第86話 月光

 礼奈はひとしきり語り終えると、深く息を吐いた。

 ペットボトルの容器に入っていた紅茶が僅かに波を立てる。

 腹の底に埋まっていたものを引き出した証だろう。


「……俺が彩華といるの、嫌だったんだな」


 口に出した自分の言葉に、唇を噛んだ。


 ──違う。


 礼奈が嫌だったのは、俺が軽はずみな発言を続けたことだ。

 それが分かっていながら、今俺は無意識に責任を彩華にも分散させようとした。

 首を振って、訂正する。


「ごめん、俺が彩華の存在を礼奈に話したこと自体が悪かったんだ」


 こうして礼奈の視点から話を聞かされるまで、自分の行動、発言がここまで配慮に欠けるものだったとは思わなかった。

 友達から同じような話を聞かされたら、「なんだそいつ」と怒ってしまうほどに。

 付き合っていた時の礼奈は、異性の友達との話をすることはなかった。いくら今は女子大に身を置いているとはいえ、それまでは共学だったのだし、遊んだこともあっただろう。

 別れてからの礼奈のSNSを鑑みると、それは明らかに思える。

 つまり、礼奈は配慮していたのだ。俺の気持ちを考えてくれていた。

 だが俺は礼奈の口から男友達の話が出ないことに疑問を抱くことすらなく、自分だけはその日起きたことをありのままに毎日礼奈へ話していた。そしてその話の中には、彩華の存在が頻繁に出てきていたはずだ。

 礼奈はその事自体は許容していたと言うが、本来それも彼女の器が大きかったからに他ならない。

 恋人には、その日起こったことを全て話したい。

 自分が体験したことを、一緒に追体験してほしい。

 そんな自己中心的な想いからの発言一つ一つが、礼奈を徐々に締め付けていたのだ。

 当時の俺は、舞い上がっていた。

 礼奈が恋人という充実感と、横に彩華がいるという安心感。

 礼奈の言う通り、付き合ってから彩華との関係を切るというのは俺にとって現実的ではなかった。

 だが、俺が事細かに話すことさえしなければ、少なくとも事態がここまで拗れることはなかったのだ。

 それなのに俺は、自分のことを棚に上げて──


「私、悠太くんが他の女子の話をすることについては、全然怒ってなかったの。悠太くんが楽しそうだと、私も嬉しかったから」


 礼奈はペットボトルをギュッと握った。容器からパキリと乾いた音が鳴る。


「でもね。それは、私が悠太くんの中で一番だっていう前提の話。彩華さんに関しては……私より、深い仲なんじゃないかって。一度そう思ったら、あとは苦しいだけだった」


 よく話を聞かせていた時、礼奈はどんな表情をしていたのだろうか。もう表情の細部まで思い出すことはできない。

 だが恐らく、今のような──


「あの人、私よりも秀でてる部分が沢山ある。綺麗だし、頭良いし、皆んなからすごい慕われてるんだよね? 私なんて、ちょっと内気だし、大学のレベルだって普通だし、人望だって」


 礼奈が言葉を連ねていく。口に出すごとに苦しそうになっていく。


「話を聞いてるうちにね、思ったんだ。私が彩華さんに勝ってるのって、悠太くんとの時間だけ。でも、それすらも……なんだそれ! ってね」


 自分で、自分を傷付けていく。

 これが今まで、礼奈が胸に秘めていたことだ。付き合っていた時に思わせていた現実だ。

 もう俺は、礼奈の彼氏じゃない。

 だが付き合っていた時に思わせた事で礼奈が苦しんでいるという現実を無視するのは、到底できそうになかった。

 俺が何か言葉を返そうとした時、不意に礼奈は微笑んだ。


「フウッ。……すっきりしたぁ」

「えっ」


 憑物が取れたかのような笑みに俺が言葉を詰まらせると、礼奈が先に声を出す。

 それは先程の声色とは異なり、人を安心させるような、いつもの柔和なものだった。


「この話を悠太くんに伝えられただけでね、私とっても嬉しいの」


 礼奈は「ほんとだよ」と言って、口元に弧を描く。


「私、パーティーの時に思ったの。悠太くんが途中で帰ろうと、エレベーターに乗った時……この扉が閉まったら、もう二度と会えないんだなって。だから今、こうして一緒にいられるだけで嬉しいの」


