第78話 涙の意味①
今でも、ふと脳裏を過る。
──決まってるじゃん。会いたかったからだよ。
地下一階の駐車場で、相坂礼奈が発した言葉。
次第に記憶は摩耗していくが、きっとその気になればすぐに思い出すことができそうな、鮮烈な出来事。
あれを思い出して、俺に何の得がある。
そう思って記憶に蓋をしようとしても、漏れ出てくる情景。
彼女の流した涙の意味を、俺は無意識に考えている。
◇◆
いつも通りの日常。
日常が愉しいものか、つまらないものか。
それを左右する重要な要素が、人間関係だ。
日常が崩れるのは突然だという言葉は昨今よく耳にするが、大学生のそれは変動する人間関係に多くの比重を置いているからだと思う。
日常にいた存在が欠ければ、色はモノクロに。
新しい存在が刻まれると、色鮮やかに。
そして俺の日常に欠かせないものになった後輩が、今日も自宅に入り浸る。
小悪魔な後輩は、俺から告げられた過去に暫く目を瞬かせてた。
──俺が告げた過去は、相坂礼奈との一件。
浮気をされたことは伝えてあったが、状況を説明したのはこれが初めてだった。
今は志乃原の反応を無視し、数分掛けてひとしきり話し合えたところだ。
「といっても、あの光景は紛れもない事実であって。勘違いとかじゃないはずなんだよ」
俺がそう言うと、志乃原は食い気味に返事をした。
「……先輩。いや勘違いとかそれ以前に、浮気されてた状況なんて初めて聞かされたんですけど、一体どういう心境の──」
「よし終わり」
「聞けー!」
志乃原は腕をバタつかせて抗議した。
かつて、何度かこの事について言うタイミングはあった。
二年後期の試験お疲れ飲み会後、同じベッドに転がっていた時もそうだ。
あの時は、済んだことだからと志乃原に言おうとはしなかった。
元々信頼はしていたが、その度合いも今では更に一段深い。その事も、志乃原に過去を伝えた要因の一つ。
「志乃原に言うことで、勇気貰えないかなってさ」
「なんですかそれ」
俺の発言に、志乃原は小首を傾げる。
「でも、今の話から──先輩も、私が遊動先輩に浮気された時の気持ち分かるはずじゃないですか。ムカつきましたよね?」
「いや、ムカつくとかじゃない。絶望しただけ」
「メンタルよわ……くはないんですよね。多分、それが普通なんだ」
「好き合ってた熱量も時間も違えからな」
「それは確かに。……すぐに納得した今の私、すごい嫌な女になりませんでした?」
「なった」
「否定してくださいよ!」
志乃原の抗議に口角を上げると、俺は傍らにあったボトルを口に運んだ。
喉の渇きを潤しながら、俺は思考を巡らせる。
──気になる事が、もう一つあった。
それは、最近の那月の俺に対する態度だ。
講義終わりの、俺への提言。
俺のために伝えようとしているというより、誰かのために伝えようとしていた。
……那月は礼奈の友達だ。
そのことを考慮すれば、あの提言が誰の為のものなのかが分かった気がした。
恐らく那月は、俺と礼奈の関係性を知っている。
それはバレンタインパーティの際、俺と礼奈を邂逅させたこと、そしてGreenの新歓に言った、意味深な言葉から、察することはできた。
つまり、那月と礼奈は普通の友達よりも深い仲だということだ。
そんな那月が、講義中にペンを忘れた俺に放った言葉。
── 私は、言われたら貸すよ? でも、言われなきゃ貸さない。
那月がそんな当たり前の事を伝えたのは、俺がペンを忘れたからなんて理由じゃない。
礼奈と俺の認識に、何かしらの齟齬があり。その齟齬を、那月が把握しているからではないのか。
……これらを鑑みると、もう一度思い返すべきなのかもしれない。
だがその事に足を突っ込むのは、些か抵抗がある。
「先輩ー、聞いてるんですか?」
「俺、今でも浮気されたとは思ってる。でもさ、さっきも言ったけど。あいつ……泣いたんだよ」
「全然聞いてないじゃないですか……」
志乃原は嘆息してから、言葉を返す。
「世の中には、浮気した挙句泣くような女子もいますよ。先輩の考えすぎじゃないですか?」
「そうかもしれないけどな。俺、行くわ」
「うーん、全然響いてないのが先輩らしい」
志乃原がコクコクと頷くのを横目に、俺は思案した。
確かに、志乃原の言うような女子も世の中にはごまんといるだろう。
昨日の夢に影響されたのかは分からない。
だがあの一年間は、確かに俺は幸福だったのだ。だからこそそれが瓦解した際は大きなダメージを受けた。
