第77話 甘い記憶、苦い記憶②

 俺が所属しているバスケサークル、『start』。

 礼奈と初めて出会ったのは、女子大の学祭。その時同行していた先輩数名と、今少し揉めている。

 きっかけは些細なものだった。礼奈という容姿の整った女子大生と付き合っている事を知られていた俺は、時折合コンのセッティングを依頼されていた。

 可愛い女子大生のコミュニティには、可愛い女子大生が集う。

 そんな安直な思考回路を押し付けられることにうんざりしていた俺は、いつも言下に断っていた。

 するとついに痺れを切らした先輩の一人、力斗さんが俺に言ったのだ。


「ぶっちゃけさ、あの子って悠太には勿体ない彼女じゃん」


 力斗さんは学祭で礼奈と邂逅した情景が余程印象的だったようで、しばしば「写真見せてよ」とせがまれていた。

 礼奈と付き合っていることに鼻が伸びていた俺は、「それくらいなら」といつも応じていた。

 今考えれば、軽率だったと言わざるを得ない。


「お裾分けくらいしてくれよ。あの子と付き合えたのも、俺らがきっかけ作りしたからだろ?」

「一ミリも関係ないですよ。どうしても出会いたいならナンパでもしてきてください」


 この返事が、あからさまにマズいものだとは思わない。

 俺はイラついたものの、ギリギリのラインを越えない言葉を選んだつもりではあった。だが結果的に、力斗さんの中では許容できないものだったらしい。

 まずは、毎週のようにある飲み会に一人だけ呼ばれなくなった。年に一回ある、全体旅行にも誘われていなかった。

 数週間後には、陰口を叩かれるようになった。

 ──中学生かよ。

 それが俺の感想だ。

 ある程度のレベルの大学には、こうした輩はいないと思っていた。だが学生の人数が多い分、存在するのは仕方ないことなのかもしれない。

 人気のサークルは人数を絞る為にエントリーシートや面接などで選出した新入生のみを入会させる。

 それを知った時はサークルの気楽さはどこにいったのやらと思ったが、サークルの雰囲気にそぐわない人を事前に締め出せると意味では、優れた手段だったのだろう。

 今の問題は、そのサークルにそぐわない存在がピンポイントで俺に突っかかってきているということ。

 周りは既に精神的にある程度成熟している為、高校生の時みたく、村八分といった雰囲気はない。

 皆んな普通に俺に話しかけ、時には「あんなの気にすんな」と言ってくれる。

 バスケサークルの目的は、バスケをすることだ。バスケへの熱に差異はあれど、その根幹は変わらない。こんなこと、まともに年齢を重ねていれば考えるまでもない。しかしサークルという単語を無条件に"遊び場"と捉える人種も、少なからず存在しており、そういう人種に限って声がでかい。

