第91話 二人の時間

「……礼奈、合わせてないか?」


 先ほど掛けられた礼奈からの言葉を、そのまま返す。

 恋人関係だった当時、確かに礼奈はラーメンによく付いてきてくれていたが、本当はSNS映えするようなお洒落なお店が好きなことは知っている。

 先ほど「オシャレな──」漏れ出ていた言葉も相まって、ラーメンに乗り気な姿は些か不自然に映った。

 だが俺の思考に反して、礼奈の足は学内の最寄りにあるラーメン屋への向かっている。


「悠太くんは、相変わらず醤油ラーメン好きなの?」

「まあ、そうだな。同じ味ばっかり食べてるよ」

「ふふ。私も最近、醤油ラーメンばっかり」

「まじで? 礼奈いつも味噌ラーメンのイメージだった。ていうか、ラーメン屋自体──」


 ──俺と以外行かないイメージだった。


 そんな言葉が口をついて出そうになり、慌てて飲み込む。

 別れてから半年経ったのだ。趣味趣向が変わっていてもおかしくない期間だし、何より俺から交際していた時のことを話すのはタブーだろう。

 かといってここで口を噤むのは不自然なので、場を取り繕うような言葉を模索する。

 だが、先に口を開いたのは礼奈だった。


「そうだったけど、沢山連れて行ってくれたのは悠太くんじゃん。そのせいで体重計に乗るのが怖いんだからね」


 思わず礼奈を二度見しそうになった。

 礼奈は俺が言わんとしていたことを察していたようで、当たり前のように返事をしたのだ。彼女自身はそこに違和感を抱いていないようで、俺の返事をキョトンとした表情で待っている。


「……俺あんまり太らないから、その気持ちはよく分かんないや」


 俺の言葉に、礼奈はクスリと笑った。


「あー全女子を敵に回した。知らないからね、那月に言いつけちゃお」

「おいやめろ怖いんだからなあいつ!」

「女子だって我慢してるだけで、ラーメン食べたいんだからね。だから中々一人では行きにくいんだけど、男子となら自分に言い訳できるもん」


 いつの日か、同じようなことを言っていた。

 確かに、ラーメン屋で単独の女性客を見る頻度は少ない気がする。


「一人でラーメンを食べる女子見ても、俺は何も感じないけどな」

「そういう人が多数派でも、その中に一人でも変な目で見てくる人が混じってるかもしれないと思っちゃったら足がすくむものなの。私も、もう気にしないんだけどね」

「へえ、慣れたのか」

「うん、慣れたの」


 礼奈はコクリと小さく頷く。

 そういえば俺も、一人でラーメン屋にいけるようになったのは大学生になってからだ。人の目を気にしなくなるまでは少し時間を要した記憶がある。

 礼奈も同じように、時間をかけて慣れていったのだろう。

 そんなことを考えているうちに、最寄りのラーメン屋へ辿り着く。

 黄色い暖簾がはためいており、入口の傍らにある立て看板には『学生クーポンで二割引』と記載されている。

 その為昼時はいつも満席なり列に並ばなければいけないのだが、今日はたまたまカウンター席が空いているようだ。


「珍しいね、すぐに入れるなんて」

「だな。俺初めてかも」


 丸椅子に腰を下ろし、荷物入れボックスに鞄を押し込む。

 このラーメン屋に来るのは、二年生以来の冬以来のことだ。いつもと変わらないメニュー表に安堵感を覚えながら、醤油ラーメン一つ、と店員に伝える。


「私も、醤油で」


 礼奈は店員に微笑みながらそう言った。学生にも思える若い店員は、一瞬礼奈を惚けたように見て、ハッとしたように踵を返して厨房へ戻る。


「珍しかったんだろうな」


 くつくつと笑うと、礼奈が頬を膨らました。


「このお店女子もいるじゃん。珍しくないよ」

「や、まあな。珍しく、ないかもな」

「なんで笑うのー」


 恐らくあの店員は、女子だからという理由で惚けた訳ではなく、礼奈の纏う雰囲気に驚いたのだろう。

 周りを見渡すと確かに女子は数人見受けられるが、女子大生特有の雰囲気はない。

 知り合った当時よりも、今の方が煌びやかな雰囲気は増している。淡いブルーのレースとピンクゴールドのアクセサリーが、その雰囲気を増しているように思えた。


 ……淡いブルーのレース?