その一年間を、最後にもう一度だけ確かめたい。
自分が納得し切れないまま事を流していては、きっと大人になっても同じ事を繰り返す。
触れたくない部分に自ら向き合ってこそ、人は成長できる。だからこれは、俺自身の為の行動だ。
俺は腰を上げると、最後に志乃原へ言葉を返す。
「俺が浮気の状況を今更志乃原に言ったのはな、前より信頼してるからだ。信頼してる人に伝えたら、きっとこれから起こす行動に自信が持てる」
「えっ」
「じゃあ、また」
「いやいやちょっと」
歩き始めた二秒後にがしりと首根っこを掴まれて、力付くで引き戻される。
「ゴリラかな?」
「哺乳類で例えてくれてありがとうございます」
「その反応はおかしいだろ……」
俺が呆れて言うと、志乃原は頬を緩めて言葉を返す。
「フフフ。仲が深まってることを直接伝えられて、嬉しくない人なんていませんよ。先輩のそういうところ、私すごい好きです。だから例えを哺乳類で留めてくれている間は、なんでも許しちゃいます!」
「ああ……そう。そんな嬉しいもんか」
「嬉しいですよ! 先輩は私に好きって言われて、嬉しくないんですか? 嬉しいですよね、ありがとうございます」
「自己完結してんじゃねえよ!」
俺がツッコむと、志乃原はケラケラと笑う。
だが確かに、親しい人から好意を伝えられて嬉しくないはずもない。志乃原が素直に嬉しいと言ってくれることも、俺にとっては喜ばしいことだ。
逆に、マイナスな事は言葉にしない方がいい。
思いの内に秘めていた方が円滑に進む物事は山ほどある。
──言われなきゃ、分からないでしょ?
那月の言葉が反芻する。
あの場から立ち去った俺を、非難していたのか。
最後まで聞く事を拒否した俺に、提言していたのか。
今更聞いてどうなるという考えは拭えない。だが那月の態度から一度察してしまった今、行動に移さないことは逃げ以外の何物でもない。
「先輩が何考えてるのか分かんないですけど。仮に礼奈さんが従兄弟と手を繋いでただけだったとしても、私は先輩の味方ですよ」
「……なんでだ。もし百歩譲ってそれが事実なら、明らかに俺が悪者だろ」
あの時の俺が見た光景は、コンマ一秒の刹那という訳ではない。
数秒間という、短いようでとてつもなく長い時間だったことを、今でもよく憶えている。
それでもあの出来事の背景に、明らかに弁解の余地がある事情があったのだとしたら、確かに俺は那月から非難される存在へなり得たのかもしれない。
……そんなのは、ここで考えても仕方ないことだ。
俺が再び外へ出ようと廊下へ出ると、今度は志乃原に止められる事はなかった。
その代わりに、後ろから声が追い掛けてくる。
「過去に向き合うのって、きっと勇気がいりますよね」
「……さあな。志乃原にもそういう勇気が必要になる時は来るのかね」
靴紐を結びながら、俺は唇を噛んだ。
今しがた発言を後悔してのことだ。俺自身が逃げているくせに、後輩にさも俯瞰したような口振りで話を進める。
そんなつまらない見栄を無意識に張ってしまう自分に、心底嫌気がさす。
──瞬間、背中に温かい感触があった。
振り向くと、志乃原の頭頂部が眼前に見える。
背中にそっと手を添えられて、俺は思わず身体を硬くした。
「私もね、先輩。過去があるから今がある、みたいな考え方に救われてきたんですよ。私は、今の自分が好きですから。……もっと、好きになりたいですから」
「……お前にも、そういう時があったんだな」
今までの言動から、それを察することは時折あった。
だが志乃原が過去について自ら話すことは珍しい。
「話したい時に話せばいいって、先輩はそんなスタンスじゃないですか。私も……今はそうですよ。だからさっき先輩話してくれたこと、ほんとに嬉しかったんです。仲が深まってるって、それが実感できますし」
信頼することと、胸の内に秘めた事柄を口にすることはイコールじゃない。
それでも俺は、志乃原にいつかは話してもらいたい。志乃原も俺に対して同様の感情を抱いていたのだろう。
だから自分の体温を、俺に伝えてくる。
信頼という名の温かさを、直に伝えてくれている。
「いってらっしゃい、先輩」
「ああ、いってきます」
帰る場所に、この後輩がいる。
その事実が、俺の足取りを少しばかり軽くした。
会うべき人は、数人いる。
一人目は、既に俺の中で決まっていた。
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