 ……あの時の俺は、ミスコンという単語が出た瞬間、過剰な反応をしてしまった。

 今の話を聞いた後だと、過去に戻りたくなる。

 礼奈もあの時のことを想起していたのか、


「何か特別な事情があるなら別だって、悠太くんは言ってたね。私も帰ってから考えて、私の事情は別に特別じゃないなって思った。だってこんなの、どこにでもありふれた話じゃない?」


 彼氏の怠慢、女友達との距離の近さ。

 浮気自体も、大学に入れば中高生の頃よりは珍しくない。


「だから、悠太くんへの連絡を諦めた。もう会えないかもって思って……」


 礼奈は口をつぐむ。

 その後に続く単語が分かる気がした。

 エレベーターのドアが閉まる直前、礼奈は確かに泣いていたから。


「……今までの話はこれで一旦おしまい。悠太くんの言った通り。だから次は、これからの私の話」


 そう言って礼奈はペットボトルを俺の傍に置く。

 そしてベンチから腰を上げて、俺と向かい合った。


「ねえ、悠太くん。私のこと、嫌い?」


 俺は思わず目を見開く。

 好きか、嫌いか。

 今しがたの話を聞いて、嫌いだと言えるはずがない。


「嫌いとか好きとか、選ぶ立場じゃないだろ俺は」

「ううん、選んで」


 今日初めて強い口調になった礼奈は、俺の頬を両手で触れた。


「悠太くんって優しいから、きっとこれから自分を責めちゃうかもしれないね」

「優しくなんかない。俺はまず、お前に謝らないと──」

「謝らないで!」


 礼奈が大きな声を上げて制止した。頬に触れていた手を離して、肩の上に乗せてくる。


「謝ったら、許さない」

「な、なにを──」

「悠太くんは、ちょっと鈍感なところもあるかもしれないけど、すごく良い人。だから、謝りたいんだよね。別れたのを自分の失態だと思って、何とかして償いたいんだよね」


 でも、と礼奈は続けた。


「悠太くんが今謝ったら、その後の私たちの関係ってどうなるの? 清算されるの? 今までの時間が良い思い出として残って、終わりなの?」


 礼奈が俺の膝上に跨る。露わになっている脚線が、艶やかな雰囲気を漂わせる。


「駄目。もう私は、終わらせたくない」


 礼奈は自身のネックレスをゆっくりと取った。

 それから、指に付いていたリングもポケットに入れる。

 その動作で、俺は礼奈が今から何をしようとしているのかを察した。

 礼奈は俺の腕を掴み、自身の胸元へ引き寄せる。


「やめろっ」


 俺は彼女の腕を払った。

 礼奈は暫くそのまま静止していたが、やがて諦めたよう息を吐いた。


「止められちゃった」

「……やめてくれ。頼むから」


 俺が懇願すると、礼奈は哀しそうに眉を下げる。


「……ここで私に手を出すのは、悪い人だよね。世間でいう良い人は、そんなことしない。分かってる」


 礼奈は俺の肩に乗せた手に、ギュッと力を込める。


「だから、私。今だけは悠太くんに、悪い人になってほしい。それが、私にとっての良い人だから」


 肩に伝わってくるのは僅かな震え。

 礼奈が嘘を吐いている可能性は、もう捨てた。

 浮気をされたと思った瞬間から、俺は礼奈の言動を全て色眼鏡を通して見ていた。それも、とびきり暗い色眼鏡だ。

 今の俺は、礼奈と積み上げてきた一年を信じる。

 だがそれは、今の礼奈の気持ちに応えるという答えに繋がるわけではない。


「駄目だ」


 俺が首を横に振ると、礼奈はゆっくりと瞬きして、深く息を吐いた。


「……分かってた。悠太くんの中では、とっくに終わった話だっていうこと。悠太くんの中では、もう私に区切りがついてるから」


 礼奈はおもむろに俺から離れる。柔らかい匂いが遠のいた。


「私たちは、すれ違っただけ。恋人なら、よくあることだって、以前は言い聞かせてたんだけど」


 恋人という関係なら、よくあるかもしれない。

 だが経緯はどうあれ、俺たちの関係は確かに一度終わった。

 あの瞬間、合鍵がポストに落とされたのを合図に、俺たちは終わったのだ。

 礼奈も終わらせた自覚があるからこそ、焦っていた。


「あーあ、やっぱり手遅れかぁ」


