のカスタード味を差し出され、ありがたく受け取る。
「やっぱたい焼きはカスタードだよな」
「一般的にはあんこだけど、カスタードも人気だよね。悠太くんはあんこ食べられないもんねー」
礼奈は「こんなに美味しいのに」と付け足して、小さな口でたい焼きを頬張る。
俺はあんこを食べられない訳じゃないのだが、自分でお金を出して食べるとなると断然カスタードだ。生地と洋風な甘味は絶妙に合うと思う。
楽しみ方はこれほど別れるたい焼きは奥が深い。
その事について語ろうとすると、礼奈が控えめに掌を俺の口に当てた。
「めっ。話がまた逸れそう」
「むぐ……」
そう言われて、やっと話が脱線していたことに気付く。
頭の中で返事をするだけで、言葉に出していた気になっていた。
カスタードの甘みが口内からある程度消えてから、やっと口を開く。
「断りたいんだけど、ほんとにあいつのお願いに付き合わなきゃいけないのか」
仮交際を頼まれてから、一旦はサークル活動に専念した。今志乃原がこの場にいないのは、元々二人で予約しているお店があると嘯いたからだ。
この件に関しては、志乃原が場にいると進む話も進まなくなる。もしくは、あらぬ方向に進んでしまう。
志乃原も最初は駄々をこねたていたものの、やがて予約というワードの力に屈し、最後にはサークル活動に参加して交流を深めていた。
サークル員たちからの歓迎も中々のもので、志乃原のコミュ力の高さを体現している。
彩華がある程度計算して世渡りしているのに対し、志乃原の人当たりの良さは天然物だ。
だからこそ危うい面もあるのだが、今まで関わってきた人の中に志乃原のようなタイプはいなかったので、知り合ってから数ヶ月経った今でも新鮮な気持ちにさせられる。
丁度礼奈も同様の事を考えていたらしく、「真由ちゃんすぐみんなと仲良くなっててすごかったなぁ」と頬を緩めた。
「真由ちゃんみたいな素直なタイプが慕ってくれるのって、やっぱり財産だと思う」
礼奈の言葉に、不本意ながら頷く。
認めるのはなんだか癪に触るのだが、確かに俺にとってあの後輩の存在は大きい。元々志乃原と仲良くなってから、俺はすぐに感謝するようになっていた。だから痛い出費になることを承知で財布をプレゼントしたのだ。
しかしあの時はあくまで、生活を助けてくれることに対しての感謝。
最近の志乃原への感謝の気持ちは、そこに内包されている模様を少しずつ変えている。
つまり──傍にいてくれることへの感謝へと。
志乃原という存在が常に頭の片隅にいる。
それはただ仲良くなったからという理由だけではなく、俺が持っていない一面を何度も垣間見たからだ。
自分の感じた事、考えた事を率直に、言葉や行動で表す。
俺とは対照的な性格をしているくせに、相手に合わせる心得もあって、二人でいる時間は驚くほど俺の日常に馴染んでしまった。
これまで生きてきて志乃原のようなタイプと深い仲になることはなかったせいか、頻繁に何処か新鮮な気持ちにさせられて、その事もまた不思議と心地良いのだ。
「でも、結構苦労するぞ。礼奈にも猪突猛進したみたいだし……悪かったな、その時は」
「ふふ、なんで悠太くんが謝るの」
礼奈は少し笑ってから、たい焼きの入っていた紙をくしゃりと丸めた。
「さっきも言ったけど、真由ちゃんが悠太くんの為に怒ってたこと、私は嬉しかったよ」
礼奈はそう言ってから、髪を梳き始めた。
アッシュグレーの髪が、さらりと耳にかけられる。左耳のイヤリングが、陽光を照らしながら控えめに揺れた。
「でも、後輩のしでかしたことを謝るのが先輩ってものなのかな。いいなぁ、そういうの」
「そうか?」
羨ましむような声色に、俺は意外な気持ちになった。
礼奈は弓道サークルに入っているし、高校の時も部活に在籍していたはずだ。後輩の一人や二人くらいいるだろうに。
「志乃原の態度見てりゃ分かるけど、礼奈も年下に好かれるタイプだろ。同年代には出せない雰囲気とか纏ってると思うしさ」
仲の良い後輩がいることを踏まえての発言だったが、礼奈はかぶりを振った。
「私、そんなに面倒見の良いタイプじゃないから。勿論可愛がろうと頑張るんだけど、どうしても相性とかあって……やっぱり運動部は、溌剌とした先輩が慕われるんだよね」
「へえ……まあ、そんなもんか」
言われてみれば、多少は腑に落ちる。確かに礼奈は運動部より、文化部がイメージに合っている。弓道は運動部といっても比較的大人しい人が集まるイメージがあったが、礼奈の所属していた弓道部はそんなこともなかったのだろう。
「……やっぱり嘘。今のなし」
「えっ」
「白状します。自分に親しい後輩がいないことに、もっともらしい理由を付けて言い訳しちゃいました。見栄張っちゃいました」
そう言って、礼奈はこちんと自分の頭を軽く小突く。その仕草は周りの男子学生が思わず二度見してしまいそうな可愛さを秘めていたが、幸いなことに誰も見ていない。
「今の言わなかったら、俺絶対分からなかったぞ」
俺が正直に言うと、礼奈は小さく笑った。
「そうかもね。でも私、決めたんだ。さっきはちょっと勢いで話進めちゃったけど……それでもよっぽどの事がない限り、悠太くんには自分の考えたことはちゃんと言葉にしてみようって」
「……そうか」
