第74話 彩華の看病

 お粥の匂いが鼻腔をくすぐり、俺は目を開けた。

 脳内を直接チクチクと刺されるような痛みに顔を顰めながら、上体を起こす。


「起きた?」


 彩華の静かな声色がベッドの傍らから聞こえてきて、俺は視線を落とした。


「どれくらい寝てたんだ、俺」

「二十分くらいよ。よく起きられたわね、体調悪いでしょうに」


 ベッドにもたれて座っていた彩華は、こちらを見ないまま答える。

 両手には本棚から引っ張り出してきたであろう漫画があり、俺が起きるまで読んでいたようだ。

 それにしても、俺はいつ眠りについたのか全く覚えていない。

 彩華がキッチンに立つのを見届けたのとほぼ同時に寝落ちしてしまっていたらしい。

 自宅で彩華にご飯を作ってもらうことなど、知り合ってから初めてのことだ。それなのにいつものように寝てしまったのは、体調不良だからか、それとも安心感からか。それとも──


「じゃ、私行くわね」

「え?」


 間抜けな声を出して、腰を上げる彩華を目で追った。

 振り向いた彩華は、俺の顔を見て小首を傾げる。


「なによ、変な顔」

「いや……いや、別に」


 一瞬だけ脳裏に過った考えを振り払おうと、俺はかぶりを振る。


「私、友達にノート取ってもらってるの。もう間に合わないけど、今から出れば昼休みには合流できるから」

「おう、ごめんな。来てくれてありがとう」


 俺は「助かった」と両手を合わせてみせる。

 一人暮らしの体調不良は、程度にもよるが基本的に同居人がいる時よりも辛くなる。

 買い出しをしてくれるだけでも大助かりなのに、食べやすいご飯を使ってくれるとなると大きな借りだ。


「……寂しそうな顔しちゃって」

「ぐっ」

「せめてご飯食べるまでは一緒にいてあげる。丁度訊きたいこともあったしね」


 彩華は息を吐いて、ローテーブルの前にクッションを置き、座った。

 心の内を見透かされた気恥ずかしさで、顔が赤くなるのを感じる。


「別に、恥ずかしいことじゃないわよ。風邪引くと、私でもそうなるもの」

「彩華でも?」

「まあね。何も考えずに読める漫画とかで紛らわせるけど」


 彩華はそう言いながら、ローテーブルをトントンと指で叩く。

 俺はそれに従い、ローテーブルを挟んだ彩華の正面に移動し、腰を下ろした。


「どうぞ、冷めないうちに」

「まじ、本当に感謝……いただきます」


 俺が頭を下げながら挨拶して、スプーンでお粥をかき揚げる。さらさらとスプーンから溢れる米粒が、いつも食べているご飯とまるで違った輝きを放っている。


「俺お米とか炊いてなかったけど、レンジでチンするご飯で作ったのか?」

「体調不良のあんたがお米を炊いてるとは思えなかったから、家からタッパーに詰め込んで持ってきたのよ」


 彩華はこともなげにそう言って、両膝をローテーブルにつけた。

 ジーっと観察されているように思えて、どうにも食べづらい。


「……早く食べてよ」

「……何か入れた?」


 俺が訊くと、彩華は目をぱちくりとさせてから、立ち上がった。


「ばか、病人にそんなことしないわよ!」

「だ、だよな。それじゃ──」


 彩華の剣幕に押されるようにスプーンを口に運ぶと、風邪で鈍った味覚でもはっきり分かる幸福感が溢れてくる。

 俺はスプーンを一旦置いて、声を漏らした。


「うっま……」


 それを聞いた彩華は「そう」と頷き、言葉を続ける。


「良かった。お粥なんて家族以外に初めて食べさせるから、ちょっと不安だったのよね」

「いやまじうまい。体調が万全なら絶対おかわりしてる」

「体調が万全ならお粥なんて作らないわよ」


 もっともな返答に思わず吹き出す。

 体調を崩したことは不本意極まりないことだが、こうした状況を生み出すのならば報われた気持ちもある。

 大学内にいるであろう彩華の好いている人からすれば、お粥を作ってもらえると分かっていたら風邪を引きたがるかもしれない。

 そんなことを考えながらお粥を食べ進めていると、那月の言っていた周りに恵まれているという言葉がよく分かる。

 大学生活を送る上で、俺に何かに秀でている一面など皆無だ。バスケサークルでの試合くらいはまともにこなせるかもしれないが、それも強豪と言われるうちのバスケ部と比較してしまえば霞んでしまう。

 彩華との仲は、今までの積み重ね。

 過去の出来事が俺たちの仲を形成しているのは疑いようもない。

 だが過去の出来事があるからという理由だけで、家を訪ねてくれるほど彩華はお人好しではない。

 その事実がまたどうしようもなく俺を安心させて、甘えてしまうのだ。

 お粥からチラリと彩華に視線を移すと、彼女はまた漫画に戻っていた。

 志乃原も全く同じ漫画に惹かれていたのを思い出す。

 最近話題沸騰中ということもあり、惹きつける人を選ばないのだろう。

 数秒後、彩華は俺の視線に気付いて目を瞬かせた。


「食べ終わった?」

「ご馳走さまでした」


 俺が深く頭を下げる。

 お粥にはほうれん草や卵が理想的な塩梅で入っており、食べただけでいくらか回復しそうな気持ちになった。

 これは快調した後に、お礼が高くつきそうだ。


「いいえ。お返しは、そうねえ」


 彩華は部屋をくるりと見渡す。

 そらきた。

 高いランチか、はたまたいつかのバイキングか。それとも部屋を見渡しているということは──


「教えてくれない? この家、頻繁に誰か来てるでしょ」




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