『start』に在籍する中でその最たる人物が、力斗さんだった。

 だから他のサークル員が俺と力斗さんの冷戦に表立った行動をしないのは納得できる。

 俺も逆の立場になれば、親しい仲では無い限り直接介入することはないと思うから。


「あんた、何かあったの?」

「何もねえよ」


 彩華の問い掛けに、俺はそう答えた。

 灰皿に煙草をグッと押しつけて、静かに苛立ちを発散させる。

 サークル内の揉め事は、いざとなれば辞めたら済む話だ。

 高校のそれとは違い、大学は自分の意思でいくらでも環境を変えることができる。

 そんな状況下で人を巻き込むことはしたくない。


「ならいいけど」


 彩華は短く返事をして、俺にライターを差し出した。

 顔を近付かせ、新しい煙草に火を灯す。


「さんきゅ」

「いいえ」


 灰色の息を、彩華にかからないように吐き出す。

 この瞬間は、ストレスから解放される。

 今まで何となくで吸っていた煙草も、最近は少し依存し始めていた。


「やっぱ何かあったのね」

「へ?」

「あんたが二本連続で煙草を吸うの、初めてよ。少なくとも私の前では」


 その言葉に、俺は思わずバツの悪い顔をした。

 彩華は非喫煙者にも拘らず、俺の煙草に付き合ってくれる。

 付き合わせる時間を減らす為に一本に留めるのは自分で決めていたルールだったから、いつもならたとえライターを差し出されようが断っていたはずだ。


「……悪い。二本吸っちまって」

「そこは別に気にしてない。私が言ってるのは、二本目吸うくらいのストレスを抱えてるんでしょってこと」

「何もねえって」


 そう答えた瞬間、口から煙草が引っこ抜かれた。

 彩華はその煙草を俺に近付けて、柔和な笑みを浮かべる。


「根性焼きするわよ?」

「顔と発言が全然合ってないんですけど!?」


 後退りしながら抗議すると、彩華はふんと鼻を鳴らした。

 彩華の行動に、意外な気持ちになる。

 恐らく彩華なら、助けを求めれば力になろうとしてくれる。

 だがこちらから何かを言う意志が無ければ、それを尊重し見守ってくれるようなイメージだった。濃い時間を過ごしてきたが、その認識は誤りだったらしい。

 この状況で根性焼きなど、最も強引な手段だといっていい。無論冗談だということは分かっているが。


「藤堂君から聞いたわ」

「え?」

「なんか揉めてるんでしょ? 何で言わないのよ」


 俺は思わず口を噤んだ。

 ……藤堂のやつ。

 あいつから事情を聞かされていたなら、彩華が多少強引だったのも納得できる。


「身内の不幸だとか、そういう問題で落ち込んでるなら私は慰めてあげることしかできない。事情が分からなきゃ、さっきみたいに強引に訊こうとはしないわ」

「ああ……そういうやつだよな、彩華って」

「そういうやつって何よ」


 彩華は口を尖らせて、煙草を俺に返した。


「人への気遣いが凄いって意味だ」

「……別に、気遣ってる訳じゃないわ。藤堂君の話だと私でも充分力になれそうだったから、こうしてあんたに話してるの」


 彩華は目を細めた。

 何かを見透かそうとする瞳から思わず顔を背けて、煙草を咥える。

 煙草は、もう半分ほどの長さになっていた。


「……ほんとに大したことねえよ。あと少しだけ様子見て、改善しなかったら辞めればいいだけだし」


 もう大学生なのだから、わざわざストレスの掛かるコミュニティに身を置き続ける理由はない。

 この時期から新しいサークルに入っても何かと面倒だ。

 思わぬ形になったが、今後バスケをする機会は無くなるだろう。


「あんた、あのサークル結構気に入ってたじゃない」

「だとしても、もう仕方ない。わざわざ頭のおかしいやつらと争うより、辞めた方がマシだ」


 煙を思い切り肺に入れる。

 バスケに対しての未練を断ち切るように。


「それに、辞めても俺には礼奈がいるんだ。むしろ一緒にいる時間が増えてラッキーだって言い聞かせるさ」

「……なによそれ」


 彩華が、初めて顔を顰めた。


「彼女には彼女の良いところがあるでしょうよ。でもサークルにしかない良いところがあるから、今まで続けてきたんでしょ」

「それは──」


 彩華の発言に、俺は口籠る。

 簡単に思い出すことができた。1on1でディフェンスを躱し、ゴールネットを揺らす高揚感。

 難易度の高いダブルクラッチを成功させて、藤堂とハイタッチをした情景も。

 下唇を噛み締めていると、彩華が言葉を続ける。


「二つも愉しい時間があるなんて、良いことじゃない。どっちか諦めるなんて勿体ないわ。もっと欲張りなさいよ」


 考えないようにしていた。力斗さんに奪われるほど俺の愉しい時間は安くない、と。


「私は、誰かさんのお陰で欲張りになれたわよ」

「お前がか?」

「そうよ。世間体を優先させるのと──」


 何かを言いかけた彩華は瞬きをしてから、口を噤んだ。


「ま、これ以上は藪蛇ね」

「なんだそれ」


 俺は苦笑いをする。煙草を口に運ぼうとして、止めた。


「二兎追うものは一兎をも得ずっていうけどな」

「じゃあ、三兎目を作りなさい」


 風が吹いて、彩華の髪が靡く。

 冬が近付いてきた肌寒さを感じながら、俺は青く澄んだ空を見上げた。

 ……その発想はなかったな。


「彩華」

「なによ」

「……頼っていいか」


 彩華は口角を上げて、俺の肩をポンと叩いた。

 俺は肩から勇気が伝わってくるのを感じながら、まだ途中の煙草を灰皿に擦って火を消す。

 少し勿体ないが、これ以上彩華をこの場に留まらせたくはなかった。


「あんた、彼女さんの前でも煙草吸ってるの?」

「いや、なるべく吸わないようにしてる」

「……そうなんだ」


 彩華は短く返事をして、喫煙スペースから一歩出る。

 その背中を追おうとすると、彩華はこちらに振り返った。


「じゃあ、あんたのサークルに顔出してくるわ」 

「え、俺はいいのか」

「揉めてる最中のあんたがいても邪魔なだけよ」

「辛辣すぎない?」

 

 俺が思わず吹き出すと、彩華も口元を緩めた。


 ──変わらない時間が、此処にある。


 周りの環境が変移しても、変わらない時間が。

 地面に落ちた紅い葉の上を、彩華は一人で歩いて行った。

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