第75話 葉桜

「誰か?」


 思わず、オウム返しをする。

 彩華はそんな俺に軽く頷いてみせたあと、空になった食器をキッチンに持っていく。

 シンクの中から、流水の音が響き始めた。


「あんたが家事できないことくらい、私は知ってる」


 ぎゅっと握り締めたスポンジで皿を洗いながら、彩華は言った。


「皿洗いくらいは俺にやらせてくれ」


 立ち上がると、彩華は即座に「いい」と断る。

 いつもより僅かに鋭い声色だ。


「座ってて。これくらいはしてあげるから」

「でも──」

「病人のあんたにそんなことさせるのとは、私にとって恥よ。座って」


 ……そこまで言われると、座るしかなくなる。

 俺は渋々キッチンの近くに腰を下ろして、彩華の横顔を眺めた。

 彩華は真剣な眼差しで手際良く皿の汚れを洗い流している。彼女自身も言葉をどう繋いでいくか逡巡しているらしく、暫く無言の時間が続く。

 彩華がこれから何の事について言及するのかは分かる。だがそこで返すべき言葉は思い付かない。いつもより鈍った頭が、考えるだけ無駄だと言っている。

 自室に響く流水の音はやがて途切れ蜻蛉になっていき、数分後に止んだ。


「……ありがとう」


 俺のお礼に、彩華はチラリとこちらへ視線を流した後、「どこに座ってんのよ」と苦笑いをした。

 それから一旦キッチンを離れて、ベッドの側へと歩き出す。

 俺はその後ろ姿に向けて、言葉を放った。


「さすがに、寛ぐのは申し訳ないだろ」

「普段ならそれもいいかもしれないけど。ほんとにいいのよ、熱あるんでしょ?」

「あるけども」


 そう答えると、彩華は「ほら」と反応した。

 ベッドの傍らに転がっているクッションを拾い上げ、投げ渡される。

 伸ばした両腕が、柔らかい感触に包まれる。


「さんきゅ」

「いいえ。それで、さっきの話の続きだけどね」


 再度キッチン前に立った彩華は、皿に付着した水滴を拭き取っていき、膝下にある棚を開いた。

 ──そこには、綺麗に整頓された皿が並んでいる。

 整頓し易いように小洒落た器具に収まっているが、我ながら自分のものだと主張するのは些か無理があると感じた。

 もはやキッチン周りは志乃原の領域となっており、棚の中などは俺の見知らぬ器具さえ入っている。


「これ、絶対あんたのじゃないもの」

「それは……」


 正直、弁解の言葉は浮かばない。

 むしろ、ここで素直に話した方が良いとすら思ってしまう。

 彩華と志乃原の間柄は良好ではないことから、多少気を遣うべきかもしれないが、見え透いた嘘を並べる方が悪手な気もする。それに巧く嘘を吐けたとしても、彩華には通じないだろう。

 無論今の体調で、そんな巧妙な言葉を連ねていく自信は毛頭ないのだが。


「お母さんのもの、でいいわよ。他にも私が腑に落ちる答えなら、何でも」


 髪ゴムを外して、いつもの髪型に戻った彩華が俺に近付いてくる。


「ほら、どうぞ」


 彩華はじっとこちらを見据える。長い睫毛の一本一本が、目を凝らせば視認できてしまいそうな距離だ。

 俺は僅かに上体を後ろに逸らして、彩華から視線を外す。

 志乃原が俺の家に入り浸っていることを、彼女はどう思うだろうか。

 俺と彩華は付き合っている訳でないので、そこに後ろめたさを覚える必要はないのかもしれない。

 互いのコミュニティに口出しするような関係ではないかもしれない。

 だが、感情論で考えるのなら彩華が良い気持ちにならないことは確かだ。

 それが分かった上で、本当の答えを言ってしまっていいものなのか。


「言えないの?」


 彩華が静かな問い掛ける。その表情は、いつの日にか見たような気がした。確かあれは、青い春。放課後の教室で何度も過ごした、二人きりのあの空間。何も取り繕わないからこそ、俺たちは深い関係になったのだ。

