第88話 サンタの一言
早めに大学へ到着したお陰か、まだ学生の姿は疎らだ。
一限目の三十分前にでもなると、学内の敷地はいつも通り学生で溢れ返ることだろう。
「先輩、元気なくないです? 一週間振りの私なんですけどー」
「普通だよ。朝はいつもこんなもんだ」
俺は平たい声で答えた後、朝ご飯代わりのカフェオレを飲む。
六号棟の二階にあるベンチに並んで座っているのは、志乃原だ。この大学で俺を先輩と呼んでくるのは、この後輩しかいない。
ベージュのカットソーに、華やかな赤色のスカート。
志乃原らしいコーデは、もう少し時間が経てば視線を沢山集めることになる。それまでには講義室に入りたいところだ。
「先輩が朝弱いのは知ってますけど。さっきから全然こちらを見てくれないのは、どういう訳ですか?」
何と答えようか思案していると、志乃原が良いことを思い付いたと言わんばかりの声色で言った。
「心にもないことでいいですよ」
「朝から可愛いもの見すぎると、その後の時間がしんどい」
「あはは、じゃあずっと一緒にいればいいじゃないですか……それが心にもないことなんですか⁉︎」
視界の隅で、志乃原がのけぞるのが見える。
後輩のノリツッコみに俺は小さく息を吐いた。
「もう、朝から溜息はエヌジーですよ。一週間ぶりの私だっていうのに、なんて贅沢な」
「……あー。もう一週間か」
俺は天井を仰ぐように見上げて、背もたれに思い切り身体を預けた。
だが硬めのベンチは、俺が脱力することが気に食わないようで痛みを返してくる。
「先輩が、元カノさんと会ってから一週間です。あの日から私もたまたま忙しくなって先輩の家に行けなかったですけど、まさかその間連絡の一本もないなんて思いませんでした!」
「お前も別に連絡してこなかったろうが。ラインしてくりゃ返信くらいしてたわ」
気の抜けたような声で言葉を返すと、志乃原が俺の肩を掴んでガクガクと揺らした。
「私は! 先輩からの! 能動的な連絡が欲しいんです!」
「あうあうあう」
揺らされるがまま声を漏らしていると、不意に手を離されてベンチから転がり落ちそうになる。
信頼して身体を預けていたのに何てことするんだ、なんて文句を一つ言ってやろうかと顔を上げる。
だが、志乃原の表情を見て思い留まった。
その瞳には、俺を茶化すような色は宿っていない、
茶化していないのに転がせようとする事の方が恐怖を感じるが、今はその気持ちも他所へ置いておく必要がありそうだ。
「で、先輩。どうでした?」
「……ここでそれ話すのか?」
志乃原が何を訊いているのか察した俺は、視線を辺りに巡らせる。ところが、人っ子ひとり見当たらない。
このフロアで予定されている講義がないことも要因かもしれないが、それにしても誰もいないのは珍しい。
「ここで話していいですね」
「……了解」
志乃原の確認に、渋々頷く。
とはいえ、いずれ志乃原が家に来た時にでも話すつもりだった。あの日、年下だというのに、志乃原には背中を押された。
志乃原にその認識があったかどうかは正直分からないけれど、俺が礼奈と再スタートできたのはこの後輩のおかげだ。
だとすれば、その志乃原へ事の顛末を話すことに憂いがあるはずもない。
俺は言葉に出そうとして、思わず顔を顰める。
そしてもう一度口を開いた。
「全部、俺が原因だった」
「え?」
志乃原は目を瞬かせた。
思わず俯いて、後輩から目を逸らす。
しかし視線の先にある床は無機質で、この一週間繰り返していた思考を再び蘇らせてくる。
……俺が、礼奈の気持ちを少しでも慮っていれば。
恐らく、あんな事にはならずに済んだ。
俺の不甲斐ない脳みそに、相手の立場になる為の皺がほんの僅かでも刻まれていれば、あんなすれ違いは起こらずに済んだ。
唇をギュッと噛み締める。
……本当に嫌になる。高校時代にいた榊下のように、故意に人を傷付けるようなことはしていない。
そういった非道徳的な考えを持ち合わせていない自負はある。
だが、結果的に礼奈を傷付けたのであれば、俺も同じ穴のムジナなのではないか。そんな考えが俺の頭にこびり付いて離れないのだ。
「……先輩?」
「……話す」
甘えた心に鞭を打ち、志乃原に向けて言葉を放つ。
一度言葉を紡ぎ始めると、志乃原は黙って耳を傾けてくれた。
……普通ならこんなこと、第三者に言うべきではない。
しかし以前から礼奈が浮気をしたと認識していた人にとっては、先週の出来事を話すのは誤解を解くために必要な過程だ。
礼奈が何と言おうが、悪いのは俺なのだから。
彩華に関することだけは伏せた。
あいつは悪くない。実際何度か、当時面識の無かった
