第100話 志乃原と礼奈②

「どうです先輩、私で一定期間恋人生活をお試しするのは」

「なし」

「即答⁉」


 志乃原は驚愕したような表情を浮かべた後、ヘタリとしゃがみ込む。


「先輩と更に仲良くなれるチャンスが……最近やっと関係深くなってきてたのに」

「あのなあ、自分の経験積みたいだけでお前の時間を奪えるかよ」


 レンタル彼女などの金銭による関係ならまだしも、善意によるものならもっと違う時間の使い方があるはずだ。

 相手に分かりやすいリターンがない状態では、そんなことは口が裂けても頼めない。

 もっとも、自分の時間を無駄にして、更には日頃から志乃原の時間を浪費させている俺が言えた口ではないかもしれない。

 だが志乃原はサロンモデルなどもやっていることだし、他に個性的な彼女の力を活かせる分野があるかもしれないと思うと、やはり俺の選択は間違っていないように思える。


「私も色々経験したいですもん。私が良いって言ってるんですから、win-winじゃないですか」

「ダメ、絶対」

「薬物みたいなテンションで言うの辞めてくださいよ!」

「悠太くんにとっては、ある意味薬物かもね。手遅れかもしれないけど」


 礼奈はそう割り込んできた後に続けた。


「さっきも言ったけど、私あくまでものの例えで話してただけだから。真由ちゃんもそんなに本気にしなくてもいいんだよ」

「いや、本気です。丁度良い機会なんですよ、私にとっては」


 いつになく真剣な面持ちに、どこか違和感を覚える。


「……どうした?」


 俺が訊くと、志乃原は口籠った後に俯く。言おうか言うまいか逡巡しているようだ。

 暫くそんな時間が続き、俺と礼奈は顔を見合わせる。そして礼奈が遠慮がちに訊いた。


「何かあった?」

「べ、べつに何かあった訳では……ただ、心境の変化が」


 ようやく志乃原が反応し、礼奈に向かって告げた。


「礼奈さんからも、色々学んだ気がします」

「私から?」

「はい。いやその、嫌味とかじゃなくて。すみません、そう聞こえてたら土下座しますけど」

「だ、大丈夫だよ土下座なんて。でも……そっか。真由ちゃんに何か役立たてるなら嬉しいかな」


 志乃原が色々学んだと言ったのは、恐らく俺と礼奈の一件からのことだろう。志乃原が思わず謝ったことから分かるように、直で言われて良い気分になる人はいないと思う。だが、礼奈は意外にも嬉しいと返した。


 ──相変わらず、心が広いな。


 出逢った時から、礼奈は優しさで人を包み込むような魅力を秘めていた。

 本人は否定するかもしれないが、包容力の根底にあるのは心の広さなのだろう。

 志乃原はそんな礼奈の返事に目を瞬かせた後、飛び付いた。


「……礼奈さん、この前はすみません。かなり無礼な事ばっかり言ってしまって」

「この前?」


 礼奈はきょとんとしていたが、俺にはすぐ理解できた。

 志乃原が礼奈へ一方的に問い詰めたことを、本人の口から聞いていたからだ。

 志乃原の独断行動は、再度礼奈へ会いに行くことへの背中を押してくれることに繋がったので、俺にとっては良かった。

 だが礼奈の立場からしてみれば、志乃原の行動は失礼以外の何ものでもないはずだ。

 礼奈もやがて志乃原が何のことを指しているかを理解したようで、かぶりを振った。


「大丈夫。むしろ、私はちょっと嬉しかったから」

「え?」

「あれって、悠太くんを純粋に慕ってるからこその行動だと思うから。悠太くんやっぱり魅力的な人なんだなぁって、あの時再確認できたの」


 礼奈の言葉に、俺は小さく息を吐く。


「お前よくそんな小恥ずかしいこと……」

「だって、ほんとのことだもん」


 礼奈はこちらにチラリと視線を向けて、微笑んだ。

 だが志乃原は礼奈の言葉に腹落ちしていないらしく、再び訊く。


「礼奈さん、なんで私に怒らないんですか? 事情があったとはいえ、私なら一度でも自分を邪険に扱った人とは、あんまり関わりたくないなって思っちゃうんですけど」

「んー……」


 礼奈は小首を傾げて、視線を上に向ける。そして数秒経つと、おもむろに口を開く。


「事情がなかったら、私だって嫌だよ。事情の中にも、許せるもの、許せないものもあるし。この前の件は、さっきも言った通りむしろ嬉しかったくらい」

「……なんでそんなに相手の立場になって考えられるんですか?」

「頭ごなしに否定したくないだけかな。相手の事情も汲み取れば別の結果が出たかもしれないなっていう後悔、私にも経験あるから」


 ──それが何を指し示した言葉なのか、俺には分かる気がする。


 遠回しのメッセージか、それとも。


「私を受け入れてくれる礼奈さんが、悪い人なはずがありませんね」


 志乃原はそう言って、礼奈に飛びついた。

 礼奈は「うわっ」と驚きながら、志乃原の腕に捕まる。唐突な攻防に俺は唖然とするしかない。

 抱きついた志乃原は無言で礼奈を見上げていたが、やがて礼奈の腰に手を回して抱きついた。「ここ落ち着く……」などという言葉を放っており、礼奈も困った様子を見せながらもまた頭を撫で始める。


