第79話 涙の意味②

 大学三年生になっても、日常は殆ど変わらない。

 例えば、サークル活動。代表や副代表といった役職に就いていなければ、周りの面子が多少変わるだけだ。

 普段の講義に至っては、学部の友達と受けていれば何の変化もない。

 だが、それでもいい。

 変わらない日常が、俺は好きだった。


「バレンタインパーティについて話があるって、今更何よ」


 俺の日常において、欠かすことのできない存在。

 美濃彩華は軽く息を吐いて、前髪をかき上げた。

 十三号館一階、螺旋階段の下には閉塞的な空間がある。

 穴場であるこの場所は、学生があまり寄ってこない。


「あの時のこと、話してなかったことがあったから」

「礼奈さんとのこと?」


 喉まで出掛かっていた言葉が詰まり、思わず咳き込んだ。

 彩華が俺の背中に手を伸ばしてさすってくれる。


「さ、さんきゅ」

「いいえ。それで、続きは」

「ああ。……俺さ、礼奈に私は浮気してないって言われたんだよ」

「それは私も聞いてたわよ。私が知らないのは、その後のことでしょ」


 彩華はブラウスに掛かる毛先に触れながら、平たい口調で返事をする。

 俺がこれから伝えるのは、地下に礼奈と二人で話した際のことだ。


「──泣いたんだ、礼奈が」


 俺は唇を噛み締める。

 あの時から、胸の支えは常に何処かで感じていた。

 途中で帰ったことが正解だったとは、もう思えない。

 浮気をされたと思って、傷付いた。そしてまた余計に傷付くのが怖くて、逃げただけだ。

 終わった関係からまた傷付くなんて馬鹿らしいと、俺は礼奈の弁明を切り捨てた。

 今の俺の認識が正しければ、那月の態度にも納得がいく。


「それで?」


 彩華が僅かに目を細める。それだけで、螺旋階段の下が一層静かになった錯覚に陥る。

 俺が返事に逡巡すると、彩華は続けた。


「あんまり言いたくなかったけど。バレンタインパーティの時、私が礼奈さんに反論したのはあんたの味方だからよ」

「……どういうことだ?」

「あんたの味方だから、礼奈さんに反論したの。たとえ礼奈さんの方が正しかったとしても、私の対応は変わらなかった」

 

 彩華は壁にもたれかかって、腕を組む。


「──私、礼奈さんのことを何も知らないもの。私はあんたのことしか知らないのに、客観的な判断ができるわけないじゃない」


 ……確かに、それはもっともな主張だった。

 あまりにも何でも親身になってくれるので、いつの間にか彩華に頼って答えを導き出すのが当たり前になっていた。

 これが那月の言う"甘え"なんだとしたら、あいつは芯をついていたといえる。


「だから、私はあんただけを信じるしかない。あんたが浮気されたって言えば、そうなんだと思う。逆に、浮気されてなかったかもって言っても、私はそれに納得するしかないの」


 彩華は寄り掛かっていた壁から離れて、短く告げた。


「だって私、この件では部外者だから」


 上を見上げた彩華は、どこか寂しそうな表情を浮かべているように見えた。

 だがそれは一瞬のことで、次の瞬間に彩華は俺に背を向けていた。


「まあ、部外者とも言い切れないかもしれないけど」

「……そうだよ。礼奈と付き合ってた頃、俺が聞かれてもないのにすげー色々話してたからな」


 俺の言葉に、彩華は少し間を開いてから返答する。


「……そうね」


 彩華はハンドバッグを背中に預けて、一歩踏み出した。


「なあ、彩華」

「ん?」

「ごめんな。巻き込んで」


 サークルで揉めた時も、礼奈との時も。

 俺は、いつも巻き込んでばかりだ。

 俺の謝罪に、彩華が小さく笑う気配があった。


「こんな事で謝らないでよ」

「でも──」

「いいの」


 彩華はぴしゃりと言って、歩き出す。

 あと一歩でロビーへ続く廊下に出るという間際に、彩華は振り返った。


「それよりあんた、これから何処かに行くの?」

「ああ。ちょっとな」

「そ。じゃ、結果だけ教えてくれない?」

「分かった」


 俺が頷くと、彩華は口角を上げる。

 そして、いつものように視線が交差した。

 普段から話しているので、慣れたものだ。

 だが、今日は少しだけ違和感があった。言葉で形容し難い違和感だ。

 何故か今日だけは、彩華から視線を逸らしてはいけない気がした。

 視線が交わって数秒間、彩華は俺を見つめ続けた。

 俺も目を逸らすことができずに、見つめ返す。

 ……相変わらずの、澄んだ瞳。

 だがその瞳の奥にある感情は、俺には読み取れない。

 講義開始の鐘が鳴る。

 先に彩華が視線を外し、口を開いた。


「遅れちゃった」

「……悪いな、ギリギリになっちゃって」

「遅れたって言ったんでしょ。アウトよ、アウト」


 彩華は苦笑いして、続けて言った。


「喫煙所行く? 一本だけなら付き合ってあげるけど」

「いや、俺禁煙してるから」


 彩華にダサいと言われてから、俺は一本も吸っていない。

 そんなきっかけで禁煙ができるなんて我ながらどうかしているが、おかげで体力は向上しているように思える。


「そっか。私が辞めなって言ったんだもんね」

「そーだよ。また煙草ハマったら次こそ抜けだせない。それに、ダサかったんだろ?」


 俺は冗談半分で笑うと、彩華は小さく肩を竦めた。


「ダサかったけど、あの時間は結構好きだったわ」


 彩華は長い黒髪を手ですいてから、背中を向けた。


「じゃ、また」

「……うっす」


 俺が片手を挙げて応えると、彩華は十三号館から出て行った。

 彩華が立ち去った空間には閉塞感だけが残されて、俺もすぐに外へ足を運ぶ。

 彩華の姿は、もう見えない。

 

 ──結果を教えて、と彩華は言った。


 俺がこれから誰に会うか、もう分かっているのだろう。

 ポケットからスマホを取り出して、着信履歴をスクロールする。

 目的の名前が、見つかった。

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