第89話 那月との絆

 一限目開始から三十分前の講義室は、まだ閑散としていた。

 だというのに物寂しさを感じさせないのは、今から十五分ほど経つと波のように学生が押し寄せてくると分かっているからだ。

 俺はどこを見渡しても空席があることに感動を覚えながら、講義室のど真ん中にある席へ着く。

 サボりにくい席ではあるが、普段の俺なら座ることのできない場所だ。珍しく早起きしたのだから、たまにはいいだろう。

 上機嫌に鞄を置いていると、横から声を掛けられた。


「悠太がこんな時間にいるの初めて見た」

「ん……うおっ」


 声に反応して横を見ると、俺は思わず身体をのけぞらせた。

 パーカーにブルゾンを重ねた個性的なコーデをしているのは、那月だ。


 那月は俺のそんな反応に、「ちょっと、傷付くじゃん」と苦笑いした。


「いや、まあ、あの」


 彼女が礼奈と高校から仲良くしていたと知ってしまったからか、どうしても萎縮してしまう。

 礼奈との件は、志乃原の前で納得したように見せていても、やはりそう簡単に罪悪感が消える訳ではない。

 礼奈を苦しめる要因となった俺の欠点を、自覚する前から的確に指摘し続けていた彼女を前に一体何を話せばいいのだろう。


 ──高校二年生の時。


 俺にとって、彩華を苦しめた当時の榊下は憎むべき対象になった。

 那月にとっての俺は、まさにその立ち位置だ。

 それを自覚しているからこそ、上手く喋る自信がない。


「隣、いい?」

「俺の隣か?」

「他に誰がいるの」


 そう言って那月は、俺の答えを聞く前に隣の席へ座った。

 大きめの三日月型のイヤリングが、視界の隅でキラリと光る。


「私ね、悠太に言いたいことがあるの」


 那月はトートバッグから大学ノートや筆記用具を取り出しながら、静かに呟いた。

 言いたいこと。

 それなら、俺にだってある。


「──ごめん。俺が礼奈を苦しめた」

「え?」


 那月は少し驚いたように俺を見つめた。


「俺の配慮が足りなかった。俺の器が狭くて、礼奈の弁明を蔑ろにした。礼奈には勿論……那月にも、悪かったと思ってる」

「やめてよ」


 那月がピシャリと言った。


「もう礼奈とは話ついたんでしょ。それなら、私はもういいの」


 そして軽く息を吐いて、かぶりを振った。


「今のは別に、不快になったとかじゃないから」

「……そ、そうか」


 それ以外に謝罪を遮る動機が見当たらない。

 だが本人がそう言うのなら、俺も押し黙るしかない。


「今日謝るのは、私の方」

「那月が?」


 意外な言葉に思わず訊き返すと、那月はゆっくりと頷いた。


「……悠太に偉そうなこと言っちゃったし。ごめんね、色々と」


 礼奈と公園に行く前に、何度か那月から苦言を呈された覚えがある。その時の事を言っているのだろう。

 だが内容は理不尽なものでもなく、真っ当な意見だったと記憶している。

 そこに感謝こそすれ、嫌悪感はない。


「那月の言っていた通り、俺は周りに恵まれてるよ。だからこそ駄目な一面も出てきてたのも、自覚してる。那月はその事について指摘してくれただけだろ」


 俺はそう言った後、続けた。


「那月みたい人がいると、俺も色々気付かされて助かるんだ。だからこれからも、よろしくしてくれたら嬉しい」


 周りにも、俺に厳しくしてくれる人はいる。

 それは俺のために言ってくれているのが伝わってくる。

 だが那月が俺の在り方に苦言を呈したのは、礼奈を思ってのこと。

 他人の為に叱責されるからこそ、気付けることもあるのだ。

 那月は暫く無言で俺を見つめていたが、やがて黒板の方へ視線を移した。


「……物好きな人」

「そうか?」

「そうだよ。自分にとって不都合な人は、普通いない方がいい。私なら、そう思っちゃうもん。大学って、人間関係を取捨選択ができる場所でもあるし」

「……まあ、しようと思えばできるよな。サークルもそんな感じだし」


 那月の言った通り、大学は仲良くなる人を取捨選択しやすい環境だ。

 クラス、教室という概念が薄いので、自分から行動して人間関係を構築していかなければ孤立することもある。

 高校生の時までは、一年もの期間、同い年が同じ場所にいた。必然的に様々なタイプの人間と距離は近くなり、その分他人への適応力は向上していたと思う。

 それが学校で付随的に学ぶことのできるもので、社会に出る上で必要な能力だということは、かつての俺も分かっていた。


 だが最近の俺はどうだ。

 特にこの一年間は、気の合う人としか一緒の時間を過ごさない。楽な方、落ち着ける場所だけを求めすぎた。

 だからこそ、相手を慮るという当たり前に構築してあるべき思考回路が鈍っていたのだ。

 那月の言う通り、俺は麻痺していた。

 勿論これが言い訳になるなんて思っていない。

 俺と同じ環境になったって、その心持ちを失わずに人と接することのできる人だって大勢いるはずだから。

 それでも、礼奈の間に起こった出来事はその環境が遠因となっていることは認めなければならない。


