第87話 自己嫌悪
新歓シーズンが終わりを迎えようとしている。
花盛りに咲き乱れていた桜の木々には、今や花弁は僅かしか残っておらず、代わりに新しい緑葉が混じり始めている。
時折感じる肌寒さも次第になりを潜め、日が昇ってから間もない早朝でも比較的快適だ。
時刻はまだ六時過ぎ。
それなのに俺は最寄りのコンビニから、ビニール袋を引っ提げて帰路についていた。
こんな時間から活動を始めるのはいつ振りのことだろう。
この時間まで一睡もしないで起きていたことは、多々あるのだが。
寝巻き姿にサンダルといった格好は、多くの人が出歩く時間帯に外へ出れたものじゃない。許されるのは、この時間だけの特権だ。
正面から犬の散歩をしている老人が会釈してきたので、俺も軽く頭を下げる。
見知らぬ人と目が合ったという理由だけで会釈をするなんて、この時間帯ならではのことかもしれない。
自宅に到着すると、俺は玄関先にビニール袋を乱雑に置いた。
袋の中から数日分の朝食が顔を覗かせる。
菓子パンやおにぎりなど、学生の味方である安価なラインナップだ。
俺は菓子パンだけを手に持ち、部屋へと歩く。カーテンを閉め切っている部屋は未だ薄暗いが、俺は構わず菓子パンの封を開けた。
今日早起きしたのは、一限目から出席点の配分の高い講義が入っているからだ。履修登録期間も終わった為、欠席をするごとに単位を取得する難易度がぐんと上がる。
楽に単位を取ることに越したことはないので、念の為起きなければならない一時間前から五分間隔でアラームを設定していたのだが、何故か今日は一発で目覚めてしまった。
「……冷てえ」
ぽつりと呟いてから、菓子パンを口内に押し込んだ。
最近は暖かい食事がすっかりメインとなり、コンビニに行く頻度もガクンと落ちた。健康的になったが、その分菓子パンを素直に美味しいと思えなくなっている気がする。
その事に若干の寂しさもあるが、それは贅沢というものだろう。
そんなことを考えながら、意識を覚醒させる為に菓子パンを咥えたままカーテンを開けた。
更にスマホの画面を見れば、完全に目覚めることができる。
俺は眩い朝日に片目を閉じながら、スマホを確認した。
『今日は寝るの早いんだね。おやすみっ』
昨日届いていたメッセージだ。
日付が変わる直前の内容だが、俺が夜更かしをする頻度を知っている人ならばそんな言葉も出てくる。
だが、相手は彩華でも志乃原でもない。
送信元には、『礼奈』という文字が表示されている。
俺はトーク画面を開きながら、先週の出来事を想起した。
──ゼロからのスタートと、礼奈は言った。
あれから一週間、俺たちは毎日ラインで言葉を交わしている。毎日といっても、頻繁にラインをする訳ではない。
たった二言、三言話すだけだ。
それでも少し前では考えられなかったくらいに穏やかな時間が、俺たち二人の間に流れている。
『おはよ。今日は一限目なんだ』
そう送ってから、俺は一瞬指を止める。
そして『珍しくアラーム一回目で起きれたよ』と続けて送った。
礼奈は俺が毎朝何度もアラームを止めてしまうことをよく知っている。俺は意外にもデートに遅刻する事が殆どなかったが、それは間違いなく定間隔で鳴り続けるアラームのおかげだった。
……デートか。
かつての俺たちは、そんな仲だったのだ。久しぶりに煙草を吸いたくなって視線を巡らせるが、禁煙に成功して数ヶ月経った自宅には空箱すら置いていない。
「……くそ」
誰に向けるでもなく、呟いた。自分へのものかもしれない。
礼奈と付き合っていた時間は、当時の俺にとって間違いなく幸福な時間だった。告白を受けた礼奈が「私が幸せにしてあげる」と言っていた通りになっていたのだ。
それを壊したのは、俺自身。
この一週間、礼奈のラインが届く度に胸がズキリと痛んだ。
画面越しに礼奈の表情を確認することはできない。文字を打っている礼奈は、一体何を想いながら。
だが俺には本来、そうした気遣いをすることすら許されないのかもしれない。
俺たちが曲がりなりにも関係を再スタートすることができたのは、一重に礼奈の懐の深さに他ならない。
だがもう、戻れないのだ。あの時間を再びそのまま今に置き換えることはできない。
そのことをお互い理解した上で、漸く俺たちの再スタートが成り立っている。
志乃原や彩華との関係とはまた違う、歪な関係。
だが、今になって思う。
あのまま関係が切れていたら、時間が経っていても胸につっかえた思いが取れなかったはずだ。
自分から離れようとしておいて、和解した途端にこんなことを思ってしまうのは自己中心だと分かっている。
俺も、自己嫌悪をしてしまうほどに。
……だが。
再スタートができて良かったと、思ってしまう。
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