第101話 志乃原と礼奈③
コートに視線を投げると、試合はまだ前半戦。
出場の機会があっても暫く経ってからなので、正直手持ち無沙汰な時間だ。
「まあ、次の試合までなら」
「先輩ってそんなにバスケ好きでしたっけ……」
「そりゃ、俺ずっとバスケ部だったからな」
中高生の頃ずっとバスケをしていたら、環境が変異した今になっても、ふとした瞬間にボールに触りたくなる時はある。
元々バスケサークルに入ったのは、気分が乗った時に活動に参加できるから。志乃原と出逢った当初はその機会も限られていたが、最近はかなり頻繁に参加している。
「私も中学生の頃バスケしてましたけど、全然ムズムズしないですけどね……ってまた話が逸れました」
志乃原は首を振って、俺と礼奈の反応を待つ事なく話し出した。
「昔々、私はお姫様を夢見ていました」
「女の子はみんなそうだよね」
礼奈が微笑ましそうに言う。志乃原は悶々とした様子を見せたが、「そうですよね」という返事に留めた。もし今の発言が俺だったら、また"正論言えばいいってもんじゃないですよー!"と噛み付いていたに違いない。
一度気分をリセットするためか、志乃原は自分の頬をペチペチと叩いた。今度は話をしっかり聞こうと、俺も耳を傾ける。
「私の恋愛観って、人とズレてるんですよね。それはもう、ほんとは随分前から分かってることで」
「ああ……確かに、それは前も言ってたな」
今年の一月のことだっただろうか。
家に帰ると志乃原がいて、恋愛番組を眺めていた。
「自分の恋愛観が世間とズレている疑惑がある」と言っていたのはその時だ。
「あの時初めて思ったんじゃなかったんだな」
「ずーっと思ってて、控えめにカミングアウトしたんですよ。引かれないようにって思ってたんですけど、もう今となっては大丈夫かなって。先輩も、礼奈さんも」
俺と礼奈は顔を見合わせて、コクリと頷く。
恋愛観のズレが分かったところで、俺と志乃原の関係性が変わることはない。
引く可能性がゼロとは言い切れないが、その事で志乃原との関係を変移させる可能性はゼロだ。
礼奈も志乃原とは知り合ったばかりだが、他人の恋愛観に偏見を持って距離置くような性格をしていないことは、俺が一番分かっている。
志乃原も感覚的にそう思っているのか、あるいは俺を信頼している結果か、礼奈に対しても同様の信頼を置いているようだった。
「聞いた瞬間は引くかもしれないけど、それで敬遠することは絶対ないぞ」
「こういう時は普通嘘でも引かないって言いませんか⁉ 先輩らしいですけど!」
芝居めいた強めの口調だったが、嬉しそうな表情は隠しきれていない。
あまり深刻な雰囲気になるのは志乃原にとっても不本意なのだろう。
いつも通りの朗らかな声色で、志乃原は言葉を並べる。
「私の中で、ズレた理由はこれかなーって大体分かってるんですよ。結構小さい時から周りとズレてて、そのせいでちょっとごたついたこともあったんですけど」
志乃原は体育館の天井を仰ぐように見上げた。
吸い込まれるように高い天井は橙色で、体育館に明るい雰囲気を附与してくれている。
陽光に似た光を暫く眺めていたせいで視界が狭窄し、表情を見ることができなくなったところで、志乃原はまた話し出す。
「変わりたいって焦って、失敗して。多分人ってそこから成長するのが普通なんでしょうけど、それでも変わらなくて、ズルズルきちゃって。だから、この大学生活が最後だと思うんです。自分を変える、最後のチャンスだと思うんです」
比較的時間に余裕のある大学生活。
部活のあった中学生以降に限ると、この大学生活は最も時間に恵まれているといっても過言ではない。
だからこそ志乃原は、この大学生活に一旦のタイムリミットとして線を引いているのだろう。
社会人になっても変われる機会もあるだろうが、次がある、次があると思った結果変わらなかったのなら、自分を追い込むことも必要なのかもしれない。
価値観を変えたいという志乃原の気持ちは、今までもたまに伝わってくることがあった。
それなら、俺も応援したいと思う。先輩として、一人の人間として。
「応援するよ。変わるのって、大変だもんな」
恋愛観を変えることに本気になることなんて、人によっては軽笑の対象にもなるかもしれない。そんなことで何を本気になっているんだと、笑うかもしれない。
だが、少なくとも当人の志乃原は本気なのだ。後輩の悩みは真摯に聞くのが先輩というものだ。
先輩だから何かをしなければならないという固定観念にはそこまで賛成する気になれないが、志乃原に対しては何かしてあげたいという気持ちがあった。
なんだかんだとここまで関係を築いてくると、そういう想いも生まれてくる。
