第98話 礼奈の提案
一瞬の沈黙。
バッシュが擦れる音や、ドリブルの音がやたら大きく聞こえる。
礼奈は俺に質問をした後、じっとこちらを見つめて視線を逸らさない。真剣な眼差しを何とか正面に受けながら、俺は口を開いた。
「そんなこと、今はあんまり考えない。暫くは多分、特定の相手と付き合いたいとか、そういう思考回路は持たない」
「え、不特定多数と付き合うってこと?」
「ちげえよ!」
慌てて否定すると、礼奈は可笑しそうに肩を揺らす。
「ふふ。冗談だよ」
「んだよ、心臓に悪い……」
そういう類の冗談は、特に礼奈との間で気を付けるべきだと考えていた。
だが礼奈から持ち掛けるならば話は別だと思えば、いくらか肩の力は抜ける。無論、俺からするべきではないということは重々承知している。
だが今の答えは、恐らく礼奈にとっては逃げに映ってしまうものだろう。決して嘘を付いた訳ではないが、歯切れの悪い返事になってしまったことは自覚している。
礼奈の問いに対する明確な答えが瞬時に浮かばなかったのだから、仕方ない話ではあるのだが。
礼奈は小首を傾げて暫く俺を見つめた後、悪戯ぽく微笑んだ。
「私と付き合う前ってさ、悠太くんが付き合った女子って二人くらいだったよね」
「あー、まあ随分前の話だけどな」
中学三年と、高校一年。
それぞれ半年未満で別れたが、どれも学生の平均的な人数、期間だと思っている。
「その人たちとは、会ったりしてるの?」
「まさか。もう何年も連絡してないよ」
高一の元カノはインスタだけ繋がっているが、中三の時の元カノは連絡手段も何一つ知らない。その事に対して特に何も感じないのは、周りの作った空気に流されて付き合うような、気持ちのこもっていない関係だったからだろう。
中学から真剣な交際をする人もいるが、俺はそうではなかった。初めて両想いが実り、身が焦がれるほど好きになったのは眼前にいる礼奈だけだ。
「どれも短期間って言ってたもんね。じゃあ、比べる人がいないのと同じかなぁ」
礼奈がポツリと呟いたので、俺は怪訝に思って問い返す。
「どういう意味だ?」
「ううん、こう考え方が倫理的に間違ってる事は分かってるんだけど。……比べる人がいないのは、悠太くんにとってどうなんだろうと思っちゃって」
比べる人。確かに交際において鮮明に残っている記憶は礼奈のものだけだが、他の元カノの記憶があまりないことには憂いがない。
元カノを比較すること自体、特段必要のないことのように思える。
「私、今ちょっと性格悪いこと言っちゃったね。自覚はあるんだけど、他に言葉が見つからなくて」
「気にしてないよ、言いたいことは分かるし。確かに、比較対象が多いほど正確になる気もするよな」
多くなりすぎると逆効果かもしれないが、ある程度の指標はあるに越したことはないという考え方もあるだろう。
最も望ましいのは最初に付き合う人が所謂運命の人であるということだが、俺の場合初交際は中学三年の時点で終わってしまっている。
「でも、試しに付き合うなんてことはできないしな」
付き合うからには、真剣な関係を築いていかなければいけない。
だが真剣だからこそ、交際関係に至るまでに様々なリソースを割かなければならず、経験を積んでいくことが比較的難しい。
だからこそ交際経験は貴重で価値あるものなはずなのだが、こと恋愛において経験を積み重ねることが必ずしも良いようには捉えられない。
自分の前に一人でも交際経験がある異性は信用できない、爛れた人間だ──そんな言葉を吐く人がいる。
何事も経験を積んでいくうちに精度が上がっていく。一度目で物事を成功させる難易度が高いことなんて当たり前のはずなのに。
勿論、お互い一度目で成功させることが最も望ましいことは確かだ。
だが俺は既に次が四度目の交際になることから、そんな綺麗事は言っていられない。そういう意味では自分の指標を確立する為に、"お試しの交際"をするというのは都合の良い話なのかもしれない。
条件は、相手も仮交際ということを承知済みであること。これは当然のことで、こちらだけ仮交際なんて心算で付き合い始めるなんて、人として最低のことだ。
欠点は、世間体が最悪だということ。たとえ本人同士が仮交際という関係に納得していても、周りでその関係を認めようとする人は少数派だろう。
そして最大の問題は、そんな倫理観を持ち合わせている風変わりな人間が、周りにいないということだ。
「うん、やっぱ無理だな」
俺が言うと、礼奈は残念そうな、そして同時に安心したような表情を浮かべた。
「だよね。私も悠太くんがそういう経験を積むことは……何というか、お勧めしたいけど。ちょっぴり不安もあるっていうか」
「まあそんな試しに付き合おう、みたいなノリのやつは周りにいないし」
自分で言った瞬間、数ヶ月前の情景が脳裏にフラッシュバックする。
去年のクリスマスイブに、そういう話をしたことがあったような、なかったような。
「その話、詳しく!」
「は?」
後ろから聞こえてきた声は耳馴染みのあるもので、言霊は本当にあるのかもしれないと思わされる。
振り返ると、そこにいたのは。
「あっ」
礼奈が声を漏らす。
俺と礼奈の視線の先には、志乃原が腕を組んで口角を上げていた。
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