第95話 彩華の家
高校生の頃、彩華の家に入ったことはある。
だがあれは実家だったし、一人暮らしの家に入るのとは訳が違う。
そのことから多少緊張しながら玄関先を跨いだのだが、口から漏れ出たのは怒りの言葉だった。
「ふ、不公平だ‼」
「うわっびっくりした! 何叫んでんのよ!」
彩華は背中をピシャリと叩き、早く部屋に入るように促した。
俺は背中の痛みなど一瞬で忘れて、リビングに入る。
そう、
「1LDKとか羨ましすぎる……しかも俺の家の倍くらい広いんだけど」
「別に大したことないわよ。家具揃えるのにも余計にお金掛かるから、一時期バイトすごい頑張ったし」
「それ差し引いても羨ましいよ。うわーここに引っ越ししてー」
ホワイトのフローリングに、ライトブルーのカーテンとカーペット。
リビングの隅ある観葉植物もカーテンの色合いによく合っていて、ガラステーブルには砂時計。
物は多くジャンルも疎らなのに、何故か統一感を感じさせる内装にはお洒落な雰囲気が漂っている。
「俺の家もお洒落にしたい」
家なんて暮らせればいいと思っていた俺だったが、同い年にここまで差をつけられては落ち着いていられない。
「あんたには無理よ」
「酷くね⁉」
「いや、ほんとに。親には家賃半分払ってもらってるから大分楽だけど、それでも週四はバイトしないと回らないわ。あんた、週三以上働けないでしょ」
「……ギリギリいけるわ!」
「はいはい、ソファにでも座っててね」
彩華はそう流して、キッチンに向かう。
釈然としないまま後ろ姿を眺めていると、彩華は小棚からエプロンを取り出した。
エプロンを巻く動作は自宅で何度も見掛けるものではあるが、今日は場所も相手も違う。
彩華のエプロン姿を見るのは、高校の家庭科にあった実習以来だ。
「え、なに? まじで?」
これから起こることを察しながらも、思わず訊いてしまう。
彩華は髪を括るためのヘアゴムを咥えたまま、こちらに振り返る。
目が合うと、彩華は悪戯っぽく口角を上げた。
「にひっ」
──やばい。
可愛さの中に若干の色気を漂わせる立ち振る舞いに、俺は思わずそっぽ向く。
「そこで待ってなさい」
髪を括り終えた彩華が、冷蔵庫の中を漁りながら言った。
中には買い込まれた食材があるようで、手際良くカウンターに置いていく。
一体なぜいきなりこんなことに。
「なんか俺お前に良いことしたっけ?」
「別に。そういう気分になっただけよ、今日はあんたに来てもらった訳だし」
俺の質問にあっさり答えると、彩華はフライパンにざっとバターを引いた。
誘いに応じるだけでこんな待遇をされるのならば、いつでも飛んでいきたいくらいだ。
そんなことを考えながら彩華の後ろ姿を眺めていると、俺の理解の範疇を越えた戦いがキッチン上で始まるようだった。
「あんたグラタン好きだったわよね? それ作るから」
「えっやばい。俺死ぬの? これ最後の晩餐なの?」
「まあ、確かに普通なら死ねるくらいの幸運かもねえ」
彩華はこともなげに言いながら、着々と料理を進めていく。
今まで彩華に料理を作ってもらった回数は片手で数えられる。そのどれもが高校生の時で、体育祭でお弁当を作ってもらったりだとか、家庭科の実習だとか、全て校内での出来事だ。
少なくとも、こうして自宅で振る舞ってもらうことなんて初めてのこと。
学内の彩華ファンからすれば、今の俺の状況は喉から手が出るくらいのものだろう。
「前から料理作ってあげようと思ってたんだけど、全然タイミング合わなかったじゃない? 一度決めたことなのにズルズルと伸びていってたから、今日にしようってさっき車の中で思ったの」
「感謝感激雨霰」
「もうちょっと普通にお礼言いなさいってば」
そう言いながらも、彩華が満足気に微笑む気配がする。
俺もその事になんだか嬉しくなって、クッションに頭を預けた。
微かに彩華の匂いがして、図らずも悪いことをした気がして顔を離す。
「別に気にしなくてもいいわよ」
彩華はこちらに振り向かないまま言った。
後ろに目でも付いているのだろうか。
「好きに寛いでて」
積み上げてきた時間が、彩華にそんな言葉を紡がせる。
「……おう」
俺は短く返事をして、再びクッションに顔を
背後で料理をする彩華のとの音と、クッションの匂いに包まれながら俺は少し考える。
