第96話 あの日の影響

 ボールのドリブル音が、体育館一体に反響している。ワックスの匂いが鼻腔を擽り、中高生の間バスケ部だった身としては、此処は落ち着く空間だ。

 今日は礼奈と約束していた、バスケサークル『start』の活動日。

 俺が今履いているバッシュは自前のお気に入りのもので、念入りに紐を結び付ける。腰を上げて靴裏を床に擦り付けると、キュキュッという耳に心地いい音が鳴った。

 床のコンディションは良さそうだ。


「なあ、悠」

「なんだ」


 横から話しかけてきた藤堂に返事をする。

 藤堂は「なんだじゃねえよ」と言ってから、親指でクイッと後ろを差した。指し示された体育館への入り口には、礼奈が佇んでいる。


「後輩ちゃんとは違う女子連れてきたと思えば、あれ。お前の元カノじゃねえの?」

「そうだな」


 あっさり認めた俺を怪訝に感じたのか、藤堂は眉を顰めた。


「もしかして復縁したのか?」

「いや、違う」

「じゃあなんで連れてきてるんだ。お前浮気されたんだろ、どういう風の吹き回しだよ」


 藤堂は若干呆れたような表情を浮かべる。浮気した彼女を連れてくるなんて何を考えてるんだ、と言いたげだ。まあ、本当にその通りの状況なら、俺でも同じことを思うだろう。


「念のために確認だけしておくけど、その事誰にも話してないよな?」


 俺が訊くと、藤堂は「当たり前だろ」と即答した。


「そこらへんの線引きはちゃんとしてるさ。悠が誰かを好きになったとか、そういう話なら言いふらす可能性もあるけど」

「それならお前の線引きはちょっと間違ってるぞ……」


 俺の言葉に、藤堂は可笑しそうに肩を揺らす。

 若干不安は残るものの、藤堂を信じることができなくなった時はそれこそ人間不信へ直結する。大学からの付き合いではあるが、同性の中では最も多くの時間を過ごしているのだ。

 だからこそ、藤堂には礼奈との一件を伝えておきたい。

 自分から情けない面を曝け出すのは足踏みをしてしまうが、これが礼奈の汚名返上に繋がることを思えば安いものだ。


「ちょっと藤堂に話しておきたいことがあるんだけどさ」


 俺は藤堂の隣に、再度腰を下ろす。

 チラリと入口の方を見ると、礼奈はサークル員がシューティングしている様子を興味深そうに眺めているようだった。


 ──礼奈には、俺が藤堂に全ての事を話し終えるまで待機してくれとお願いしてある。


 俺から「別れた理由は礼奈の浮気だ」と伝えられた友達は、彩華や藤堂を含めて数人いる。このサークルでは藤堂だけだが、いずれ全ての人に訂正する必要がある。

 礼奈は「私のためにそんなことしなくていいよ」と言った。

 それ故に、礼奈にとって俺が今後取ろうとしている行動は自己満足で、大した意味を持たないものに映るかもしれない。

 だが、これは俺の最低限のケジメだった。

 今後礼奈に憂いなく接するための必要不可欠な条件。

 だから俺のケジメは「礼奈の為」という皮を被った自己保身に他ならない。それでも結果として礼奈との再スタートへと繋がるのなら、その自己保身に意味を与えることもできるだろう。

 藤堂へ全て話すことが、そのケジメへの第一歩。

 俺は意を決して、静かに、そして大きく息を吸った。


「俺、彼女に浮気されたって言ったよな」


 怪訝な表情を浮かべる藤堂に、俺は言葉を紡いでいく。

 去年の出来事を一つ一つ想起しながら、自身を戒める意味も込めて時間を掛けて話していく。

 最初こそ藤堂は軽い調子で聞いていたが、次第に真剣な面持ちになっていった。

 藤堂は彼女に一途な男だ。ひょっとすると、これを機に軽蔑されるかもしれない。藤堂の性格からして表立つような態度は取らないだろうが、心の内は分からない。

 気心の知れた一人の友人が離れていく可能性に話し始めてから気付いたものの、もう途中で止めることはできない。


 そして数分後、俺はやっと全てを話し切った。

 唯一彩華の名前は明言しなかったが、藤堂は分かってしまうかもしれない。

 実際は俺の慮る気持ちが欠けていただけで、彩華自身に罪はない。だがその事を正しく理解できるのは、恐らく俺しかいないだろう。なぜなら、彩華との関係性は俺たち当人にしか分からないものだからだ。

