第73話 体調不良とインターホン

「……マジか」


 藤堂の誘いで大会への参加を決めてから、翌朝のこと。

 体温計を眺めながら、俺は溜息とともに呟いた。

 ──38.2度。

 明らかに体調を崩している。

 その事を自覚した途端、先程よりも数倍しんどい気持ちに襲われる。

 珍しくアラームが鳴る前に目覚めた時から、嫌な予感はしていた。昨日はオンデマンドで今話題のアニメをひたすら観続けて、就寝したのは深夜の三時。

 それなのに七時に目覚めるのは、多くの睡眠時間を欲する俺にとっては珍しいことだった。

 クラクラとした頭を何とか垂直に保ちながら、視線を時計に送る。

 時刻は七時二十分。今日の講義は二時限目からなので、家から出るまではまだ二時間ほど猶予がある。


「……いやいや、普通は寝るだろ、無理だろこれは……」


 自分の思考に弱々しくつっこんでから、俺はベッドに倒れ込んだ。

 今日は初回の講義が三つ予定されているが、出席できそうにない。それどころかこの熱だと、明日も大学に行けるか怪しいところだ。

 幸い、春休みが終わった初週から出席点を取る講義は少ない。まだ学生の履修登録期間も終わっていないのがその理由だ。

 とはいえ、ノートを取れなくなることには変わらない。

 三年生に進級し、なるべく出席しようと思った矢先の体調不良。

 ついていないな、と思いながら、俺はスマホに指を走らせた。送信先は彩華だ。


『悪い、熱出た。ノート取ってくださいお願いします』


 ……送信したが、信じてもらえるだろうか。

 文面だけだと、今までのようにただ二度寝したいだけだと思われても不思議ではない。日頃の行いのツケだが、何とか信じてもらいたい。

 俺はスマホを枕の横に置くと、ゆっくりとベッドに寝転がる。

 熱を自覚してから横になると、重力が何倍にもなったかのような錯覚に陥ってしまう。

 一人暮らしは良いところが沢山あって性にも合っている。

 だが、体調を崩した時は別だ。


「しんどい……」


 口から漏れ出た言葉が耳に届く。嗄れた声は、自分のものじゃないみたいだった。

 ──春に体調を崩すなんて、初めてかもしれないな。

 ボーッとした頭でそんなことを考えてから、俺は意識を手放した。


 ◇◆


 目が覚めると、身体の怠さに加えて頭痛が始まっていた。

 そこまで酷いものではなかったが、辛さが増したことには変わりない。

 喉の渇きを潤す為に、俺はゆっくりと上体を起こす。

 体力的にはもう一度横になりたいが、熱を出した病人にとって水分補給は死活問題だ。

 俺はのろのろと冷蔵庫へ向かって、やっとの事で扉を開ける。


「……マジかよ………」


 冷蔵庫には、二リットルペットボトルが一本。だがそこに入っている水は、せいぜい二、三口分しか残っていない。

 奥に置いてある缶ビール数本が見えたが、この体調で酒など論外だ。

 水道水を飲めば済む話なのだが、美味しく飲むには沸騰させたり冷やしたりと手間が掛かる。

 だからといって最寄りのコンビニへ買いに行くのは、体調を考慮するとかなり厳しい。

 ……結局水道水をそのまま飲むのが、一番楽だ。

 衛生的に心配だと、今まで何となく避けてきた。だがもう、そんなことは言っていられない。

 コップに水を注ぎ、口に運ぶ。

 恐れていたほどの不味さは感じず、温い水に喉を鳴らしていく。

 ……やはり冷水を飲んだ時の心地に比べれば、遥か下の感想を抱かずにはいられない。

 ──贅沢は言ってられないけどな。 

 冷凍庫を確認した俺は、深い溜息を吐いた。

 すぐに食べることができそうな食品は殆ど入っておらず、夕方には外へ出て買い出しに行かなければならないだろう。この体調では些か億劫なことだ。

 そんなことを考えていた時だった。


 ピンポーン。


 インターホンの音に反応し、俺は玄関に視線を投げる。

 今日志乃原は一限目から全学部共通の講義に参加すると言っていた。

 だからといって、宅配を頼んだ覚えもない。

 これで何かのセールスマンだったらどうしてくれようかと思いながら、俺は玄関に足を運ぶ。

 弱った力でドアを開くと、俺はギョッと退いた。


「おはよ。随分な反応じゃない」


 眼前に立っていたのは彩華だった。

 俺の反応に、顔を顰めて不満げにしている。


「なんでここに」

「熱出したって言ったのはあんたでしょ?」


 彩華はそう言って、肘に掛けたスーパー袋を見せてきた。

 中には少しの食材や、ゼリー、水などが入っている。


「中に入れてくれる? これ、意外と重いの」

「あ、ああ。いやちょっと待て、汚いかも──」


 俺はそう言ってから、踵を返す。

 彩華を家に入れたことなど数回程度しか記憶にない。

 その数回も玄関先までだったり、部屋に入る時は事前に約束していたりと、まだ綺麗な部屋しか見せたことがないのだ。

 最近は掃除が行き届いているはずだが、綺麗な部屋で見栄を張りたいという気持ちが残っていたため、念のため確認する。


「へえ、綺麗にしてるのね」

「うおあ!?」


 真後ろから声がして、俺は身体をくの字に曲げた。

 瞬間、片足がもつれて、身体が傾く。


「ちょっと!」


 彩華が俺の転倒を防ごうと、首の後ろを腕で支える。だが、男と女だ。体重差により、結局二人ともベッドに倒れた。

 俺が下で、彩華が上。

 どう重力が働いたらこんな体勢になるのだろうか。自分でも不思議で仕方ない。


「……ねえ。これ普通逆じゃない?」

「……だよな。俺も今そう思った」


 傍から見れば押し倒されているような絵面に、俺は口元をひくつかせる。

 目と鼻の先にある彩華の顔立ちも、こんなにも至近距離で眺めることも早々ない。

 長い睫毛がしっとりと濡れているような錯覚を覚えて、ドキリとする。


「見過ぎよ」


 そう言って、彩華は俺から離れて立ち上がった。


「あんな近い距離で見るなっていうのが無理な話だ」

「それもそうね」


 彩華はあっさりと同意すると、キッチンへと向かう。

 吊り棚を開けて、中身を覗き見る。

 後ろ姿だけでも、彩華のスタイルの良さは伝わってくる。だが今は体調が悪いということもあり、温泉旅行の時のような雑念は降ってこない。

 それよりも、心身が弱った状況下に彩華がいるという安堵感の方が強い。

 家に招く機会は殆ど無かったのに、そうした感情を抱くのは今までの積み重ねがあるからに他ならない。


「……来てくれてありがとう」


 俺がポツリと呟くと、彩華がくるりと振り返った。

 後ろ髪をヘアゴムで束ねながら、小さく笑う。


「最初からそう言いなさい」


 ……確かにな。

 人の顔を見た第一声が「なんでここに」じゃ、不満な顔をされるのは当然だ。

 彩華が何かを料理してくれている音を聞きながら、俺は静かに目を閉じた。




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