「ラーメン屋でお会いした時かほんとはこうしたかったんです……」

「そ、そんなこと考えたんだね。言ってくれればいいのに」

「何を見せられてんだよ俺は」


 思わず声の調子を落として呟いた。

 礼奈と志乃原の仲睦まじい様子は、表面上とても微笑ましいものだが、二人と交流の深い俺からすればそわそわしてしまう光景だった。


 だが先ほどまでの志乃原には何かとんでもないことを言い出す可能性を否めない雰囲気があったものの、今はそれも無くなった。今しがたの礼奈とのやり取りは、志乃原の胸の支えを取り除いたようだ。


「ふふ。なんか小動物みたいで可愛い」

「礼奈さんの胸柔らかい……」

「あっ、ちょっと。もー、大人しくしてなさい」


 志乃原が顔を胸に埋めようとしたので、礼奈が慌てたように離れる。

 だが思いの外志乃原が粘り、結局礼奈も許容したようだった。同性にしか許されないノリで、異性が同じことをしようものなら警察行きだ。

 サークル員の視線を背中に感じ始めて、居た堪れない気持ちになる。声が聞こえる距離に誰もいないのが幸いだった。


「ねえ、先輩」


 礼奈の胸の奥から、志乃原がモゴモゴと俺に話しかけてきた。そんな状態の後輩に返事をするか迷う。

 だが礼奈が無視しようとした俺を視線で咎めてきたので、仕方なく「んだよ」と答えた。


「こんなに魅力たっぷりの礼奈さんとの記憶しかなかったら、確かに今後の先輩の恋活が心配になります」

「余計なお世話だっつの」

「ほんとのことですもーん」


 正直、最近は礼奈との一件に頭が支配されて、これからの恋愛についてなんて考える機会は少なかった。 

 常に誰かが傍にいてくれるという恵まれた環境も相まって、人肌寂しく感じることもない。

 彼女が欲しいという漠然とした思考回路は存在していても、次の彼女について明確に考えようとはしなかった。

 彼女ができるとしても、どこかで遠い未来の話と思っていた。


 だが改めて考えてみれば、これほど異性が傍にいる時期は長く続かないだろう。


 俺は、自分に常時人を惹きつける魅力がないことを自覚している。にも拘らず、分不相応ながらも常に異性が傍にいる。これをチャンスと捉えるならば、今のうちに彼女はつくっておくべきなのかもしれない。


 俯瞰すれば一見理論的で、その実かなり最低な考え方だが、結局男なんてそんなものだと思う。誰にも覗かれることのない脳内では、顰蹙を買うような思考があったとしても仕方ないこと。

 場を弁えてその考えを表に出すことをしなければ、問題ないと思っている。


「俺、今は彼女つくる気ないよ」


 だが、これも間違いなく自身の本音だった。

 彼女が欲しいという曖昧な欲求はあるものの、これが明確にならないうちは独り身でいたい。


 クリスマスシーズンは、カップル御用達のイベントが控えているという事実が頭の片隅に存在し、独り身は寂しく感じていた。実際気温が下がると、人間は本能的に異性を求めるようにできているらしい。


 だが今は暖かくなってきており、今後控えているイベントだって特にない。

 恋愛に対するモチベーションが下がるのは、ある意味自明と言えるのだ。ふとした瞬間に恋愛のことが脳裏に過ぎることはあるが、殆どの時間は恋人を求めていない。

 それに──


「うん、だよね」


 返事をした礼奈の声色は、心なしかホッとしているような印象を受ける。

 礼奈の存在も、恋人がいらないと思う要因の一つだった。

 再スタートを切った相手にすぐ恋人ができると複雑な気持ちになることくらい、考えなくても分かる。

 だから俺は、自分の恋愛に対するモチベーションの有無に拘らず、暫く彼女を作ってはいけない。

 こんな考えは自己満足かもしれないが、少しでも円満な関係に繋がるならば安いものだ。


「そんなの、知ったこっちゃないです」


 志乃原が礼奈の胸から離れて、俺の方へ顔を向けた。


「当事者の意見が知ったこっちゃないってどういう了見?」

「べーっ」


 志乃原はこちらに向けて舌を出す。


「おちょくってんのか」

「そうともいいます!」

「否定しろよ!」


 志乃原がケラケラ笑ってから、再び礼奈の胸元にダイブした。

 最初はそんな行動に戸惑っていた礼奈も、今度は口元を緩ませる。礼奈にとってこんなにも短時間で距離を詰められる機会など早々ないはずだが、満更ではないらしい。志乃原は本当に年上と相性が良いと思う。

 だが、一つ引っ掛かる言葉があった。


 ──知ったこっちゃない。


 今の発言は、いつもの軽口なのか。

 それとも、俺の事情を全て知った上でのものなのだろうか。

 だがたとえ後者だとしても、その言い分は間違っていない。志乃原の立場からすれば、俺たちの事情など所詮外で行われていたものだろうから。


「じゃあ、ひとまずお試しで、先輩を貰ってもいいですか」


 ……気軽に思うからこそ、こうした発言を場に投げることができるのだろう。


「その話まだ続いてたの?」


 俺がわざとらしく呆れ顔で言ってみせると、志乃原は「勝手に終わらせないでください!」と膨れっ面をする。


「私、一つコンプレックスがあるんですよ」

「そりゃあ人間誰しも一つはな。だから気に病む必要はない」

「正論言えば良いってもんじゃないんですよー!」


 志乃原が俺に噛み付く勢いで物申すが、今は礼奈とくっついているせいか可愛いげのある小動物にしか見えない。

 なんだか毒気が抜かれて、俺は深く息を吐いた。


「ちょっと私の昔話していいですか?」

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