第67話 志乃原の一人暮らし事情

 雪豹のキーホルダーが付いた鍵で、自宅の扉を開く。

 こじんまりとした玄関先で靴を脱ぎ、部屋へ進むと後ろの声が引き留めた。


「先輩、靴揃えないと」

「あ、わりぃ」


 踵を返し、靴を部屋側へ揃える。

 他人の家なら靴を揃えるのは最低限のマナーだが、自宅となるとついサボってしまう。


「よくできました!」

「このくらいで言われてもな」


 ニヘラと笑う志乃原に、苦笑いで応えた。

 俺が揃えないと、志乃原が代わりに揃えてしまう。

 この後輩は基本的に俺がやらない家事を担ってくれるので、簡単なことくらいは自分でやらなければ申し訳ない。

 たとえ本人が「好きでやっていますから!」と主張していたとしてもだ。

 ……眠気がある時は話は別だが。


「先輩早く進んでくださいっ」

「言われなくてもー」


 背中を軽く押されながら部屋へ入る。

 自室へ志乃原のようなテンションで入るのは、些か難しい。


「まだ夕方ですし楽しいことしましょうよ」

「お前、それ家に帰ってから言うなよ。外だといくらでも遊ぶ場所あったのに」

「だっからー、家じゃないとできないことをしましょうよって意味ですよ! 察しの悪い先輩!」

「いきなりあたりキツくない!?」

「んなこたぁないです。さあさ、一緒に料理しますよ先輩」


 志乃原はアウターをハンガーに掛けて、腕を捲る。

 唐突な誘いに戸惑いつつ、確かに時間はあるしと俺もそれに倣う。

 冷蔵庫を覗くと、志乃原の買い溜めた食材がちらほらと見受けられた。


「今から何作んの?」


 俺の質問に、志乃原は口角を上げた。


「豚の生姜焼きを肴に宅飲みしましょう!」

「お前未成年だろーが」

「家なら年齢確認もないじゃないですかー!」


 志乃原がむくれて抗議してくる。


「そういう問題じゃないだろ。法律だよ法律」


 まあ実際、大学一、二年生で飲酒を嗜んでいる学生なんて山程いる。

 それが先代から脈々と受け継がれている文化だということも分かっている。

 だから俺が自宅で志乃原に飲酒をしてほしくないのは、もっと別の理由だ。


「……な、なんですかいきなり見つめちゃって」


 少し恥じらうように目を逸らす志乃原は、やはり抜群に可愛い。

 合コンに呼ぼうものなら男子は真っ先に志乃原という頂を目指し、そして撃沈していくことだろう。

 そんな志乃原と二人きりで酒を飲むのは、少々キツいものがある。

 俺にだって──理性を抑えるのに苦労する時もあるのだ。

 酒というものは人が築き上げた理性という障壁を脆くしてしまう代物だ。欲のままに行動することもまた人の側面であり、時には理性を捨てた方が物事が良い方に転ぶこともあるだろう。