「すみません、店員さん」


 俺はあることに気付いて、別の店員に声を掛けた。

「ペーパーナプキン一ついただけますか?」


 俺の注文に、店員は察したように「少々お待ちを!」と言って厨房の裏口へと戻る。

 数秒後戻ってきて、俺に手渡ししてくれる。


「ありがとうございます」


 お礼を言ってから、四つ折りになったペーパーナプキンを二つに拡げて礼奈へ渡す。

 礼奈は驚いたように「私?」と言った。


「スープで汚れるだろ。せっかく上品なやつなんだから」


 そこでやっとその可能性に気付いたらしい。

 礼奈は目を瞬かせてから、口を開いた。


「ゆ、悠太くんが大人になってる……」

「俺はいつも大人だっつーの」


 よく言うよ、という那月の声が脳裏に降ってきたが、聞こえなかったことにしよう。今から大人になるんだよ。


「ありがとう、ちょっと感動しちゃった」


 礼奈はスルスルとナプキンを首に掛けて、一息ついた。


「なんか礼奈がナプキンすると、ここがフレンチレストランみたいだな」

「ふふ、それ褒めてる?」

「まあ、そうだな。褒めてる」

「もう、なんでそこ歯切れ悪いの」


 素直な感想が漏れただけだから、と言おうとして口を噤む。

 恋人としてやり直すことはできないと言ったのに、良い言葉を伝えすぎるのは変な話かもしれない。

 俺の中では、褒めることと恋人としてやり直さないことの二つは隔てられており、両立させても矛盾しない。

 だがそれはあくまで俺の感性から導き出された結論に過ぎない。

 相手である礼奈がどう思うか、それが重要なのだ。


「悠太くん?」


 礼奈の問い掛けに、かぶりを振る。


「いや、やっぱ何にもない」

「そ、そっか」


 礼奈は少し戸惑った様子を見せたが、その瞬間ラーメンが届いた。

 気まずい雰囲気が流れなかったことに内心ホッとしつつ、手を合わせる。


 ──人を喜ばせることに、憂いを抱くのは本当に正しいことなのだろうか。


 不意にそんな思考が過って、俺は箸を取ろうと伸ばした腕を止める。

 確かに礼奈との間には色んなことがあった。

 普通の人よりも気遣うことは当たり前のことだ。

 それでも、喜ぶと分かっていることからあえて遠ざかるのは──礼奈に寂しそうな表情を浮かべせるのは、本当に正しいことなのか。


「褒めてるっていうか、素直な感想だよ」

「え?」

「上品な格好がよく似合ってるって言いたかっただけ」


 学生で賑う店内で、俺たち二人の間にだけ沈黙が降りる。

 ラーメンの湯気が視界の端で揺れ踊っている。


「……もっと好きになるけど、いいの?」


 礼奈はそう言った後、慌てたように首を振った。


「ううん、やっぱり何も言わないで」

「そ、そうか」

「うん。私、悠太くんにそういうとこで気遣ってほしくない。当人の私が言うから、いいの」


 礼奈は忙しなくお箸を取り出した後、俺に倣って手を合わせた。


「いただきます」


 久しぶりのラーメン。久しぶりの、礼奈との食事。

 いつもと変わらないはずの醤油ラーメンの味は、なんだか今日は色濃く感じる。


「身体に良くないのは分かってるんだけどなあ」


 隣に礼奈がいる。

 関係性は今までと異なったもの。だがこの、食事をするひと時だけは、かつてと同じ。


「それだけ美味しいんだもん」


 点が線となり、俺の記憶を刺激する。

 目の前の微笑みは、かつてと変わらない。

 俺が幸せだと、今が一番幸せだと確信していた、あの時間。

 少しだけその気持ちに浸りながら、漸くラーメンを啜る。

 やっぱり今日は、味が濃い。

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