全て軽く考えていた、俺のせいだ。
ひとしきり話し終えると、待っていたのは数秒間の沈黙。
しかしすぐに、鈴のような声が聞こえた。
「要は、言葉が足りなかったってことですね」
「……え?」
思わず俺が顔を上げてみると、志乃原は小首を傾げた。
「言葉が足りないと、すれ違って当然です。最後まで言葉にしなかったんだったら、最後まですれ違うのは当然じゃないですか」
俺は志乃原に返す言葉が見つからず、口を噤んだ。
……何も言わなくても、相手が察してくれる。
そういった関係は、ある意味恋仲には理想のことだといえる。だが所詮それは願望の域を出ないのかもしれない。片方が、或いは両方が何かしらを我慢する。
その我慢の回数を少なくさせる方法が、言葉で互いの認識を伝え合うということ。
そうした細かな関係の再構築を重ねていくにつれて漸く、時折り相手が察してくれるという関係になり得るのかもしれない。
俺と礼奈はどうだっただろう。
……考えるまでもない。
答えがこの現状という訳だ。
「先輩はこの一週間悶々と、それはもう悶々とご自分を責めたんでしょうね。顔に出てます」
志乃原はベンチから足を揺らしながら、言葉を続ける。
「でも先輩、言葉が足りなかったのは先輩だけじゃなくて、元カノさん──いえ、礼奈さんもです。礼奈さんもそれを自覚しているからこそ、先輩との関係を再スタートさせようとしたんじゃないんですか」
「それでも、別れるきっかけを作ったのは俺だ」
確かに志乃原の言う通り、礼奈が自分の想いを吐露していれば丸く収まったかもしれない。
しかしきっかけを作ったのは間違いなく俺で、自分の想いを言葉にすることをしなかった。
礼奈も悪かったなんて、口が裂けても言えることじゃない。
俺がきっかけを作らなければ、礼奈が思い悩むことなんて──
「そんなきっかけ、きっとどこにだって転がってますよ。今回はそれが先輩側に転がってきただけの話だと思いますけどね」
志乃原は腰を上げて、俺の眼前に移動する。
俺に背を向ける志乃原は、後ろで手を組み、指をいじる。
どうやら考えを纏めていたようで、やがて俺に向き直った。
「それをフォローし合って、関係がどんどん深くなっていって。家族みたいになって。それが恋人ってものじゃないんですか? まあ私は知りませんけど」
「……知らないのかよ」
迷った末に小さくツッコむと、志乃原がコクリと頷いた。
「知らないですよ、私そんなふかーい恋愛したことないんですもん。恋愛番組でまやかしの知識を付けた私から導き出される、ただの持論ですから」
「なるほど」
俺の家でもたまに恋愛番組を観ていた時があったが、真面目な特集も組んでいたらしい。
少し過激な街頭アンケートの特集が印象的な番組だったので、意外な気持ちになる。
「だから、第三者の立場からその話をお聞きした私にはお互い様っていうのが正直な感想です。でも先輩は先輩なので、きっと私の考えを理解しても納得はしてくれませんよね」
俺の胸中を察する言葉に、首を縦に振る。
志乃原の主張が世間一般的なものだとは思わないが、筋は通っているので聞き流せるものでもない。
どんな結論を出すにしても、考えが纏まってくれない。
「であれば、先輩と仲良くなって結構経ってきた私から一言、二言!」
志乃原は腰に手を当てて、胸を張った。
「今できる先輩の償いは、悶々とすることじゃありません。ただ、付き合う前の時のように話したい。今礼奈さんが望んでいるのは、きっと先輩と普通にお喋りすることだと思いますよ」
礼奈のことを解っているような口調。同じ女子として感じるものもあるのだろうか。
……強ち間違ってないんだろうな。
今の俺の頭に、反論が浮かんでこないのはそういう訳だ。
「まあぶっちゃけ私は、先輩に礼奈さんのことは気にしないでって言いたいんですけど、角が立ちそうですからね! そういう言葉は胸に秘めておくことにしたんです」
「今言ったけどな、全部言っちゃったけどな?」
なんで全部口に出すんだと、前にもツッコミを入れた気がする。
「あと私、先輩が何か言う前に先手うっときますね」
思い出したように人差し指をピンと伸ばした志乃原に、俺は訊く。
「何を」
「私、礼奈さんに気を遣わず先輩と一緒にいますから。拗れた関係かもしれませんが、私は特に関わりないですしね」
志乃原は迷うことなくそう言い切った。
目を瞬かせると、志乃原は無言で俺の反応を待つ。
「……それは」
何を言うのが正解か、俺は脳みそを回転させて思案する。