「じゃあ、仮交際してください」
「無理」
「今絶対了承する流れでしたよね⁉」
志乃原がそう言って地団駄を踏んだ。
試合中で視線がコート内に集まっていなかったら、一体あの三人は何の話をしているのかと怪訝に思われたことだろう。
「仮交際するとして、これって一応礼奈さんにも確認取った方がいいんですかね」
志乃原はそう言って、礼奈に向き直る。
礼奈はそんな志乃原の言葉に少し驚いた様子だったが、やがてかぶりを振った。
「私、それを止める権利ないんだ」
……恋仲ではないので、止められない。
至極当たり前の理由だが、俺は思わず視線を下げた。このことに罪悪感を抱くのは礼奈の望むことではないかもしれないが、きっと暫くは苛まれることになるだろう。
だが志乃原は特に思うところはないようで、声色を変えることなく礼奈に訊く。
「じゃあ、ご希望期間は? 長いのはあんまり良くないですよね」
「……二日くらいなら」
「みじかっ⁉」
志乃原は驚いたが、俺も別の理由で驚いた。
「待って、何で本人を前にして話進められんの? 俺の意見も聞くだろ普通。ていうかさっき俺無理って言ったよな、あれ言わなかったっけ」
「言ってないですね」
「絶対言ったわ!」
数秒前の記憶が抹消されている後輩に、俺は思わずつっこんだ。そんなに都合の良い頭があってたまるか。
「まあ二日ボディタッチ無制限なら、ありですね」
「話聞け!」
「悠太くん、いいよ」
礼奈が静かに、一言告げる。
俺も志乃原も思わず同時に礼奈を凝視した。
「な、なに。二人して」
「礼奈さん……ありがとうございます! これで先輩は動きますよ!」
志乃原は仰々しく仕草で手を広げて、再び礼奈に抱きついた。
「ちょっと待て、なんでだよ!」
「悠太くん」
再度静かに呼び掛けられて、俺は喉まで出かけていた言葉を一度飲み込む。
この場において、現在一番発言力のある人物は礼奈だ。志乃原も俺も、礼奈の言葉をじっと待っている。
「さっき悠太くんに言ったお試し期間。あくまで例え話で、冗談ぽく聞こえたかもしれないけど。私、割と本気だったの」
「なんでそんなことに本気になるんだよ。礼奈は──」
──それでいいのか。そう訊こうとして、やめた。
礼奈のことを慮る気持ちと、この事を訊くことを繋げてはいけない。俺が訊くなんてことは、あってはならない。
どんな言葉を返されようが、きっと俺が解決することはできないのだから。
「うん」
礼奈はくすりと笑って、頷いた。まるで、俺の考えていることに察しが付いているというように。
志乃原は礼奈から離れると、俺の腕をガシリと掴んだ。
「ほら先輩、行きますよ」
「ほんとに待て、次の試合だけは絶対出る。話はそれからだ」
「じゃ、私はいつものジャージに着替えてきます!」
志乃原はそう言って、俺の腕からあっさり離れた。
華奢な肩に掛けられているいつもより大きめの鞄には確かな膨らみが見て取れて、前持って準備をしてきたことが伺える。
今日俺がサークル活動に参加することは伝えていなかったが、自室にあるカレンダーで予定をチェックしていたのかもしれない。
志乃原は藤堂を始め、近くにいたサークル員それぞれに挨拶をしながら、更衣室に向かって駆けていく。
そんな志乃原の後ろ姿を見て、礼奈がぽつりと呟いた。
「……口は災いの元かもって、さっきはちょっとだけ思っちゃった」
「じゃあ俺今からでも断ってくる」
「ダメ」
「なんで!」
「私のことを……また選択肢に入れてくれるには、どうすればいいのかなって。それを考えた結果が、今だから」
志乃原を追い掛けようとした足がピタリと止まる。
──復縁。
カップルの大抵は別れるものの、時に復縁する人たちもいる。礼奈が復縁を望んでいることは、以前から分かっていることだった。
だがこうして言葉にされたのは初めてで、どう言葉を返せばいいのか分からない。頭をフル回転させても、納得のいく返事が口から出てきそうにない。
「ごめんね、困っちゃうよね」
礼奈はそう言って、肩を竦めた。
かつて俺と礼奈は、胸中に燻っていた気持ちを言葉にしないことですれ違ってしまった。
だからといって、全て口に出されてしまうのも考えものかもしれない。
「言葉の取捨選択って、難しいね」
「……そうだな、難しい」
俺が返事をすると、礼奈は「仕方ないね」と肩を竦める。
丁度いい塩梅が視覚化されたら楽なのに──そんな実現するはずもない考えが、浮かんで消える。
試合終了を示すホイッスルの音が、いつもより大きく聞こえた。
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