 礼奈はぐっと身体を伸ばして、息を吐く。

 俺は自分の気持ちを理解している。礼奈に申し訳ないという気持ち。そして、今はもう礼奈への恋愛感情が自分に残されていないことも。

 バレンタインパーティーの時に、礼奈に言ったことが全てだった。

 別れてから数ヶ月が経ってしまった現状で、あの気持ちを取り戻すというのは難しい。俺の中では終わっていると、彼女にハッキリ告げてしまった。

 だからこそ、礼奈にかける言葉が見つからない。


「今からさっきのとは違うこと言うけどね。悠太くんにはもう一度ちゃんと好きになってもらうために頑張るのが、私にとってベストだって思ってる」


 礼奈は紅茶の残ったペットボトルを、ハンドバッグに詰めた。


「だから、これでよかったのかも。将来、そう思えるように頑張りたい。振り返った時、そんなこともあったよねって……あの時未熟だったよねって、笑いたい。未来が良いものにして、過去を良い思い出に変えたい」


 そう語る礼奈は一度真っ直ぐ俺を見て、それから視線を下げた。


「だから私は、頑張りたいけど……勿論、悠太くんが許してくれたらの話だね」


 礼奈は愁然な笑みを浮かべる。


「やっぱり悠太くんは、謝る必要なんてないんだよ」

「……なんでだよ」

 

 元はといえば、俺が悪い。俺が元凶を作ったのに。

 礼奈は満月を眩しそうに見上げてから、振り向いた。


「浮気ってさ、どこからが浮気? って思った時点で駄目なんだって。私はそれを認識してた上で、手を繋いだの。だから私はあの時間違いなく、浮気したんだよ」

「……そうか」

「悠太くんを傷付けたよね。あの時は──」

「謝んなよ」


 俺が遮ると、礼奈は目を丸くした。


「俺の一年間と、お前の一日。相殺して、なかったことにするんだろ」


 俺の中で、終わった話。

 でもそれは、礼奈との縁を切るという話じゃない。かつて俺たちが付き合った時間に区切りをつけた、それだけの話。

 終わりがあれば、始まりがあるのが道理だと思うから。

 礼奈は少し俯いた後、静かに声を出した。 


「いいの?」


 俺が頷くと、礼奈は柔和な笑みを浮かべる。


「そっか。……マイナスで終わりかもって思ってたけど、ゼロからのスタートになっただけで、今はできすぎなくらいかな。私の気持ちは、まだ胸に閉まっておくことにする」


 そう言って、礼奈は俺から少し距離を取った。


「じゃあ、また連絡していい?」


 いつ振りだろう。

 礼奈が、笑顔で別れの挨拶をするのは。

 いつ振りだろう。

 礼奈にこの言葉を口にするのは。


「ああ。──またな・・・


 俺の返事を聞くと、礼奈は暫くその場に佇み、深く頷いた。

 元恋人はどこまでいっても、元恋人だ。

 友達に戻る、親友になるなど、関係性を変容させる言葉は世の中に溢れているが、本質は変わらない。

 だが元恋人だからといって、関係を切らなければならない決まりなんて存在しない。双方が納得していれば、元恋人以外にも新しい道が用意されていてもいいのではないか。

 相殺すると、礼奈は言った。


 ──これが、俺たちの再スタートだ。


 礼奈がこの場を去っていく。

 華奢な背中に、月の光が差し込んだ。



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 ・現在新作をアップしているので、お時間ある方はぜひのぞいてみてください。


ラブコメ『倦怠期カップルは、出来立てカップルに戻りたい』


キャラ文芸『貴方は死にました。〜三日間の未練旅〜』


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 本編あとがき


 書籍3巻の内容を、Web用に改稿しました。

 書籍はこの話に真由が絡んできたり、流れが大分違うので、違った印象を受けるかもしれません。

 以降のエピソードは書籍4巻と被るので、編集さんと相談しながら更新していきます。

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