第84話 相坂礼奈〜過去④感情論〜
彼はミスコンの運営に関して、アドバイザーのような存在だった。
私はミスコンのエントリーを辞退した後も、運営として仕事をしていたから、元々顔を合わせる機会は何度かあった。
「俺、礼奈さんのファンなんです」
マッシュヘアに丸メガネ。
爽やかな青色のシャツを羽織っても、どこか弱々しい雰囲気が漂う一つ下の彼は、ある日私に力強い口調でそう言った。
私自身がミスコンにエントリーしたのはたった数日間のことだったけど、その間にファンになったらしい。
最初から好意を全面に押し出していることには気付いていた。
最初は勿論、警戒した。
彼氏持ちの女子なら当然の対応だ。
でも次第に、彼に極度の警戒は必要ないと思い始めた。
彼は私に彼氏がいることを知っても、こうして話せるだけで満足だと言っていた。
本心からの言葉ではない可能性もあるけど、何度も話していると彼氏持ちの人に手を出す類いの人間ではないことは明らかだった。
豊田くん本人も「これでも自分では大学デビューをしたと思えるくらいなんです」と言っていたし、元々大人しい性分なんだと思う。
人を見た目で判断するのは良くないことかもしれないけれど、どうしても女性に手を出す度胸のあるような人には見えなかった。
「麻痺してますよ、礼奈さん。世間では、それをデートって呼ぶんです」
だから、彼がそう言いながら私の手を取った時は、ただただ驚いた。
自分から女子に手を繋ぐ度胸があるなんて、まったくもって予想外だったから。
冷静になると、私は「やめて?」と告げた。
彼のことは嫌いではない。
むしろ、ここ最近は良い友達になれそうだとさえ感じていた。
なるべく、ここで関係を壊したくない。
だから、優しい声色で制止した。
彼はとても哀しそうな顔をして、握る力を弱めた。
「俺、彼氏さんみたいに浮気なんてしないですよ。他の女と、歩いたりなんてしない」
浮気という単語を聞くたびに胸が痛くなる。
私は確かに彩華さんに嫉妬していたものの、悠太くんと彩華さんの関係性にはいくらか納得していて、認めてもいた。
でも世間からみれば、私はずっと浮気されている状態だったのだろうか。
今まで、惨めな状態だったのだろうか。
豊田君の言葉は、私にこの一年間を否定されたような、酷く不安な感情を抱かせる。
悠太くんは、彩華さんと一緒にいる時、私に対して罪悪感を感じたことはなかったのだろうか。
……なかったからこそずっと一緒にいたに違いない。
恋人以外の異性と仲良くすることに、私自身だったらどう感じるか気になった。
何も感じないようであれば、私が悠太くんにとやかく言う権利はない。そう思って、私は豊田くんで試すことにした。
豊田くんが、再度私の掌を握る。これを受け入れたら、私に罪悪感は生まれるかどうかの、簡単な実験。
悠太くんと対等になれば、またいつものように笑えるようになる。
初めて、私は豊田くんの手を受け入れた。数秒間、確かに私は自らの意思で悠太くん以外の男性と手を繋いだ。
──そして、私は正気に戻った。
長い想起から目を覚ますと、悠太くんの家へと向かう一本道へと入っていた。
豊田くんと遭遇しても、まさか手を繋ぐことになるなんて思わなかったからずっと目的地まで歩みを進めていたのだ。
次の日は一年記念日のデートだったから、大切な日を楽しむために、今の内に悠太くんとの確執を消しておきたいと考えていた。
でもこんなところを、誰かに見られでもしたら。
突然踵を返した私に、豊田くんは怪訝な声で「どこ行くんですか?」と訊いてくる。
手は、繋いだままだった。
「ねえ豊田くん、離して」
「嫌です。俺は──」
「やめてってば!」
私は豊田くんの手を振り払う。
「仮に悠太くんが、彩華さんとデートをしているとして。それが私も豊田くんと手を繋いでいい理由にはならないと思う」
私の主張に、豊田くんは意外にも食い下がった。
「これは、浮気じゃないですよ。だって、礼奈さんにそのつもりはないんですから」
「それは──」
「礼奈さんの彼氏さんと同じですよ。そのつもりがなかったら、浮気じゃない」
明言された訳ではない。それでも、那月のような親友でも何でもない他人に、悠太くんを暗に批判されるのは嫌だった。
世間からみれば悠太くんが悪いかもしれないけれど、そう結論付けていいのは彼女である私だけだ。
「ねえ、豊田くん」
「はい?」
「豊田くんは正論だと思うよ。さすが運営のアドバイザーだよね」
「そ、そうですか?」
「でもね」
私は豊田くんからの好意を引き剥がしていくように、噛み締めるように言葉を続けた。
「恋愛に大切なのは、正論よりも感情論だと思うの。私が何となく豊田くんが嫌だと思った時点で、もう見込みはないの。だから、諦めて」
豊田くんは私の言葉に、目を見開いた。
自分の掌が、濡れている。私の手汗じゃないことは明白だった。
きっと豊田くんは勇気を振り絞っていたんだろう。その断り文句が今しがたの言葉だなんて、可哀想な気がした。
でも彼への罪悪感より、誰かに見られていないかという心配の感情の方が遥かに大きい。
私は口から出そうになっていた謝罪を飲み込んで、じっと豊田くんを見つめる。
私の意志の強さを、分かってほしかった。
ついに豊田くんは折れたように苦笑いして、乾いた声で言った。
「……驚きました。こんなにはっきり言われるなんて」
豊田くんは私を追い越して、駅へと駆けて行く。
その後ろ姿を眺めていると、自己嫌悪に苛まれる。
悠太くんの自宅近くで、私は一体何をやっているんだろう。
振り向くと、後ろには誰もいない。
でも向こう百メートルは確認できる一本道だから、運が悪ければ誰かに見られていたかもしれない。
最悪の可能性は、なるべく考えないようにした。
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