第93話 突然の誘い
礼奈と会った、次の日の朝。
目覚めると、何となく身体が気怠い。
天気のせいだろうかとおもむろにカーテンを開けると、案の定雨が窓を叩いている。
一瞥だけで確認できるようなどす黒い曇天が、轟々と音を鳴らして家を揺らした。
「……まだ台風の時期じゃないよな」
思わず呟いてしまうほど、外の世界はけたましい。
昨夜スマホのアプリで天気予報を確認したが、台風なんて予報はどこにもなかった。精々午前中いっぱい降水確率60%が続くだけで、午後からは晴れマークになっていたはずだ。
この空模様から数時間後に晴れるだなんて、とてもじゃないが信じられない。
講義に出席するためにはあと一時間後に家を出なければならないが、これでは億劫な気持ちになるのも仕方ないというものだ。
まだ大学のホームページに休講の連絡は流れていないが、それも時間の問題だろう。……そう信じよう。
社会人ならば関係なく会社へ駆り出されるのだろうが、大学生は警報などが出た場合休める場合が多い。
学生の中で最も年齢層の高い大学が休みを取りやすいのも変な話ではあるが、そこは学生一人一人に裁量権が委ねられているからだと納得しよう。
つまり、俺は今から二度寝する。これから休講になることを信じて。つくづく自分に甘言を言い聞かせるのは得意だな、と情けないことを思いながらベッドに潜り込んだ。
その瞬間、スマホが震えた。
布団越しに聞こえる、微かなバイブ音。一定の間隔で継続的な音が聞こえてくることから、メッセージではなく電話が掛かってきていることが分かる。
──誰だ。
俺は寝起きの鈍った脳内で、思考をゆっくりと巡らせる。
だが、結局出なければ面倒なことになるリスクもあると思い至り、渋々手を弄ってスマホに触れる。
『寝るな!』
……声の主は、彩華のようだ。
天気から俺の行動を察知したのだとしたら最早恐怖すら感じる事案だが、さすがにないと思いたい。
俺は返事をするかどうか迷った挙句、寝ているフリをすることに決めた。
『今日の講義全部休講らしいわよ』
「まじで⁉」
『嘘よ。起きてるじゃない』
跳ね起きた俺は一瞬ぽかんと口を開けて、スマホを睨みつけた。
「お、俺の純粋な心を弄びやがって……」
『純粋なら講義には喜んで来なさいよね』
「純粋だからこそ自分の欲求に素直なんだよ!」
『はいはい、偉い偉い』
「このやろー!」
そう言って、再び枕に顔を埋める。もはや希望を失った俺の睡眠を止める事ができる人間はいない。
だが俺の意に反して、腹の虫がぐるぐると鳴った。
『……ひとまず、朝ごはん食べたら?』
「……だな」
不満気に返事をして、のろのろと上体を起こす。
スマホを持ってベッドから降りると、素足に微かな冷気を感じた。今日はどうやら肌寒い温度らしい。
「今日寒くね?」
『寒いわね。暖房付けることも考えちゃうくらい』
「だよな。付けよっと」
部屋に季節外れの暖房を付けてから、冷蔵庫の扉を開く。
志乃原の来ない日数が五日を越えると、俺の冷蔵庫はいつもの不健康な中身へと様変わりする。
その度に「なんでこの数日で中身がエクレアばかりになってるんですか⁉」と怒られるので、今はコンビニで買ったおにぎりが八つほど転がっていた。
これなら文句は言われないだろう。
『ねえ、暴風警報出たから今日の講義はほんとに全部中止になったらしいわよ』
彩華の言葉を、俺は軽くあしらった。
「うっせ。俺は今からチョコチップメロンパンを食べるんだい」
そう言って、キッチンの棚からチョコチップメロンパンを引っ張り出す。
おにぎりは夜ご飯に取っておくことにした。
『それは美味しそうだけど。いいの、二度寝できるチャンスなのに』
立て続けに同じことを言われたら、さすがの俺も見破れる。
彩華の冗談に、咀嚼音で応える。
仄かに甘い匂いが口内に広がり、一日の始まりという気分になった。
惣菜パンの種類は数あれど、チョコチップメロンパンは週に二、三回は食べるほど気に入っている。
「ここにカフェオレあれば完璧だな〜」
『近くのコンビニで買えばいいじゃない。徒歩二分くらいの場所にあったでしょ』
「あるけど、一旦外出ちゃったら目覚めちゃって二度寝できないだろ」
『もっともらしく言わないでよ。で、今日どうすんの」
「どうとは?」
『休講になって、今日一日暇になったでしょ。家で何かするの?』
俺は暫く思案した後、漸く思い至った。
「……休講ってまじだったの?」
『さっきから言ってるじゃないの』
その言葉に、俺は急いでスマホで大学のホームページを確認する。すると、本当に休講の連絡が提示版を賑わせていた。
「オオカミ少年だ……」
思わず声を漏らすと、「私は女よ!」とツッコミが入った。
そういう意味で言ったんじゃないが、そう思わせておいても支障はない。
「なんか、今日が休日だと思ったらこのまま寝るのなんか勿体ないな。ゲームでもすっかな」
彩華との電話中に朝ごはんを食べたお陰で、既に俺の中の一日は始まっていた。今日はバイトも入っていないのて、一人時間を満喫するチャンスだ。
テレビに繋いでいるゲーム機の電源を付ける。購入してから時間が経っても、この起動音は俺の気分を高揚させてくれる。
『天邪鬼ねーほんと』
