第58話 那月の提言

 いつも──というほど、那月と過ごした時間は長くないが。

 それでも、那月の雰囲気はこれまでのものと違って思えた。

 少なくとも、以前開催されたテストお疲れ飲み会の時とは違う。


「……どうした?」

「どうしたんだろうね」

「なんだよそれ」


 俺は軽く笑って鞄を背負うと、那月はおもむろに口を開いた。


「でしょ? 言われなきゃ分からないでしょ」

「あぁ、分からないな」

「さっき筆箱忘れた時、どう思った?」


 この質問で、話の流れが大体分かった。

 どういう意図でこの話をしているのかは不明だが。


「困ったと思ったよ」

「ペン借りたいとは思わなかったの?」

「……若干思ったかも」


 那月は息を吐いて、ペンを俺に見せた。


「私は、言われたら貸すよ? でも、言われなきゃ貸さない」


 そう言って那月はペンを再び筆箱に戻し、鞄にしまい込む。

 席から立って、俺の反対側の通路に身を出した。


「みんながみんな、彩ちゃんみたいな完璧人間だと思っちゃダメだから」


 小さな声は、確かにそう聞こえた。

 ──なんでそこに彩華が出てくるんだ。


 気付けば、那月は入り口の人混みの中にいた。

 去り際の言葉が、脳裏に反響する。


「どうしたの?」


 後ろから声を掛けられて振り向くと、彩華が怪訝な表情で俺を見ていた。


「あの子になんか言われたの?」

「え?」

「ぼーっと立っちゃって。丸分かりよ」


 彩華はそう言って、俺が座っていた席の後ろに座った。


「その話をするか、お昼ご飯食べるか。どっちにする?」

「……ご飯」

「うん、わかった」


 腰を上げて、彩華は口角を上げる。

 何かあったことを瞬時に察知し、俺の気持ちにも配慮する。

 ──確かに、完璧に見える。

 彩華の反応で、俺は那月が何を言わんとしていたかを察することができた。


「なあ、なんでお前って俺のことこんなに分かんの?」

「何よ急に。あんたも私のこと分かってるじゃない。それと同じよ」


 ……俺は彩華ほど、気配りができた覚えはないが。

 付き合ってきた年月と、時間の濃さが互いにそうさせてるのかもしれない。

 周りからすれば、俺も彩華に対して気配り上手に見えるたりするのだろうか。


「俺たちって完璧な仲かなあ」

「完璧ね。今から私は奢られるわけだし」

「へ?」

「私に講義二つ分ノート取らせたんだから、明日までお昼奢ってね。素晴らしい関係だと思うわ、これ」

「ああ、ある意味完璧かもしれない……」


 俺は財布を取り出して、通路に足を踏み出す。

 彩華は口元を緩めて、「今日なに食べる?」と訊いてくる。

 いつもの日常で、幸せな日常。

 大学生活が総じて良いものだと言えるのは、確かに周りの人のお陰だ。

 たとえそんな日常が、俺を駄目にしているのだとしても。

 那月の提言で、そう思った。


 ◇◆


「うーん、やっぱ安い割に美味しいわよね」


 彩華は食堂でカレーを頬張りながら言った。

 テラスやその他お洒落なスペースは、短時間で人が埋まる。

 そんな訳で、講義終わりに五分程度ロスした俺たちは、安くて美味い食堂に来ている。

 この食堂が一番安く、そして広い。

 それでもあと二、三分到着するのが遅かったら二人で座る場所を見つけるのに苦労していただろうから、いかに人が多いのかが分かる。

 改めて、大学は高校と規模が違うと感じる。


「ラーメン美味しい」

「……麺伸びまくってるけど大丈夫?」

「んー」


 俺はソシャゲのガチャを引きながら、麺を啜る。


「げっ外れた」

「聞いてんの?」

「聞いてるよ。案外美味いよ、食う?」

「遠慮しとく。ここじゃ目立つし」


 食堂でなければ食べていたということだろうか。

 俺はチャーシューを口内に放り込み、スープを飲んだ。


「そういや、ゼミいつから始まるんだっけ?」


 彩華の問いに、俺は一旦お箸を置いて答える。


「再来週からとかじゃなかった? 確か一回目が休講になってたはず」


 俺の学部では、一年毎にゼミに入ることが推奨されている。

 去年行われた面接をクリアし、俺と彩華は同じゼミに入ることが決まっていた。

 一年間に取得できる単位数が決まっている中で、ゼミは特別枠としてその制限下には入らない。

 だから早く卒業単位を満たしたい人はゼミに入るのが通例だ。

 ゼミはサークル以外に人との関係を構築できる集まりでもあるので、交友関係を広めたいという目的で入る人もいる。

 高校のクラスのように当たり外れはあるものの、俺もあのコミュニティは嫌いじゃなかった。


「へー、助かった。今週から忙しいから課題のある講義があると嫌なのよね」

「何かあんの?」


 俺が訊くと、彩華は苦笑いした。


「あんたもあるでしょ。サークルの新歓よ」

「ああ……」


 言えない。いつも活動に参加するだけで、運営側に回ったことがないなんて。

 新歓とは、高校でいう仮入部みたいなもの。

 サークルの数は部活のそれと桁が違う。

 だがどのサークルも、新歓で行う内容は大抵同じ。

 それがサークル活動後に行われる、アフターと呼称される飲み会だ。

 目的は、親交を深めること。サークルによっては、一年生に一切アフターの費用を求めないところもある。

 その分上級生は多めに払うわけで、俺の財布にはそこまでのゆとりがないわけで。


「あんたも一年生の時沢山奢ってもらったんでしょうが。受けた恩は下の世代に返しなさいよ」

「わ、分かってるよ」

「ダウト」

「ぐっ……」


 正直、奢る相手が友達だったら奢り甲斐もあるのにと思ってしまう。

 まだ顔も知らないような人へ奢ることに抵抗感を覚えるだけで、仲の良い相手ならその限りじゃない。

 クリスマスシーズンの際は志乃原にだって奢ったし、彩華にも何回も奢っている。


「私が奢られてるのは大抵あんたに非がある時だけどね」

「何でさっきから俺の思考読んでんの!?」

「ただの勘よ」


 そう言って、彩華は席を立った。

 勘で思考を読まれては堪ったものじゃないが、今に始まったことでもない。

 彩華とは、高校時代から色んなことがあった。

 色んなことを乗り越えて、ここまで来た。

 だからこそ今の仲があるということは、俺にだって分かる。

 だがこの仲を実感する度に、思い出してしまいそうだ。


 ──みんながみんな、彩ちゃんみたいな完璧人間だと思っちゃダメだから。


 月見里那月の提言。

 あれが、何を意味するか。

 何が言いたかったのか、そのことを。


「あんたも来る? うちのサークルの新歓」


 ──彩華の誘い。


 だが那月の提言は、彩華といる時間を減らす理由には、到底なりはしない。

 それとこれとは、また別の問題だ。


「私今日が初めての副代表なんだけど、ちょっと心細いのよね。人手も足りないし、付いてきてくれたら何か奢ってあげようかしら」

「仕方ねえなあ!」

「はい釣れたー」


 彩華は口角を上げて、お盆を戻す為返却棚へ歩き出す。

 ただ歩みを進めるだけで様になり、他のテーブルに座る人たちの何人かが彩華を目で追う。

 そんな存在が、俺の一番の理解者だなんて。

 彩華の背中に付いて行きながら、俺は思った。


 ──そりゃずっとに一緒にいれば感覚も麻痺するわ、と。

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