 ──正直に言うか。

 俺は意を決した。

 これがお粥の対価いうのであれば、彩華だって正直な答えを望んでいるはずだ。


「えっとな──」


 俺が息を吸うと、不意に彩華の手が伸びてきた。

 華奢な指で、自分の頬が摘まれる。


「ねえ。嘘吐いても良いのよ?」

「え?」

「言ったでしょ。もっともらしい理由があったらそれで良いって」

「それじゃ意味ないだろ」

「あるわよ。私が納得できる」


 彩華の瞳に俺をからかう色はない。

 今しがたの彩華の言葉は、俺に嘘の答えを望んでいると捉えられる。

 ……意外だった。

 何も取り繕わなかったから、俺たちはここまで来ることができた。ありのままの彩華を受け入れて、ありのままの俺を受け入れてくれたから、今の俺たちが在る。

 だが、嘘を吐いてもいいと彩華は言った。

 それ程、志乃原がこの家にいるという事実は受け入れ難いことなのか。──それとも。

 俺たちが、ありのままを受け入れ合っていることは間違いない。だがお互いの全てを知っている訳ではないことは、言うまでもないことだ。

 知らない部分は、知らないままでいい。いつかの俺は、そんな結論を出していたはずだ。いずれ彩華の口から語られるのを待つと、そう本人にも伝えたはずだ。

 それは、心地いい関係の現状維持を意味する。温泉旅行においても、俺は同様の答えを選んだ。

 二度選んだ、現状維持という答え。

 だからこそ、彩華も俺の知らない部分を知ろうとしないのかもしれない。

 傍から見たら、歪な関係。あくまで、他人からはそう思われるという自覚はあった。

 当人である俺たちが理解していれば、それでいい。

 ……そう考えていた。

 だが俺たちの関係は、かつて自身が思っていたよりも──


「ねえ」


 ハッとして顔を上げると、彩華が怪訝な表情を浮かべていた。自身の額に汗が滲んでいるのを自覚する。

 今しがた巡っていた思考には、結論を出してはいけない気がした。


「大丈夫?」


 そう言って、彩華は袖で汗を拭ってくれる。

 袖の縁から溢れた汗が目尻に入り、反射的に目を閉じる。

 そんな俺の様子に、彩華は少しだけ笑ってから、再度問い掛けた。


「答え聞かせて」

 

 本当に嘘を聞きたいなのなら、こうして改まって場を設けて質問したのは逆効果だ。

 こんな雰囲気の中、ましてや彩華の前で、巧い嘘を吐けるほど俺は器用な人間じゃない。嘘を吐こうものなら、些か不自然なやり取りになってしまうことは必至だ。

 それでも、彩華本人が望むのなら仕方ない。


「親がたまに様子見に来るんだよ。整ってるのは、多分そのおかげだ」

「そう、良い親御さんね」


 俺のあからさまな嘘に、彩華は短く答えてから腰を上げた。


「じゃ、私行くね」

「ほんとにそれでいいのかよ」

「……さあね。まあ今日はこのくらいにしてあげ、よっと!」

「ぶっ」


 彩華が拾い上げた二つ目のクッションが飛んできて、顔面でキャッチする。

 不意打ちとはいえ、避けられるスピードではなかった。


「病人ってさっきお前が言ったんだろ!」

「あはは、その元気があればすぐに回復しそうじゃない」


 彩華はそう言いながら、ブラウンのスプリングコートを羽織る。

 俺はゆっくりと腰を上げて、玄関へ向かう彩華へついて行く。


「寝てなさいよ。病人なんだから」

「どの口が言ってんだよ」

「この口よ、この口。色んな人を惑わせる唇よ」

「わーすげー」

「よし決めた、快調したらぶん殴る」


 俺の棒読みに、彩華は拳をドアに軽く打ちつけた。有言実行しそうなところが彩華らしい。


「……へえ。来る時は気付かなかったけど、ここって桜が見えるのね」


 玄関から出た彩華は、眼前に広がる景観を見て口を開いた。

 アパートの通路から数メートル先には、桜の木が数本立ち並んでいる。

 満開の時は、花にさほど興味がない俺でも気分が高揚してしまうくらいに綺麗な景観になる。

 だが今は緑葉が混じり、桜も既に散り始めていた。


「満開の時に来ればよかった」

「その時は俺元気だったぜ」

「それもそうね」


 彩華は小さく笑ってから、俺の額を指ではねた。

 コツンという音が鳴り、はねられた部位が熱くなる。


「いてえな」

「ふふ。なんかその顔が無性に見たくなった」

「なんだそれ」


 俺が呆れたような声を出すと、彩華はおもむろに歩き出す。


「ありがとな、来てくれて」


 後ろから声を掛けると、彩華はくるりと振り返る。

 そしてお大事にね、と言い残し、彩華はこの家を後にした。

 ──これでいい。今は、これで。

 春にしては肌寒い風が身体を叩き、俺はすぐに自宅へ戻る。

 一人になった部屋は、いつにも増して寂しげに思えた。



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本日12月23日は、作中で主人公悠太と志乃原真由が出逢った日。

そしてご報告が遅れましたが、カノうわ4巻発売決定しました!現在鋭意製作中です。お楽しみに!

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