呆れたような彩華の声に、俺は口角を上げた。
「褒めても何も出ないぞ」
『いや全然褒めてないわよ』
彩華の即答に声を出して笑う。
人間、笑うとストレス軽減や健康促進に繋がったりと良いこと尽くしらしいが、俺にとって彩華はそういう存在なのかもしれない。
何も気負わず、ただ話すだけで心が安らぐ。
こんなことは小っ恥ずかしいので本人に言うことはできないが、きっと彩華もそう感じてくれていると思う。
たとえそれが、側からみて歪な関係であってもだ。
だが今までの俺たちは、唯一無二の関係性だとは思っていても、それを歪だとは思っていなかった。そして、この関係が誰かを苦しめていたということも。
──自分で見たもの、感じたものが全て。
俺が彩華と仲良くなれたのは、出会った当初にその考えで、世間体を気にせず関係を築いていったからだ。
もちろん大学へ入学してからも、二人で遊んだことをSNSへ投稿するのは控えていたし、自分の中で最低限の一線は守ってきたつもりだ。
だが、きっとこの関係は誰に言っても理解を得ることはできないのだろう。
あの青い春を追体験するようなことができない限りは、決して。
だとすれば、この関係を──
『ねえ』
「ん?」
彩華の呼び掛けに思考を中断させる。
『晴れてきた』
「嘘だろ」
視線をゲーム機から窓へ移すと、陽光が差し込んでいる。
だが、雨はまだ降っていた。
「小雨は降ってるな。風はなさそうだけど」
『狐の嫁入りじゃん』
「おお。今日もまた誰かが結婚したって訳か」
『適当に返事しすぎよ』
そうは言いながらも、彩華の声色は柔らかい。
日常的に電話をするということは、こうした気の抜いた返事も許容してくれるということ。逆の立場になってもそうする訳で、だからこそ続いている。
『ねえ。今日会わない?』
「え」
俺はゲームコントローラーを動かそうとした手を止めた。
その反応に今度はしっかり不満を抱いたのか、彩華は『なに』と言った。
『まあ、やっぱり今日はいいわ。あんたもゲームしたいんだろうし』
誘いを簡単に覆した彩華に、俺はまったをかけた。
「いや、行く。今のは、ちょっとびっくりしただけだ」
『え? 何によ』
「だって、会いたいなんて言ってくるの初めてだろ。いつも何かしら予定があるからついて来いって感じなのに」
合コンがあるから。新しくオープンしたカフェでランチを食べたいから。ホテルにあるバイキングに参加したいから、旅行に行きたいから──他には、講義終わりに合流するなど。
休日に理由もなく誘われたのは、珍しいことだ。
彩華は俺の言葉で自覚したのか、少し平静さを失ったような返事をした。
『ち、ちが──うん。確かに珍しい……わね』
「今ちょっと慌てただろ」
『違う。理由なら普通にあるわよ」
「またまたー」
『切るわね、さよなら』
「え⁉ ちょっと待てごめんなさい!」
俺は仰天してストップする。
別に四六時中電話をしたい訳ではないのだが、こうも唐突に部屋に静寂が戻ると思うと、それはそれで寂しい。
勝手に暫く電話を繋いでおきながらRPGのレベル上げでもしようかと思っていたことも、寂しさに拍車をかけている。
「ドライブとかなら、考える」
『いいわね。じゃ、決まりでいい?』
「ちょっと待て」
『何よ』
提案した手前だが、誘いを了承する前に懸念点がある。
「車ないけど。雨だけど」
『車は借りる。雨は止む』
「お前今語呂の良さで返事したよな。絶対そうだよな」
電話先から、彩華の笑い声が聞こえる。どうやら本当にそうらしい。
『止んだらで良いわ、ええ。でもせっかくだし、小雨でも行きたいわね。二人なら、レンタカーも割安だし』
「へえ、結構運転好きなんだな」
『そうね、好きかも。でも、一人でレンタカー借りるほどではないのよね。一人で払うには、ちょっと高いから』
「そうなんだよなー。あれ割と高いんだよな」
一日のみのレンタルでも、学生の財布にはしっかりダメージの入る額だ。一台あたりの値段なので、人が増えていくほどお得にはなるのだが。
団体での遊びや、旅行先などで借りるのが王道といえるだろう。
『それに、あんたと車乗ったこと無かったし』
「あー確かにな。俺も免許取ってからは親しか乗せたことないわ」
車は移動の小回りが効くというメリットがあるものの、遊びに行ってもお酒が飲めない、駐車場代がかかるといったようにデメリットもある。学生にとって電車の方が利便性が高いのだ。
だからこそ彩華と車に乗ったことがない訳で、確かにこういう機会でもなければドライブなんてしないだろう。
そう思案して、俺は了承することにした。
ただし条件付きで。
「おっけー、雨が止んだら集合しよう」
いくらドライブが魅力的とはいえ、俺にとってそれは晴天時の話だ。ウィンカーを動かしながらのドライブは、どうも気が進まない。
『窓開けてみなさい』
「え?」
『いいから』
言われるがまま、腰を上げて移動し、窓へ手を伸ばす。
開けると、雨はピタリと止んでいた。
「……魔法使った?」
『今から晴れるよ!』
「もう晴れてんだけど」
何処ぞの巫女のような台詞に、俺は苦笑いしながら返事をした。
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