"一緒にいます"という文言には、お礼を言うのが無難だろうか。実際、最近はこの後輩に対して感謝の気持ちが強くなっている。
家に来ようとする志乃原を止めていたことへ、懐かしさすら覚える程に。
「……いつもありがとう」
「どういたしまして! でも先輩、ぶっぶーです」
口角を上げた志乃原は、口元に指を交差させる。
温泉旅行で遭遇した時と同じ仕草だ。
「何がだよ」
「私はですね、お礼の言葉より態度が欲しい人なんです」
「金はないぞ」
そう返すと、志乃原が顔を顰めた。
「私をなんだと思ってるんですか……ていうか先輩よりは遥かにあるんですけど」
「後半の報告悲しくなるからやめてくれよ、年上男子のプライドが傷つく」
学生の身であっても、年下の女子に全く敵わないのは不本意と言わざるを得ない。
だがサロンモデルの副収入もある志乃原に勝つのは、少なくとも俺が学生の内は無理だろう。
……こんな思考に逃げさせてくれるのは、志乃原の思惑なのだろうか。
あれほど陰鬱だった脳内が、少しずつクリアになっていく。
「そんなプライドがあるなら、たまには私にもご飯作ってくださいよ」
「分かった、みてろ唸らせてやるからな!」
ニヤニヤと俺をからかう笑みを見せる志乃原の売り言葉に、俺も買い言葉で返す。
すると志乃原は笑みを強張らせたあと、ブンブンと首を横に振った。
「わか……え⁉︎ う、冗談ですから、やめてください!」
「俺の作るもの毒かなにかだと思ってる? 確かにスーパーのお惣菜やコンビニ弁当で腹を満たす生活だけども」
「毒とは思ってませんが、美味しくないお料理でカロリーを摂取したくないです」
「リアルに傷付く回答やめてくれない⁉︎」
まだ毒だと言ってくれていた方が冗談で済ませられて良かった。
自宅で活力を消費したくないからといって家事をサボり続けた結果、後輩からの信用はすっかり地の底へ落ちているようだ。
俺が言葉を続けようとすると、ふと辺りが騒がしくなってきたことに気付く。
チラリと視線を泳がすと、数人の学生が講義室に入っていくところだった。
……そろそろ講義の時間だ。
「先輩」
「……ん」
「私、先輩が礼奈さんと別れてくれてよかったって思いますよ」
礼奈の話題は何となく流れたものかと思っていたので、俺は一瞬だけ口を噤む。
志乃原は大きな瞳をこちらに向けて、俺の反応を窺っているようだ。
「……その心は」
「あは、訊いちゃいます?」
少し照れたように、掌で口元を覆う。
「──先輩が独り身になった寂しさでトボトボ歩いてくれてたから、私たちは出会えたんですよ」
──あの日の情景が脳裏に過った。
クリスマスシーズンに、サンタの格好をした志乃原にぶつかった。
チラシをばら撒いて、お詫びにご飯へ連れて行った。
これまでの人生では、中学、高校と同じ環境に身を置いた人と知り合う事で関係を築いていくことが全てだった。
だが志乃原は違う。
あの日、あの場所で、あの心持ちで街を歩いていたからこそ、志乃原と仲良くなるきっかけが生まれたのだ。
「どんなに情けなくて、ダメダメな行動が生んだ結果があっても、その結果に今落ち込んでいたとしても」
不意に志乃原がこちらに向けてウインクをした。
「私と出会えた! っていうとんでもない幸運に巡り会えたんだから、ぜーんぶプラスです!」
思わずぽかんと口を開ける。
普段なら何か茶化し文句でも出てくるのだろうが、今は素直に志乃原の言うことも一理あると思った。
そうであると信じたい、というのが正しいかもしれないけれど。
「……はは、相変わらずすっげえ自信だな」
「ふふ、そんなに褒めないでくださいよ」
「褒めてはねえよ」
「えー!」
不服そうな声色を出す志乃原へ、僅かに口角を上げてみせる。
講義室へ向かいながら、俺は小さく息を吐いた。
少しはあの後輩を見習うべきなのだろう。
志乃原の言った通りだ。今の俺にするべき事は、他にある。
反省することは勿論大事だ。だがそれは、次に同じ失敗しないよう、明日へ向けて必要になってくるもの。
既に終わってしまったことに陰鬱な気持ちになるよりも、大事なのはこれからの未来に想いを馳せること。
その為に俺たちは、再スタートを切ったのだから。
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Web版専用に千字ほど書き下ろしです。
そして『この恋は元カノの提供でお送りします。』の試読版もカクヨム上で更新しました。
4月28日は上記新作とカノうわ6巻の同時発売です!
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