 藤堂でさえ、俺と彩華がなぜ他人と一線を画した関係を築いているのか知るところではない。

 高校二年生のあの空間、あの時間を共に過ごしたから今の関係はあるのだが、それを言葉だけで伝えても理解を得るには難しいに違いないのだ。


 それは俺も、そして彩華も自覚している。


 だからこそ、彩華が礼奈との一件を機に俺との関係性を考え直すことになると思うと、どこか落ち着かない気分にもなった。

 だが電話先で礼奈との一件を告げてからも、彩華はいつも通り俺と話してくれる。

 その事に、俺は少なからずほっとしていた。

 他人からは歪に映るかもしれない関係も、俺にとっては何者にも変え難いものだから。

 とはいえ、その事と礼奈にした言動は全く別の話だ。

 今は自分の配慮の足りなさが事を招いたという現実に対して、正面から向き合わなければならない。

 その一歩目として藤堂に全てを話したのだが、藤堂は俺が喋っている間、一つの言葉も挟まなかった。


 ──軽蔑しているんだろうな。


 自分で喋っていると、酷い話だという認識がますます強くなる。

 藤堂も、何と返答するか考えあぐねているに違いない。

 反応を待ち続けると、やがて藤堂は重苦しい溜息を吐いた。


「…………誰にも言わなくてよかったわ、ほんと」

「……ごめん。余計な気遣わせた」


 藤堂も彩華と同じように、俺が別れた直後は少なからず気遣ってくれていた。だがそれは、浮気をされたという特殊な事態が絡んだから。ただ別れただけの話なら、藤堂は恐らく俺に気を遣うこともなかったはずだ。

 もっとも彩華は気を遣った結果笑い飛ばし、藤堂は俺をからかいと、常人にはない行動を取ったのだが。

 藤堂も俺と同じことを考えていたようで、「俺はふざけてただけだろ」と笑った。


「ただ、礼奈さんは気の毒だな」


 藤堂の言葉に、俺は首を縦に振る。


「申し訳ないよ、ほんとに。……お前にも、軽蔑されても仕方ない話だ」


 俺が声色を暗くすると、意外にも藤堂は小さく笑みを溢した。


「いや。ぶっちゃけ、お前の言動も理解できるよ。俺も彼女に楽しかったことを逐一報告してたら、いつの間にか怒らせてたって経験あるからな」

「藤堂も?」


 気配りができる印象が強いので、意外な気持ちになる。

 このサークルにも多くの新入生が入っているが、数多くあるバスケサークルの中でこれだけの人が集まるのは藤堂が代表になったからだ。

 誰とでも分け隔てなく笑い合うことができ、先輩後輩、男女から共に評判が良い。

 友達だからという贔屓目を抜きにしても、藤堂ほど尊敬する点が多い同年代は珍しいとさえ思っている。

 そんな藤堂が俺と同様の失敗をしていることに、思わず口元を緩めた。


「……お前もそういう失言とかするんだな」

「ばか、当たり前だろ。俺は早い時期に失敗繰り返したから、今の彼女とはずっと上手くいってるんだよ。前の彼女にはふつーにそれが起因したケンカで振られたっつの」

「へえ。なんか藤堂って、そこらへんの気遣いは天性で持ってるもんかと思ってた」


 俺が茶化すと、藤堂は「はは、そんな訳」と口角を上げる。


「皆んなが通る失敗を先に経験しておくと、皆んなが失敗してる最中に余裕持てるんだ。悠が俺に持ってる印象は、その結果ってわけ。これ、結構得だぜ」


 その言葉には、不思議と重みがあった。借り物ではない、藤堂自身が何かしらを経験した上で得た持論なのだろう。

 恋愛にも何にでも言えそうな汎用性の高い理論だが、綺麗に腹落ちした。


「大人の余裕ってよく言うけどさ。あれ、先に失敗を経験したからこそ出るものなのかもな」


 俺はそう言って、腰を上げた。

 失敗は成功の元。

 俺と礼奈の間にあった出来事を失敗だとするのなら、やがてその経験を糧にして活かせる瞬間がくるのかもしれない。

 それが半年後か、一年後か、もっと先になるかは分からない。

 だが俺が礼奈との一件を忘れなければ、その時はきっと訪れる。


「その時の相手は誰なんだろうな」


 藤堂がそう言って、ニヤリと笑う。

 俺はほんの僅か時間そのことについて思案して、放棄した。


「お前かもな」

「やめろよ⁉」


 座ったまま飛び退いた藤堂に軽く笑いながら、俺は礼奈の方へと歩みを進めた。

 入り口からこちらを控えめに覗いていた礼奈と目が合う。

 藤堂には、全てを話した。


 ──これで少しは、礼奈と憂いなく話すこともできるだろうか。


 きっと、その答えはすぐに分かる。

 再スタートを切ったことへの善し悪しも、恐らくは。

 俺は礼奈に向けて手を挙げ、藤堂に話し終えたことを伝えた。


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 前94-95話が68-69話とイベント内容が被っておりました、すみません!

 前回のエピソードの続きを楽しみにしてくださっている方は、95話に後半エピソードを追加更新いたしましたのでご覧いただければと思います。

 少し時間が経った後に削除対応いたします。


 ※書籍4巻内容を追加更新できそうなので、不定期ですが更新再開いたします!

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