温泉旅行を経ても、俺たちの関係性は大きく変わらなかった。
そして、これからもこの関係を維持していこうと思った。
たとえ側から見れば歪な関係性だとしても、当人の俺たちが満足しているならそれで良いと。
それは俺自身が選択したことで、彩華が受け入れたことでもある。
だが今、俺は彩華が住む家に居る。
これまでに無かった、初めてのことだ。
もしかしたら──と、今まで考え及ばなかったことが頭の中に浮かび上がった。
口に出すには恥ずかしく、そして恐しくもあることだ。
──彩華はこの関係を変えようとしているのかもしれない。
温泉旅館で放った「どちらに転んでも良かった」という言葉も、本音だったのかもしれない。
……だとしたら。
この居心地の良い空間を永久に保つことなんて、夢物語なのとは分かっている。
社会人になれば時間も取りづらく、会う頻度も極端に減り、精神的なゆとりだって無くなっていくに違いない。
だからこそ、俺は今この瞬間にある空間を大事にしたい。
──友達という垣根を越えた先の景色を見てみたい。
高校生の時の俺から見れば、今がまさにその景色なのだろう。
だから大学生になった俺は、自問自答する。
お前は、美濃彩華と親友になった。
その
お前はそれを見てみたいか──と。
◇◆
「美味すぎる」
一口食べた瞬間、思わず感嘆の声が漏れた。
もう一口食べると、喉の奥から幸福感が湧き上がってくる。
彩華が作ってくれた料理はグラタンだった。
手作りグラタンなんていつ以来食べたのか、本当に記憶がない。
小さい頃から弁当にはグラタンが入っていたが、あれは勿論冷凍食品。冷凍グラタンも手間が掛かっていない割にとても美味かったが、彩華の作ったものとは流石に比べ物にならない。
唯一冷凍グラタンが勝っている部分は、食べ切った後に今日の運勢を確認できることだろう。
またグラタンを口に運ぶと、俺は口元の緩みを抑えきれず、一旦スプーンをお皿に置いた。
「いや、もう美味すぎる。語彙力がほしい」
「別に、あんたの食レポなんて期待してないっての」
そうは言いながらも、彩華の表情はご機嫌だ。
「どう? 見直した?」
「見直すって?」
俺がキョトンとすると、彩華はスプーンの先端を俺に向けて口を開く。
「あんた、私の手料理食べるのほんとに久しぶりでしょ」
先ほども思い返していたことだが、彩華の手料理を食べるのは実に高校生以来。
彩華の作った出来立ての料理を沢山して食べることなど初めてだ。
だが別に、
高校生の時に弁当から分けてくれたおかずも美味しかったし、家庭科で彩華が担当した肉じゃがは男子が取り合っていたくらいだ。
「最初からすげえ期待してたけど、そのハードル越えてくるくらい美味いぞ」
俺の返事を聞くと、彩華はジト目でこちらを見た。
「ぐうの音も出ないほど完璧な返しでムカつくんだけど」
「それは理不尽すぎない?」
彩華はスプーンの行き先に迷ったように俺の眼前でフラフラとさせてから、自分のグラタンを漸く
咀嚼しながら、彩華はコクコクと頷いた。
「うん、うん、まあ。美味しくできたかな」
「良い出来か?」
「ホワイトソースから作ったんだから、私好みの味ではあるわね。あんたの口に合って良かったわ」
彩華が料理をし始めた時、フライパンにバターを入れていたことを思い出す。
あれからまた何かを投入している様子だったが、ホワイトソースを作っていたのか。
俺の理解が及ばない分野のため、正直あの場では何をしているのかよく分かっていなかった。
「かなり凝ったんだな」
「当たり前よ。美味しいモノ食べてもらいたいもの」
彩華の言葉に、俺のスプーンが皿の上で止まる。
一旦口に運ぼうとしていたスプーンを戻して、彩華をまじまじと凝視する。
それに気付いた彩華は、自分の発言を思い返したのか数回瞬きをして、頬を僅かに染めた。
「別に他意はないからね」
「無いのか?」
「な、無いわよ」
「なーんだ。狙ったのかと思った」
「……念のために訊くけど、何を?」
彩華はなんとも言えない表情を浮かべて、質問してくる。
俺はグラタンに舌鼓を打ちながら答えた。
「美味しい
《、、》で、ダジャレかなって」
「……んなわけないでしょバカ!」
「俺のエビィ!」
