第85話 相坂礼奈〜過去⑤夜空は嗤う〜
悠太くんの合鍵を、ポストに入れる。
合鍵を返却すれば、もう悠太くんに会う口実は無くなる。
口実さえ残していれば、以前のようにお互い冷静になって話し合うこともできたかもしれないのに、私はその考えに至ることができなかった。
悠太くんの目撃した光景に、誤解はない。
でも、弁解はできたはずだ。それなのに私の口から言葉が出なかったのは、突然の別れに私自身冷静になることができなかったからだ。
どれだけ悠太くんとの関係について考えても、私に別れるという選択肢だけは浮かばなかった。あくまで恋仲という関係はそのままで、その中で何か変えることができたらいいなと思っていた。
それを悠太くんは、たった一言で終わらせたのだ。
いつの間にか私の気持ちは、一方通行になっていたのかもしれない。
──こんなに虚しいことってないよ。
失意に身を任せて、私は合鍵を手放した。
ポストへ落とされた合鍵の金属音が、私たちの関係を終わらせる鐘となる。
一年という、長い時間。私が過ごしている大学生活の、半分以上の時間。
それが、終わった。
──終わらせたと、思っていたんだけど。
ダメだったみたいだ。
私にとって、一年という期間は情を移すのに十分すぎて、日が経っても彼を忘れることができない。
でもあの場から立ち去った私には、もうどうすることもできないと思った。
幸せだった一年を記憶から抹消するために、なんでもした。
貯金を崩して旅行にもいったし、髪だって明るいアッシュグレーに染め直した。
バイトを頑張って高い服を買ったり、普段使わなかったインスタに毎日満喫していると投稿したり。『明日は素敵な日になりそうな予感♪』なんて、したことなかったくせに。
心は正直だった。
似合わないことをしてすり減って、ぽっかり空いた心のピースを埋めるために彷徨っていると、悠太くんと再会した。
心底嬉しくなってしまった自分に戸惑って、次に彼の表情を見て悟った。
──彼は、私を忘れようとしている。
それはそうだ。あんな別れ方をした人との想い出を、ずっと大事にとっておくなんてありえない。
至極当たり前の現実。
でも、それにしても。
私の記憶の中で生きている悠太くんと、目の前にいる彼は、あまりにも違う。
そんなに冷たい表情になるんだね。
そんなに冷たい声が出るんだね。
悠太くんの様子から、彼の心は既にある程度整理がされていて、私という存在が摩耗していっているのは明らかだった。
焦る。元カレに忘れられることを焦ってしまった時点で、もう結論は出ていた。
私はまだ、悠太くんのことを。
自覚してしまったら、行動するしかない。
忘れられないように。そしてまた、一緒に。
「その、また会える?」
絞り出すように言ったその言葉に、は? という声が聞こえた。
ひどく怜悧な声色に、背筋が凍る。
「あんた、正気?」
悠太くんから、視線を外す。
予感が外れてほしいと、強く、強く願った。
でも、彼女は。
彩華さんは、当たり前のように悠太くんの隣に立っていた。きっと私が悠太くんと付き合っていた時も、ずっと隣にいたのだろう。
彩華さんの表情は、悠太くんが今まで見せてくれた写真とはまるで違っていた。
心底怒り、侮蔑の篭った瞳に、私は思わず萎縮した。
そこでようやく理解した。
私が、悪者なんだって。
彼らにとって私はもう、迷惑でしかない存在なんだって。いくら私にどんな胸中があろうとも、関係ない。
もう私は、そんな存在なんだって。
どうしようもない現実から逃げるように、私はその場を去った。背中に悠太くんの視線を感じる。
でもすぐに、視線が外れた気がした。きっとこの勘は当たっている。
その後、那月と会った。悠太くんと再会したその日は、夜に高校の友達たちとご飯を食べる予定だったから。
那月は私の様子に気付いていたようで、ご飯を食べ終わり二人きりになった帰り道に、優しい声色で訊いてきた。
綺麗な満月が辺りを照らしている、そんな夜だった。
「礼奈、何かあった?」
「──那月。私、月が嫌いだな」
私は、馬鹿みたいに輝いている満月を見上げながらそう言った。
月明かりの下で那月が戸惑っている様子が想像できる。
「太陽には敵わないって、気付かされる月の気持ち考えたことある?」
「どういう……」
那月の問いを待たず、私は言葉を続ける。
「月って、自分で輝けないの。太陽の光を反射させてるだけだからね」
自分は悠太くんにとっての光だったから告白されたのかと思っていた。でも、それは思い上がりだった。
きっと悠太くんの近くにはずっと太陽があって、目が眩んで月の麓に迷い込んだだけ。
悠太くんにとっての私は、多分そんな存在だった。
だからきっと、別れても心の整理を付けるのは簡単なことだった。
私の言葉から悟ったように、那月は顔を歪める。
「礼奈──」
那月は私をそっと抱き締めた。
すごい、今の言葉だけで伝わるんだ。
──那月を悠太くんに会わせなかったのは、正解だった。
私の友達の何人かは、悠太くんと会っていた。みんな口を揃えて「面白いし、良い人だね!」と言っていた。
悠太くんは自分で思っているより、人当たりがいい。もしかしたら、個人的に友達になって、連絡を取り合っている子だっているかもしれない。
あの子たちが私の今の状況を知って、果たして確実に私の味方をしてくれるだろうか。
でも、那月は確実に私の味方をしてくれる。だって那月は、悠太くんのことを何一つ知らないから。
私は、私の味方をしてくれる人を確保するために、那月を悠太くんに会わせなかった。
本当に私は、なんて意地汚いんだろう。
きっと悠太くんと彩華さんは、私たちと似たような関係性なのかもしれない。
悠太くんにとって、どんな時も、いつだって味方をしてくれるような存在が彩華さんなのかもしれない。
ただひたすらに、悔しいと思った。
自分がそんな存在になれなかったこと。なれないまま、終わってしまったこと。
──ふと、ある考えが胸中を横切った。
「ねえ、那月。前に言ってたよね。浮気をしているか、していないか。それを決めるのは、私自身だって」
「うん。確かに、言ったわ」
那月は私が迷わないように、力強い声色で肯定する。おかげで、決心がついた。
「悠太くんの行動は、浮気じゃない。彩華さんとずっと一緒にいることは、私も一年間許容してた。でも、その代わり──」
私は那月から離れて、夜空を凝視した。
今にも降ってきそうな星々が、嗤うように輝いている。
「私の行動も、浮気じゃない。悠太くんの一年と、私の一日。あれを対等にして、相殺して、そう思うことにする」
きっと私の結論は、こじつけもいいところなのかもしれない。少なくとも、倫理に反しているものだということくらい分かっている。
でもそう思わないと、私は悠太くんに自信を持って会うことができない。また今日のように、逃げ出してしまう。
そうならない為に、私は自分を騙すんだ。
「私、浮気なんてしてないから」
私の言葉に、那月は黙って頷いた。
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