第92話 償いと強さ

「美味しかった〜!」


 黄色い暖簾をくぐり抜けて外へ出ると、礼奈が身体をググッと伸ばした。

 晴天から降り注ぐ陽光が、礼奈の髪を明るく照らす。


「悠太くん、今日はこの後予定あるの?」

「今日はこの後フルで講義だな」

「そっか、じゃあ明後日は?」


 明後日の講義は二限目まで。彩華ほどではないが、平均程度に単位を取得しているため、三年生になれば一日フルで講義へ出席しなければならない曜日はない。

 明後日は昼休みから家に帰ることのできる、怠惰な学生にとっては嬉しい曜日なのだが、今週はサークルの活動日とも被っていた。


「明後日は昼からサークルに行こうかなって思ってる。バスケサークル」

「バスケかぁ。そういえば、悠太くんがバスケやってる姿、私見たことなかったね」


 礼奈は少し思い返したかのような仕草を見せた後、こくりと頷いた。


「ねえ、覗いてみてもいい?」

「へ?」


 てっきり興味本位で訊かれただけだと思っていた俺は、間の抜けた返事をしてしまう。

 それをどう受け取ったのか、礼奈は慌てたようにかぶりを振った。


「ううん、冗談だよ。私のこと……知ってる人も混ざってるだろうし」


 浮気のことを言っているのだろう。

 顔を出せば、俺の世間体をマイナスにしてしまうかもしれないと懸念しているのかもしれない。


「それ、俺のためか?」


 念のために訊くと、礼奈は目を瞬かせた後否定した。


「違うよ」

「そうか」


 今の答えは嘘だな、と確信した。

 礼奈が俺の言いたいことを察することができたように、俺も礼奈の嘘を見抜くことができる。

 要因は付き合いの長さじゃない。あの一年間、俺と最も多くの時間を過ごしたのは礼奈なのだ。

 それほどの密度を、俺たちは過ごしてきた。

 だからこそ浮気をされたと思った時は沈んだ。だがそれは、理由は異なっても礼奈も同じように消沈したはずだ。

 ならば礼奈との関係を正しく認識してもらうのは、最低限のケジメだと思った。


「行くか」

「え?」

「礼奈との一件は俺が責任もって正しく伝える。それが償いになるとは思わないけど、それくらいはしたい」


 俺が言うと、礼奈は少し俯いた。

 何か思うところがあるのか、暫く無言のまま時間が流れる。

 やがて言葉を紡ぎ出した礼奈の声色は、柔らかいものだった。


「気持ちは嬉しい。でも、償いとかならやめてほしい」


 静かな言葉に返事をしようとすると、先に礼奈が続けた。


「そもそも、誤解じゃないから。私も確かに浮気してたって、言ったはずだよね。それで悠太くんだけ償いとか、おかしいじゃん」

「原因を作ったのは──」

「原因の所在なんて関係ない。それに、駄目なの。私自身がもう、あれは浮気って納得しちゃったんだから」

「だとしても、一日だけ手繋いだのと……繰り返し何回も最後までいったってのじゃ、印象がまるで違うのは事実だろ。それに、礼奈こそ誤解してるぞ」

「え?」

「俺は、浮気の話はあのサークルの中じゃ一人にしかしてない」


 礼奈の顔を知っている人は、あの中には藤堂くらいだ。

 女子大の学祭で礼奈と顔を合わせた先輩たちは、一人残らずサークルを辞めている。

 浮気の話も、俺は藤堂以外に話していない。


「礼奈の存在だって、一人しか知らない。だから礼奈が考えてるほど、難しい話じゃないんだよ。すぐに終わる」

「もしかして、たまに話に出てきた藤堂くん?」

「そうだ」


 付き合っていた当時、俺はその日起こった出来事は大抵話していたので、礼奈は俺の人付き合いの多くを知っている。

 礼奈と藤堂が顔を合わせたのは数回だが、印象に残っていたらしい。


「その人だけなら、誰かに言いふらすとかもなさそうだよね」

「ないな。あいつはそんな事しない」


 藤堂は、俺と仲良くしている中でもトップクラスに交友関係の広い男だ。

 容姿と相まって一見チャラそうな男だと誤解されることもあるが、そこも良いギャップとなっている。手放しに信用できる、数少ない友達だ。


「……じゃあ、甘えていいかな。私、いつも話に出てきてたサークル、行ってみたかったの」

「そんなこと、一度も言わなかったな」

「思ってただけで、言わなかったの。悠太くんの居場所には、あんまり踏み込まない方がいいかなって」


 礼奈は微笑してから、続けた。


「友達って、友達にしかない良さが沢山あるもん。それがわかってるからこそ、私はそこにいちゃいけないって思ってた」


 ……別れてしまった後でも、その気遣いには感謝するべきだろう。

 恋人を作った途端に、友達付き合いが悪くなる人はたまに見かける。本人の意思でそうなっているのならば何の問題もないことだが、中には恋人に気遣った結果そうなったという事もある。

 俺はその事を理解できなかったが、何のことはない。

 俺がそうならなかったのは、他でもない礼奈が気を遣ってくれていたからなのだ。


「なんで今言ってくれたんだ?」

「思ってたこと、言葉にしたくて。さっき悠太くんは、別れる原因は自分が作ったって言ってたけどさ」


 礼奈は一息ついて、再度口を開く。


「私も、そうだよ。私たち、言葉にしないことが多すぎた。だからこれからは、言いたいことはちゃんと言うね」

「──強いな、礼奈は」


 俺が言うと、礼奈は口元を緩めた。


「私、決めたの。別れた日……あの日をいつか、あれがあって良かったって心から思えるようになりたいって。どんな形でも」


 そう答えてから、礼奈は空を見上げる。

 俺が礼奈に倣って顔を上げた瞬間、陽光が陰りを落とす。


「悠太くんはどう思う?」


 ちらりと横に視線を送ると、端正な横顔から表情は分からなかった。


「……見習いたいと思ったよ」


 短く答えてから、俺は大学へ戻るために背を向ける。

 我ながら、要領を得ない返答。


 だが、それは本当に思っていることだった。

 俺も礼奈のように、過去をより良い未来に繋がるために行動しなければならない。

 後ろから礼奈の「またラインするね」という声が掛かり、俺は思考を誤魔化すように、手を挙げて応える。

 俺は明後日に想いを馳せながら、歩みを進めた。 

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