第64話 小悪魔との関係性

 ラーメンを食べ終わった後、俺は真っ直ぐ帰宅した。

 それなのに目の前には、何故か志乃原が寝転がっている。

 いつも通り寛ぎ始めようとしている様子に、俺は思わず声を掛けた。


「なんで付いてきてんだよ」

「ひどっ!」


 志乃原は読もうとしていた漫画をパタリと閉じる。


「那月と先に予定組んでたんだろ? 普通那月のとこに行くだろ」

「那月さんとはいつでもご飯行けますもーん」

「俺の家にもいつでも来れるじゃねえか」


 そう言うと、志乃原はチッチと指を振った。


「分かってないですね先輩。今日という日は、人生一度きりなんですよ? 貴重な一日を自分の欲求に費やしたいと思うのが自然ってもんです」

「はあ、なるほど」

「流すなー!」


 手足をバタバタとさせて不満を表す後輩に、俺は冷蔵庫から取ってきた野菜ジュースを渡す。

 俺もストローに口を咥えて、一気に喉に流し込んだ。

 不摂生な食事をした身体に、栄養分が染み込んでいく感覚。

 いくらか気は紛れて、俺は息を吐いた。


「やっぱり先輩の家はいいですねー」

「そうか?」


 二人で過ごす分には問題ないが、決して広くはない部屋だ。

 社会人になったら、一人暮らしでも1LDKの部屋を借りたいと思っている。

 家で過ごす時間が好きな俺にとって、この部屋はあまり満足のいくものではない。


「いいですよ。部屋も綺麗だし」

「それはお前のおかげだけどな」

「確かに。でも、もっと良い理由があるんですよ」

「なに?」


 志乃原は仰向けになってから、顔を俺の方へ向けた。


「先輩が同じ空間で寛いでるからですっ」


 ……こんな言葉、本気で受け止めてはキリが無い。

 俺と志乃原の関係性は彩華のそれとは違い、俺が志乃原の言葉を本気にしないことによって保たれている、不思議なものだ。

 だからこそ、いつもならこうした類の発言は軽く流していたのだが。

 先ほど那月に好かれていないことを察した俺には、好意からくる発言がいつも以上に嬉しく感じた。


 ──確かに、贅沢者だな。


「いつもありがとな」

「……どしたんです? 先輩」


 志乃原は上体を起こして、漫画をベッドの上に置く。

 本棚から出したものは本棚に戻せよという、特大ブーメランを投げようとした時。

 何かを察したのか、先に志乃原が口を開いた。


「一つ言っときますね」

「ん?」

「私、先輩といる時間の方が楽しいですから」

「……だから来たってさっきも聞いたけど」

「なんかナイーブな雰囲気出てたからもう一回言ったんですよ! 冷静に返事とかしないで、もう少し感情的な言葉くださいよ!」


 志乃原は「ほんといつも冷静ー」と言いながら、冷蔵庫へと歩いていく。

 那月といる時より、俺といる時間の方が楽しいから優先した。

 それが本音であることは、今志乃原が自宅にいることが証明している。

 だからこそ、俺は考えてしまう。

 一体自分の何が、志乃原に好かれる要因になっているのだろうと。

 志乃原は冷蔵庫の中を覗くと、食材は何も入っていなかったようで、盛大に溜息を吐いた。

 俺はそれまでの思考を一旦他所に置いて、後輩に言葉を投げた。


「溜息吐くな。仕方ないだろ」

「仕方ないんですかぁ、これ」


 志乃原が家に来ない間の俺は大抵コンビニ弁当、カップラーメンでお腹を満たす。

 自炊をした方が身体にも経済的にも優しいことなど百も承知だが、最近は特に中々やる気になれなかったのだ。

 本当に一人暮らしをしていたら、親への有り難みをヒシヒシと感じる。

 そして、家事をしてくれる存在にも。


「でも先輩。私がちょっと来ない間に買い溜めしてくれてたら、こういう時に夜食作ってあげられるんですよ?」

「……まじかよ、買っとけばよかった。でも冷凍庫にはアイスあるぞ」

「寒くなるんで大丈夫でーす」


 志乃原は断ると、クッションに頭を預けて横になった。

 いつも通り随分と気を許している後輩の様子に、認めたくはないが若干微笑ましい気持ちになる。


「先輩、明日朝ごはん作りにきてあげましょうか?」

「頼んでいいの?」

「はい、一緒に朝ごはん食べたいです!」


 那月にも見せていなかった、屈託のない笑顔。

 好意を前面に出すような発言。

 それをいざ自分に向けられると真っ直ぐ受け止められず、答えの出ない無為な思考に逃げてしまう。

 この後輩を前にしたら実感することがある。

 ──好意を受け止めるのにも、器量が必要なのだということ。

 俺にはそれが足りず、だからこそ志乃原は安心して俺の家で寛げる。


「……なっさけねー」

「え? 朝ごはん食べたいのに理由っていります?」

「そうじゃねえよ!」

「いきなり情けないとか呟かれても分かんないですもん!」

「そ、それはゴメン」


 ごもっともな主張に謝罪しながら、俺はまた考えを巡らせた。

 彩華と深い関係になる過程には"きっかけ"と呼べる出来事はあった。

 だからこそ彩華との関係は俺の中で納得するものになっていて、心底心地の良いものになっている。

 だが、志乃原との間に、彩華の時とのような出来事は存在しない。

 親友になるための劇的な出来事や、恋仲になる為の告白という儀式もなく、ただ懐かれている。

 こんなにも仲良くなっているのに、理由が分からない。

 だから、戸惑っているのかもしれない。

