第70話 新しい日常①

 二時限目の講義が終わろうとしている。

 余程人気のない講義なのか、全学部が共通で取得することのできる単位だというのに、学生は四十人程しかいない。

 出席点が無いというのも関係しているかもしれないが、二百人は入るであろう講義室は些か閑散とした印象を受ける。

 髪が寂しくなってきた教授の、念仏のような講義に何とか食らい付いているのは出席している学生の半数もいなそうだ。

 俺もノートだけは取っておきながら、スマホでネットサーフィンを繰り返している。

 普段は閲覧しないようなネット記事も、講義中に読めば面白く感じるのは何故だろう。


『先輩、食堂で席取っておきました!』


 志乃原からの通知が届いて、俺はスクロールする指を止めた。

 昼休みになると学内は一気に人で溢れ返り、食堂の席を探すのには苦労を要する。

 そんな訳で席を取ってくれることはとてもありがたいのだが、タイミングが悪かった。

 今日の昼休みは藤堂との約束があり、既に了承していたのだ。

 久しぶりに藤堂と昼飯を食べるのは割と楽しみなので、俺は迷わず指を動かす。


『ごめん、今日先約がある』


 送信すると、瞬時に返事が届く。


『待ってまーす!』


 メッセージとともに、一枚の写真が届いた。

 中身を確認した俺は、思わず小さく息を吐く。

 文脈のおかしい返事だったからではない。

 志乃原の自撮りの横に、カメラに向かってピースをする藤堂の姿があったからだ。


「行くしかないってことね……」


 サークル以外の場所で、志乃原と藤堂の三人で話すのは初めてかもしれない。

 教授から講義終了の旨が伝えられるとともに、俺は腰を上げて食堂へと向かった。


 ◇◆


 案の定、食堂は人でごった返していた。

 俺の通う大学では、昼ご飯を食べる場所は食堂だけではなく、学内レストランやカフェテリアやオープンテラス、コンビニなど多岐に渡る。

 それでもこの食堂に人が集まり続ける理由は、ワンコインでお腹が膨れるまで食べることができる価格帯の低さだろう。

 メニューも豊富でバランスの良い食事が取れるため、学生とってはありがたい施設なのだ。

 俺のような一人暮らしで自炊もしない人なら尚のこと。

 レストランやカフェテリアなどでは、どうしても偏った食事をしてしまいたくなるので、誰かからの誘いがない限りはあまり行かないようにしている。

 一日の中で最もまともな食事は、この食堂で賄えるといってもいい。

 そんな一人暮らしの味方である食堂を彷徨っていると、やっと目的の人物を視認できた。

 藤堂が俺に向かって手を振っている。

 近付いていくと、藤堂は目鼻立ちの整った顔をくしゃりとさせて笑った。


「よっす悠。先週振りか?」

「だな。どんな髪色でも似合ってて羨ましいわ」


 藤堂の髪は暗めのブラウンから黒へと変わっていて、人工的な光沢が目立っている。

 美容院で染めた黒髪は、天然のそれとはまた違った印象を受ける。


「久しぶりに黒に戻したけど、良いもんだな。どんな服にも合うしさ」

「そんなもんか。染めたことないからなー、俺」

「悠も一回くらい染めてみれば? 就職先によっては、もう染める機会なんてないかもしれないし」

「就職とか考えたくねー……」

「そろそろそういう時期じゃん、俺らもさ。で、どうよ。髪染める?」


 最近、就職後のことを考える時間は以前よりも増えてきている。大学三年生になったこともあり、これからもっと増えていくに違いない。

 現実逃避ばかりしていたが、社会人になる時はすぐそこまで迫っている。今までの人生の殆どを学生という身分で過ごしてきた俺にとって、それは未知の世界だ。

 特にやりたい事が見つかっていない状態で社会に飛び込むことは、恐怖そのものだといえる。

 だからといって、留年をしようという考えまで振り切ることもできない。

 残りほんの僅かとなったこの学生生活。この期間しかできないことへ挑戦するのは、ある意味貴重な人生経験といえるかもしれない。


「まあ、考えてみるわ」

「おお、意外な返答。てっきり二つ返事で断るかと思ったわ。誰かから影響されたみたいだな」


 ……お前だよ。

 俺はそんな言葉を飲み込んで、辺りを見渡す。


「志乃原はどこだ?」


 俺はそう言って、視線を藤堂の隣の席へと送った。

 テーブルには志乃原の鞄が置いてあるものの、当人の姿はない。


「学食を買いに並んでる。長い列だし、戻ってくるまではもう少し掛かるかもな」

「そうか。で、なんで志乃原もいるんだ? てっきり今日は俺とお前だけだと」


 俺はトートバッグを椅子に引っ掛けて、藤堂の正面の席に腰を下ろす。

 一息吐いて視線を上げると、藤堂がニヤニヤしながらこちらを眺めていた。


「そっか、ついにお前も志乃原さんを意識するようになったのか」

「ちげーよ。普通の質問だっつの」


 俺が口を尖らせる。

 唐突に後ろから、大きな声がした。


「ばあっ!」

「うお!?」


 勢いよく振り返ると、小悪魔後輩の登場だ。

 危うく両手に持つお盆にひじが当たってしまうところだ。


「あ、危ないだろ!」

「えーん怒られちゃいましたぁ」


 志乃原はわざとらしい泣き真似をしながら、お盆を隣の席に置く。

 藤堂の隣に置いてあった鞄をこちらに引き寄せて、俺の隣へ腰掛けた。


「ここで何してるんですか先輩」

「お前が呼び出したんだろーが!」

「えへへー」

「こ、こいつ……」


 思わず大きく息を吐く。

 別に全く怒っていないが、フリだけでもしてみたら志乃原はどういった対応をしてくるのだろう。

 不意に気になったが、そんなことで怒るほど器の小さい人間だと思われる方が不本意だ。


「場所取っとくので、先輩たちもご飯並んできていいですよ」

「それはありがたいけどな」


 俺が釈然としないような態度をすると、志乃原は嬉しそうに口元を緩める。なんで嬉しそうなんだよ。


「ほら悠、行くぞ。今からますますあの列長くなりそうだ」


 藤堂は腰を上げて、列の最後尾を指差す。

 数秒見ないうちに三人ほど増えており、受け取り口まで続いている。


「だな。行くか」

「ちゃんと栄養取れるやつ選んでくださいね」

「分かってるよ、その為の食堂だからな」


 横から挟まれた忠告に軽く笑ってみせて、俺は藤堂と長蛇の列へ向かう。

 後ろから「今日は野菜炒めがオススメですよー!」という声が追い掛けてきて、横にいる藤堂がくつくつと笑った。

 


───────────────────────


2巻に引き続き、1巻の重版も決定致しました。

皆様応援のお陰です、ありがとうございます!

3巻は11月1日発売。

既刊よりも更にパワーアップしていますので、ぜひよろしくお願いします!


Web版の更新も少しずつ再開です。

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