彩華は俺の皿に残っていたエビを根こそぎ奪い、志乃原もびっくりのペースで食べ始めた。
何を勘違いしたのか知らないが、これ以上刺激しないようにと俺はゆっくり咀嚼する。
エビは無くなっても、グラタンは変わらず美味しい。
クリーミーな風味が口内に広がり、身体の芯から温まるようだ。
彩華が足りなくなったお茶を注ぎに行くため冷蔵庫に向かった時、俺は略奪されたエビをいくつか取り返し、早速胃の中に入れた。これで証拠は残らない。
「ねえ、お酒でも飲む?」
「あー飲む飲む」
彩華は俺の返答に頷くと、冷蔵庫から缶ビールを二本持ってきた。
プシュリと栓を開けて、コチンと缶を当てる。
「かんぱ……」
言いかけて、俺は口を噤んだ。
「どうしたの?」
「ダメじゃん。俺ら今日車で来たんだから」
彩華もすっかり失念していたようで、「あ、あぶなっ」と俺の手元にあった缶を下げる。
「ごめんごめん、いつもみたい話してたら完全に忘れてた」
「くっそー飲みたかったー」
彩華の用意した食事は手作りのグラタンだけでなく、サラダや市販の刺身を盛り付けた大皿もある。
これにお酒があるとどれだけ満喫できただろうかと、思わず嘆息する。
「また次の機会にね」
彩華はそう言って、冷蔵庫に缶ビールを片付けにいく。
栓を開けていたので、彩華はあれを一人で飲むことになるだろう。
「次の機会って、一体いつの話だよそりゃ」
長い付き合いで、彩華の家に入り食事をしたのは今日が初めてのことだ。
今日だって彩華の気まぐれのようなもの。
次にいつ来れるかなんて、彩華の気分次第。
そんな中でのお預けに、俺は「ちぇー」と声を漏らした。
「別に、事前に連絡さえくれたらあんたの好きな時で良いわよ」
予想に反して、彩華はそう告げる。
「え、いつでも?」
「事前に連絡くれたらね」
「……え、なんで? まじ?」
「なんでそんなに疑ってんのよ」
彩華は苦笑いして、再び腰を下ろした。
小皿に刺身やサラダを取り分けて、それぞれ渡してくれる。
俺は刺身に醤油をかけながら、問いに答えた。
「今まで全然お前の家に入ったことなかったのに、いきなりいつでも良いよなんて言われたらびっくりするだろ。別に疑ってはないけど」
「でも今、来てるじゃない。
「それは──」
またこの家に訪れたい。
こんなもてなしを甘受してそう思わない男はいないだろう。
俺を躊躇させたのは、家に上がることによって彩華との仲に何らかの変動が起こることへの恐れだ。
──たまにある葛藤だ。
今の関係に満足しているからこそ抱いてしまう。
この関係が変化することは、必ずしも俺たちにとって良い方向に働くとは限らない。
俺にとって彩華との関係は、どんな物でも天秤に掛けることができないからこそ、判断し難いのだ。
だからどうしても、現状維持という考えが頭から離れなかった。
だが改めて思案してみれば、それは些か堅い考えのような気がしてくる。
本当に俺が根本から、彩華との関係を毛ほども変えたくないのなら、温泉旅行に行くことを断っていたに違いないのだ。
あの誘いに乗ったことは、心の何処かでより良い変化を期待する気持ちがあったことへの何よりの証拠ではないだろうか。
お互いにとって良い関係というのが具体的に何を指すのかは分からない。
だが、確信できることが一つある。
これから俺が彩華の家へ訪れるという選択をしたとして、過ごす時間が増えることに対して悪い気分になるはずがない。
だとすれば、結論付けるのは簡単だ。
彩華の言う通り、大事なのは今の俺の気持ちなのだから。
「じゃ、たまにご飯食べに行くわ。よろしく」
美濃彩華と、もっと楽しい時間を過ごしたい。
社会人になるまで限られた、残り僅かな時間を好きなように過ごす。
それが今の俺の気持ちで、優先すべきことだ。
「正直に生きる方が、幸せだもんな。グラタンおかわり! そんで明日はコロッケが良い!」
「それはそれで甘えすぎよ!」
彩華がバシンと肩を叩く。
その行動とは裏腹に、表情はいつもより柔らかいように感じる。
目が合うと何だか無性に気恥ずかしくなり、俺は誤魔化すようにサラダをかき込んだ。
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