 この考えがどれだけ無駄で、どれだけつまらないものだと自覚していても、無意識に考えが過ってしまう。


 ──なんでいつも俺と一緒にいるんだろうと。


「志乃原って那月と仲良かったんだな」

「はい、バイトではかなり仲良かったですよ」

「なんで仲良いのか、分かる?」


 志乃原は俺の質問の意図が理解できないようで、小首を傾げた。


「仲良くするのに理由って必要なんですかね?」

「……普通の仲だと、俺もそんなこと考えたりしないけど。特別仲良い人に関しては、考えることあるんだよな」


 それが志乃原のことだという明言は避ける。

 志乃原は一瞬だけ考える仕草を見せてから、口を開いた。


「うーん。那月さんと仲良くしてるのは、なんでしょう。可愛いからですかね」

「へ?」

「……なんですか、そのコイツ正気か、みたいな顔」


 志乃原はジト目をしてから、体育館座りをする。

 そしてゆらゆらと身体を揺らしながら、低めの天井を見上げた。


「今日、那月さんいつもより若干ピリついてたんですよね」

「そうなんだ」

「バイト先にお客さんが大量に来た時も、那月さんってピリつく時があったんです。仕事が遅い、他のバイトの人に。決して口には出さないんですけど、仲の良い私にはそれが伝わってくるくらいのレベルで」

「へえ……」

「私、ぶっちゃけて言うとそういう感情的な人嫌いなんですよね」

「へぁ!?」


 変な声が出た。

 苦手なんてオブラートな言葉で包みさえせず、嫌いと言った。

 そんな反応を見せた俺に、志乃原は慌てたように手を振った。


「あ、勘違いしないでください。感情的な人が嫌いってだけで、それは那月さんを嫌うことには繋がりません。あくまで赤の他人がそうだったら関わりたくないなーってだけです」

「じゃあなんで那月とは仲良くしてんの?」

「仲良くなった後にそういう人なんだなって分かったからですね。一度仲良しになったら、そういう苦手な部分も面白く見えてくること、先輩にもありませんか?」


 ……確かに、あるかもしれない。

 志乃原がまさにその例に当てはまる。

 俺は自宅というプライベートの空間にズケズケと押し入る人間が苦手だ。

 自分のペースや、ルーティンが他人に乱されることが酷く億劫に感じて、許容することが難しい。

 だが、志乃原には嫌だとはあまり感じない。

 それは志乃原の言う通り、一度仲良くなった後にそういう一面があることが分かったから。

 関係の深さが俺の築いていた壁を破ってきたからに他ならない。

 そして一度許容すれば、その関係を継続していくことは難しくない。

 今の志乃原との関係が、その発言を肯定している。


「……そうかもな」


 言葉を返すと、志乃原は満足気に頷いた。


「私、一度仲良くなった人とは、ずっと仲良くしたいんです」

「元坂は?」


 茶化したような質問に、志乃原は口を尖らせた。


「アレは向こうが先に裏切ったからです。そんな人を一途に想い続けるほど、私お人好しじゃないんで」


 悪意には悪意を。

 分かりやすく、そしてどこか掴み所のない性格。


「私も訊きたいことあるんですけど、いいですか」


 思い出したかのような口振りに、俺は「ん?」と短く返事をする。


「先輩って、彩華先輩のこと好きなんですか?」

「ブッ」


 唐突な質問に、思わず吹き出した。

 志乃原が驚いたように立ち上がる。


「えぇ!? ほ、ほんとに好きなんですか!?」

「ち、違えよ! 確かに仲は良いけど、恋愛面のそういう気持ちはない!」

「でも、……だとしたら、先輩も結構変な人ですよね。だって、彩華先輩、めっちゃ綺麗じゃないですか。正直、綺麗さだったらあの人の右に出る人あんまりいないと思うんですよね」


 それは本当に俺も思っている。

 高校からずっと一緒にいるというのに、未だにドキッとしてしまうことがあるからだ。

 あいつが不意に見せる女性らしさに一切高揚しない男がいたら、ぜひ紹介してほしいものである。

 彩華のスペックを認めざるを得ない俺は、志乃原の言葉には素直に頷くしかなかった。


「かもなぁ」

「……まあ可愛さなら私の方が上ですけど!」

「なんで張り合ってんだよ!」

「先輩が彩華先輩のことを認めるのは何か腹立つからです!」


 志乃原はプイッと顔を逸らし、腕を組んだ。

 二人の仲は何も改善されていないことは、今日の邂逅で伝わってくる。

 理由を訊いても、恐らく志乃原は何も言わないだろう。

 彩華もいずれ話すと言っていたが、まだその言葉に従う様子はない。

 ……まぁ、特に焦る必要はない。

 二人の仲が悪くても、俺個人との付き合い方は、何ら影響がないのだから。


「で、彩華先輩のことは置いといて。先輩は結局、何が言いたかったんですか?」


 俺は答えようか迷った挙句、かぶりを振った。


「……分かんね」


 なんで俺と仲良くしているのかなんて質問をしようと思ったのは、ただの気の迷い。

 それだけのはずだ。

 はぐらかすと、志乃原は苦笑いで応えた。


「なんですかソレー」


 志乃原が横になる姿を眺めながら、漠然と思う。

 俺が知りたかったことを言葉にして訊いていたら、この関係は少し変わっていたかもしれないと。

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