礼奈はあの一件から、変わろうとしている。意識的に自分の行動を変えようとする行為は相当の精神力を要し、一朝一夕でいかないことはよく知っている。そんな苦労を俺との出来事で決意したことは、本来なら申し訳なく思わなければならないはずだ。
それでも、俺は──
「ねえ、悠太くん」
「な、なんだよ」
「なんかちょっと嬉しそうだね」
そう言って、礼奈が俺の頬をちょんと指で触れた。
気を悪くしていいところなのに、礼奈は相変わらず優しく微笑んでいる。
「行動力あるよな、礼奈って」
「そんなの、場合によるよ。私にとって今変わらなきゃいつ変わるんだ、くらいの出来事だったからね。真由ちゃんと同じだよ」
礼奈は軽い調子で言ってから、続けた。
「やっぱり悠太くん、真由ちゃんと二日間付き合ってあげて?」
「えっどうしてそうなった?」
突然戻った話についていけずにいると、礼奈はくすりと笑った。
「私ね、賭けることにした。私こう見えて、自分の立ち位置は理解してるんだ。悠太くんにとって、今の私がどれくらいの存在なのか、多分把握できてる」
「なんだよそれ、怖えよ」
「こ、怖いかな。それはちょっと、なんか傷つくかも」
礼奈は眉を八の字にして、しょぼんと俯く。
俺は慌てて首を横に振った。
「ご、ごめんごめん、違う。今のは恥ずかしさを誤魔化しただけだ」
照れ隠ししていたことを教える事なんて、それこそ最も恥ずかしいことなのだが、今はそんなことを言っていられない。俺は誤解を解こうと更に言葉を重ねようとすると、礼奈は顔を上げた。それはもう、素敵な笑顔で。
「うん、分かってる。ごめんね、からかいたくなっちゃって」
「……こ、小悪魔みたいなことしやがって。どこで覚えたんだよ」
「真由ちゃんならこういう言動しそうだなって」
──確かにしそうではある。というより、全く同じようなやり取りをしていた確信がある。
「そういうのって、やっぱ狙ってできるもんなんだな」
「当たり前じゃん、女の子にとってこんなの普通のコミュニケーションの範疇だもん。二人きりの時じゃ無いと、後が怖いけど」
「後が怖い?」
「同性がいたら、あざといとか陰口言われそう。このご時世、サバサバ系の方が世間体良いし」
「加えて、望んでなくても男に惚れられるしな」
礼奈の言葉に、俺はそう付け足した。
男なら今しがたの言動で、好意を寄せられていると勘違いしてもおかしくない。
冷静に俯瞰してみれば違うと分かることも、当事者になれば"この言動は自分に対して恋愛感情があるから見せているのではないか"という、都合の良い解釈をしてしまう。
小悪魔のような言動は、女子本人にはそのつもりがなくても男は胸が高鳴ってしまうものなのだ。言動の主が志乃原や礼奈のような女子なら、尚更のこと。
だが仮に小悪魔のような言動をしている自覚が本人にない場合、その勘違いがどういう結末を生むかは大体分かる。
「真由ちゃんも、色々苦労したみたい」
「何か聞いたのか?」
「断片だけね。あんまり詳しくは聞かなかった」
「まあ、そうだろうな」
志乃原は、あまり俺に過去の話をしたがらない。
かつては俺も過去の話なんてしなかったし、志乃原が昔の話をしないことに対して特に何も思っていなかった。話したい時がくれば話せばいい。気が向かなければずっと話さなくてもいいと、そう考えていた。
だが、今はもう少し志乃原のことを知りたいと思う。
あいつは信頼されることを実感することに喜びを感じていると言っていたが、俺が知りたいと気持ちの根底にあるものも、概ねそんなところだ。
俺は、志乃原のことを純粋に、もっと知りたいと思う。
俺が知っているのは今の志乃原で、過去のことは関係ない。しかし、現在の志乃原を形成しているのもまた過去の志乃原なのだ。今の志乃原が人として好きだからこそ、過去のことも知りたくなる。
疎ましく思われることは避けたいので口に出すことはしないが、これが俺の正直な気持ちだった。
「これは私からのお願いとしても聞いてほしい。真由ちゃんのお願い、聞いてあげて?」
「あんなの冗談の範疇だと思うんだけどな。それを──」
「もうっ」
礼奈が俺の頬を軽くつねった。
全く痛くない代わりに、艶のある指先の感触が僅かに伝わってくる。
「むがっ」
「分かった?」
……他の女と仮交際しろだなんて、こんな素敵な笑顔で言えるフレーズなのだろうか。
こちらを窺うような上目遣いをしていながら、声色は俺が頷くことを確信しているようだ。
「……いいのかよ」
「私がお願いしてるんだもん」
仮交際への答えがどちらに転ぼうが、志乃原は俺の家にやって来る。その際にはっきり断ろうと思っていた。
志乃原もはっきり言われたら、そういったギリギリの境界線は決して越えてこない性格だ。俺との距離感を理解しているからこそ、こうして不思議な関係が成り立っているのだから。
「悠太くん、私がお願いしてるの」
「分かった、分かったよ」
根負けして、俺は両手を挙げた。
倫理観の欠如が著しい、仮交際という提案。それでも、誰かに言いふらす訳ではない。短期間であれば、特段困るようなことは起きないだろう。
「で、礼奈は何に賭けるんだ」
俺が質問すると、礼奈は側道にあるゴミ箱へと向かい紙を捨てた。俺もそれに倣ってゴミ箱についていく。
「内緒っ」
後ろ姿から聞こえる、礼奈の答え。
明るい声色の中に、違う感情が入り混じっている気がした。
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