 だが今は違う。信頼を裏切る結果に繋がることが分かっている。

 年上の俺がそれを許容する訳にはいかない。


「飲まねえぞ」

「……ぶぁーい」


 不服全開という表情で志乃原は返事をする。

 あまりにも不服そうだったので、冷蔵庫を開きながら言葉を付け足した。


「お前が二十歳になったらいくらでも付き合ってやるから」


 断る理由が無くなるので、付き合うしかなくなるというのが正確だが。

 この小悪魔の誕生日は来年で、まだ時間もある。問題の先送りというやつだ。


「そんなのめっちゃ先じゃないですかー。まぁ我慢しますけどぉ」

「はは、偉いぞ〜」

「このくらいで言われても……」


 志乃原は先程の俺と全く同じ反応をした後、続けて言った。


「じゃあ頭の一つでも撫でてください」

「えー……」

「なっ、なんで面倒そうにするんですか!? 他の男子なら速攻きますからね絶対! ぜーったい!」

「お前普段そういう男子に撫でろなんて言わねえだろ」

「そうですけどそういうことじゃなくてー!」


 俺が顔を顰めると、志乃原はベッドに飛び込んで足をバタバタとさせた。

 志乃原がいつも部屋を綺麗にしてくれるお陰で埃は全く舞わない。

 何日間も家を空けない限り、この状態は保たれたままだ。

 家事の面では、本当に世話になっている。

 俺たちが知り合って数ヶ月が経ったが、志乃原は変わらずこの家に通い詰めている。

 志乃原が次の誕生日を迎える頃には、俺たちの仲はどうなっているのだろう。

 付き合いは数ヶ月程度でも、一緒に過ごす時間は長く、密度は他の人と比べても濃い。

 これが他の人ならば、何かしらの大きな変化があっても不思議ではないと思う。

 例えば、元カノである礼奈。

 実際俺と礼奈の関係が大きく変わるのには、長い時間を要さなかった。

 だが俺と志乃原の仲に大きな変異は起こり難いのではないかと、最近思う。

 人間関係など水物なので確証などどこにも無いが、初めて志乃原が家に泊まった時に感じたことだ。

 正確には、信頼関係であることと踏み込んだ話をすることは別問題だということを話し合った時。

 あれ以来俺は、志乃原に何も話していない。

 あれ以来志乃原も、俺に話さない。

 俺たちは互いが引いた境界線を越えることなく、仲良く歩みを進めている。

 互いがこの線を越えてこないと信頼しているからこそ、変異し難い。

 俺たちが関係を変えることを望まない限り──


「後輩アタック!」

「ブヘエ!?」


 枕が顔面に直撃し、俺は間抜けな声を出した。

 足の甲に、枕が落ちる感覚が伝わる。


「ねえ先輩、今度また泊まっていいですか?」

「なんでお前今の流れで普通に頼めるの? 思考回路どうなってんの?」

「あはは、やだぁ先輩ミステリアスだなんてー」

「都合の良い解釈してんじゃねえ! 今の恨み絶対晴らしてやるからな。寝たら二度と目を覚ませると思うなよ」

「せ、先輩が壊れた……」

「お前が引いてんじゃねえよ!」


 足の甲に乗っている枕を蹴り上げて、俺はキッチンに向かう。

 あの後輩の相手をしていては疲労困憊になってしまいそうだ。


「じゃ、今度お泊りするのは決定ってことで」


 隣に引っ付いてきた志乃原が、嬉しそうにはにかんだ。


「なんでそんな嬉しそうなんだよ」

「えー、だって久しぶりですしっ」


 お泊りなんて何度もしただろうと思いかけたが、そういえば志乃原がいつもベッドで寝ている時間帯はお昼時だった。

 そう考えると、志乃原の頼みは一応俺の反応をきちんと窺っていたのだろう。

 嫌そうな反応を見せれば、志乃原はまたいつものようにゴネた後、断られたのとを無かったかのように振る舞う。

 そして今回は断れなかったから、嬉しがっている。

 単純な話だが、無性に気恥ずかしくなってしまい、誤魔化すように壁掛け棚を開く。

 中には調理器具など入ってるはずだったが、見当たらない。


「料理する物ならこっちですよ」


 志乃原が下に位置する収納棚を開けると、沢山の調理器具が並んでいた。俺が見覚えのない物もいくつか混ざっていて、思わず目を見張る。


「上にあると取りづらいので、下の収納棚に移動させちゃいました」

「それはありがたいんだけど、なんか増えてる」

「料理するにあたって欲しいなーってやつ足しちゃいました。まあ、それも随分前の話ですけど」


 志乃原が呆れたような笑みを浮かべながら言った。


「先輩が一人の時全然キッチンの前に立ってないことは、よーく分かりました」

「仕方ないだろ、自分で作ったやつよりコンビニ弁当のが旨いんだもの」


 コンビニ弁当を毎日食べることは避けた方が無難とされているが、志乃原が高頻度で家に来てくれて、たまに作り置きもしてくれるような状況だと話は別だ。

 最近の俺は以前に比べてすこぶる健康体だと自負している。


「面倒なだけですよね?」

「それも否めない」


 俺の返答を聞くと、志乃原はブスッと口をすぼめた。

 咄嗟に出た言葉だったが、素直にお礼を言った方が良かったかもしれない。


「そんな面倒くさがり屋の先輩が、キッチンなんかに何の用ですかー」

「一緒に豚の生姜焼き作ろうと思って。酒は飲まないけど、付き合えよ」


 この場でお礼を言うのがどうにも気恥ずかしく、俺はぶっきらぼうに志乃原を誘う。

 これで機嫌は戻るだろうかと志乃原を横目に見ると、パチリと視線が合った。


「素直じゃないですねっ」

「うっせ」

「ふふっ、はーい」


 志乃原はニコリとはにかんだ後、慣れた手つきで調理器具や食材をカウンターに置いていく。

 一緒にいる時間が積み重なってきたおかげだろうか。

 最近、志乃原は俺の本意をすぐに察することが増えた。

 俺が分かりやすい性格をしているのか、志乃原が聡いのか。

 恐らくどちらもだろうなと、息を吐く。

 両方とも認めるのは癪なので、口には出さない。


 ──それでもまあ、悪い気分ではない。


 自分を理解される心地よさに少しだけ浸ってから、俺は料理を手伝うために冷凍庫を開ける。

 中から取り出した豚肉は、消費期限の当日だった。

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