第57話 最初の講義
大学まで、残り徒歩五分。
近付くにつれて志乃原のテンションは上がっていき、遂には横でぴょこぴょこと跳ねるように歩くようになった。
「今日から私は大学二年生!」
「進級おめでとう」
「先輩は三年生!」
「進級おめでとう」
そこまで言うと、志乃原は俺を見上げて口を開いた。
「返事適当すぎなんですけど!」
「逆になんでそんな高いんだよ……」
よっぽど楽しみなことが大学で待っているのだろうか。
俺も大学が始まることに対して、楽しみな気持ちもある。
だがスキップするほどのものがあるかと問われたら、ノーと言わざるを得ない。
「講義だるくねえの?」
「えー、楽しいですよ? 分からないことが分かるようになるって、良いことじゃないですか」
「ああっ眩しすぎる!」
俺は思わず両手で顔を覆って、志乃原を視界から遮断する。
俺も勉強は大嫌いというわけではないし、大学生にとって必要なことだとも重々理解はしている。
だが仮に、神様から勉強をしないでも立派な社会人として大成し、高収入を実現できるという保証を貰えたとしたら、俺は確実に勉強をしない。
志乃原は、たとえそんな状況でも喜んで講義に出席するというわけだ。
人として正しいのが志乃原だということが明確だからこそ、思わず目を逸らしてしまいたくなる存在。
「先輩が講義めんどくさいーって思うのって、一緒に講義受ける人がいないからじゃないんですか?」
「お前今すげえ失礼な発言したぞ……」
「あっすみません。無意識でした」
「フォローしろよ! 普通にいるわ!」
藤堂を始めとするサークルの友達や、同じ学部の友達。それに彩華だっている。
そうでなくては、今頃俺の単位は恐らく悲惨なことになっているはずだ。
「む。そうですね、先輩は意外と人望ありますもんね」
「意外とってなんだよ。人望はねえよ」
「あ、ないんだ……」
「その目やめろ!」
哀しそうな目をする志乃原に、思わずつっこむ。
こういう時はいじってくれた方が嬉しいものなのだ。
「でも、藤堂さんとかいるじゃないですか」
「それは別に人望とかじゃなくて、ただ友達がいるってだけだろ」
「うーん。まあ、人望への認識は人によって違うのかもですけど」
そう言って、志乃原は一歩俺の前に飛び出し、振り返った。
「私は先輩のこと、かなり良いなって思いますよ?」
「……そすか」
この言葉で何人が落ちることだろう。
俺じゃなかったらコロッといってた。
鍛えてくれた彩華に感謝だ。
おかげで俺は屍と化さずに済むのだから。
「そうですそうです。で、先輩」
志乃原はズイッと近寄り、俺を見上げる。
「確か、学年共通の講義がいくつかあったと思うんですよ。それ、一緒に受けませんか」
「ええ、嫌だ」
「えっなんで!?」
断られるとは思っていなかったのか、志乃原は目を見開いて驚く。
「お前といるとやたら目立つもの」
二年後期の試験終わりの日も、志乃原が俺の元に駆け寄るだけで色んな男子からの視線を浴びたのだ。
志乃原は彩華と違い周りに人がいても今と同じように接してくるので、男子からの視線が辛い。
プラスで捉えるのであれば裏表のない明け透けな性格なのだが、俺の過ごす大学生活上においてはあまり良いように働かないだろう。
高校二年生の時と今では明らかに状況が違うし、自分の学校生活を優先することに何の憂いもない。
「……先輩」
「んだよ」
「困った時、レジュメ見せてあげますよ」
「仕方ねえな一緒に受けるか!」
「駄目だこの先輩早くなんとかしないと……」
志乃原は頭を抱えて声を上げる。
この現金な性格を、何とかしてくれるものなら何とかしてもらいたい。
今度は小さく笑い出す志乃原を見ながら、俺はそう思った。
◇◆
志乃原と別れて、大講義室の前で俺は佇んでいる。
遅刻あるあるを言ってやろう。
大人数が入る講義室。
二限目の講義が終わるまで、残り二十分。
そんな状況下で、文系大学生はこう思う。
──これ、今から友達人数分の昼食席を取っておく方が賢いんじゃね?
例に漏れず、俺もそう思って踵を返した瞬間、スマホが震えた。
彩華だ。
『来い』
「怖えよ……」
思わずスマホから顔を離した。
一緒に受ける約束もしていなかったはずだが、いつも彩華にレジュメを借りている恩があるので断れない。
断ろうとするのも、おかしな話ではあるのだが。
俺はなるべく音を立てないように講義室の中に入ると、後ろの席の何人かがこちらを見た。
「あいつ、この時間?」とでも言いたげな瞳。
気持ちは分かる、俺も逆の立場だったらそう思うから。
この瞬間が嫌だからこそ、大遅刻した時は講義室に入りにくい。
大体彩華がいつも座っていそうな場所は決まっている。
真ん中より少し前あたりだ。
自分の席の横に鞄を置いていて、恐らく俺のために席を取っていてくれたのだろう。
二十分しかその席を使えないことに申し訳なさを感じながら、背を屈めて階段を登っていくと、彩華が俺に気付いた。
チラリと俺を見てから、無言で鞄を床に置く。
少し遠いが、せっかく席を取ってくれたのだからと近付くと、途中で袖を引かれた。
「──んっ?」
「やっほ、座りなよ」
月見里那月だ。
会うのは、バレンタインパーティ以来。
元カノ礼奈と親しげな仲ということが分かった為、どうしてもどこか身構えてしまう。
「いや、俺は……」
彩華の方を見ると、前に映し出されたパワーポイントを見ながら手をシッシと振っていた。
どうやら俺が誰かに声を掛けられたことを察したらしい。
仕方なく横に座ると、那月はクスリと笑った。
「あれ、彩ちゃんのとこ行かなくていいの?」
「お前が呼んだんだろ」
「ジョークジョーク」
「んだよそれ」
小声でやり取りしながら、鞄を漁る。
中にはノートしか入っていなかった。
「やっべ」
思わず言葉が漏れる。
那月はチラリとこちらを見てから「どうしたの?」と訊いてきた。
「いやー……言いにくいんだけど」
「うん」
「筆箱忘れた」
「え、そうなんだ」
那月は前を見ながら、口元に笑みを浮かべる。
「それで?」
「え?」
何が言いたいのか分からず、軽く戸惑う。
頭を掻いて前を向くと、パワーポイントの画面が切り替わるところだった。
まあ、彩華がいるし安心なのだが。
それでもおんぶに抱っこは申し訳ないので、次はしっかりノートを取ろうと決意する。
そこから無言で講義を聞き、時間はあっという間に過ぎた。
スライドが切り替わる度にシャッター音がどこからか聞こえ、名前も知らないこの教授はかなり緩いのだろう。
「この教授緩そうだな」
俺が言うと、那月は口元を緩めて頷いた。
「確かに緩そう。これは履修決定かな」
「俺も取るわ」
「卒業まであと何単位残ってるの?」
「四十弱とか」
そう答えたところで、チャイムが鳴る。
白紙のノートを鞄にしまったところで、那月が口を開いた。
「ねえ、悠太ってさ」
「ん?」
「周りに恵まれてるよね」
「まあ、それは思うな。自分でも」
志乃原、彩華、藤堂と、パッと思いつくだけでも凄い面子だ。
「でもなんで急に?」
訊くと、那月は首を傾げた。
緩く巻いたパーマの毛先が、静かに揺れた。
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