「たまに違う環境に身を投じるのも、必要なことなのかもしれないけど。今の環境に満足しつつ、それができる人って凄いと思う。私は無理」

「そうなのか?」


 那月の性格を全て把握している訳ではないが、彩華の主催する合コンに来ていたくらいだ。

 あのアウトドアサークルに在籍しているくらいだから、てっきり社交的なものだとばかり思っていたが。


「うん。私も、色んなことから逃げてきたから。この性根も、いつか変えたいと思いながらここまで来ちゃった」

「そうか」


 俺は一言だけ呟いて、口を閉じる。

 別に、今の環境から抜け出そうとしている訳ではない。

 自己成長の為に環境を変える事も時には必要かもしれないが、俺は今を気に入っている。

 今の環境を守る為になら、行動したいとは思う。

 ただ、今を当たり前だと認識してはならない。

 それくらいの意識は持っておかないと、俺は今後苦労する事になる。就職すれば、自ら嫌な人間にも笑顔で接しなければならない機会も出てくるはずだ。

 この環境は、永遠には続かない。

 俺がこの大学を卒業するまで──いや、もしかすると終わりはもっと早いかもしれない。

 そんな中で厳しい言葉を投げかける那月と話す機会があるのは、俺にとって嬉しいものなのだ。

 その事を伝えると、那月は口角を上げた。


「じゃあもう一つだけ、言いたいことあるんだけどいいかな」

「何だ」

「彩ちゃんに甘えてると、また同じ失敗繰り返すよ。二人の関係って、彩ちゃんの圧倒的なスペックで保たれてるものだと思うし」

「……助言ありがとう」


 彩華との関係性に、他人からの理解を求めるのは難しい。それでも、自立しろという提言は尤もだと感じる。

 那月は俺の返答に対し、「そこでお礼が出てくるんだ」と可笑しそうに笑った。


「今の、普通ならムカつくって。礼奈も、悠太のそういう変なところが刺さったのかもね」

「変とはなんだ」

「言葉の通り、ちょっぴり変ということです」

「ほんとに言葉通りかよ……」


 感情の起伏は、アウトドアサークルなどに所属する人たちより少ない自覚はある。

 だが変わっていると言われると何となく頷きたくない。

 あいにく俺は個性派と言われて喜ぶ感性を持ち合わせていないのだ。


「変だけど、悪人じゃないよ。これで悠太が悪人だったら礼奈にも、もうあの人はやめときなさいって言うんだけど」


 その口振りから、一週間前の出来事は礼奈の口から伝わっていることが分かる。

 あの事を伝えるとなると、本当に仲が良い。礼奈にとっての那月と、俺にとっての彩華という関係性が似ているという認識は間違っていなかったようだ。

 辺りのざわめきで、俺は那月から視線を外す。

 いつの間にか講義室は先程より席が埋まっており、教授もノロノロと教壇で準備を始めていた。


「気付かなかったな、緊張してて」

「え、緊張?」


 那月が意外そうな声を出す。


「緊張だよ。誰だって、自分ことを好いてない人と話す時は緊張するだろ」

「……別に、嫌いじゃないけど。漫画の話とかできる人、貴重だし」

「そうなのか」


 今度は俺が意外そうな声を出す番だった。


「沢山いるのかと思ってた」


 そう返事をすると、那月は小さく息を吐いた。


「話したいなって思う人がいないの。なんだかね、他の人に話が伝わりそうって思ったら話したくなくなるんだ。私、オタクって呼ばれる事にはちょっとだけ抵抗あって」


 那月はそう言うと、親指と人差し指の間を数ミリ空けるジェスチャーをして見せた。

 漫画を読んだりアニメを見るのは最早俺たち学生には大々的に認知されている事柄だが、それも属するコミュニティによっては全く違うものになるだろう。

 例えば那月や彩華の所属する『Green』では殆どいないに違いない。

 俺は漫画好きなことは隠そうと思ったことはないが、那月の気持ちも理解できた。


「……結局、私はそういう世間体とか気にしちゃう人だから。悠太も変わろうとしてるのなら、私も変わらないとね」

「そうか。じゃ、お互い頑張ろうぜ」


 俺が掌を差し出す。

 那月はほんの少し戸惑った様子を見せたが、やがて察したように笑った。


「うん、頑張ろ」


 那月の掌が、パチンと重なる。

 そのハイタッチで、最近俺たちに流れていた微妙な雰囲気も手打ちになったような気がした。

 講義室一体に鐘が鳴り響いた。

 図ったようなタイミングに、那月と顔を合わせて、思わず吹き出す。


 ──いずれ、那月とも本当の意味で仲良くなれる日も来るのかもしれない。


 那月はあくまで、礼奈の友達。

 だがそれが、俺たち二人が話さない理由にはなり得ない。

 皆んなが誰かの友達で、大切な存在。

 その事さえ忘れなければ、それでいいのだ。


「そういえばあの子、今日うちに来るって」


 動きが止まる。

 あの子が誰を指すのか、すぐに分かった。



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