第56話 春休み明けの大学生活
「…………寝坊した」
枕元に置いてあるスマホを見ると、時刻は午前十時。
一限目は九時からなので、もう絶対に間に合わない。
どうやら目覚ましの設定をし忘れていたらしい。
まさか春休みボケを初日でかますとは思わなかった。
「まぁいいか……」
俺はスマホを床に投げて、寝返りを打つ。
今日は大学初日だが、出席点を取られる講義は無いはずだ。
通常一度目の講義は、履修をするかしないかを学生に定めさせる時間。
各講義の履修要項を読み込んでいた俺は既に履修する単位を決めているので、このまま寝ていても支障はきたさないはずだ。
教授の講義が自分に合いそうかどうかだけは見定めておきたかったのだが、眠気に襲われる頭ではそれも考えることができそうにない。
あっさり意識を手放そうとすると、ピンポーンとインターホンが鳴った。
「……ん」
宅配便だろうか。春休み終盤は家から出る日も少なく、本や小物などを宅配してもらう事が多かった。
幸いポストは空きがあったはずだし、居留守を使っても投函してくれるだろう。
ピンピンポーン。
──嫌な予感がする。
ピンピンピンピン
「うるせえ!!!」
俺は玄関にズンズン進み、勢い良くドアを開ける。
目の前には案の定志乃原が立っていた。
これなんてデジャブ。
「おっはー先輩、今日から大学ですね! どうせ寝坊してるだろうと思って来ちゃいました!」
「よくも俺の二度寝を邪魔してくれたな……」
「はーいどいてくださいね〜」
家主をするりと潜り抜けて、志乃原は部屋へ入っていく。
仕方なく後についていくと、段々と意識が覚醒してきた。
もう二度寝をすることはできないだろう。
「なんで二度寝できなかったからって不機嫌なんですかぁ、ここは起こしてくれて感謝すべきとこですよ」
「ああ、まあ、ありがと」
「ほんと渋々って感じですね……」
志乃原は呆れたように息を吐く。
まあ志乃原の言うことは正しくて、俺も二度寝をしたい欲求が薄まってきたこともあり、今度は素直にお礼を言う。
「いや、まあ、ありがと」
「さっきと言い方変わってないんですけど!!」
志乃原はむくれて抗議する。
理性ではお礼を言わないといけないと分かっていても、本能がそれを拒否したようだ。
「はぁ、まあいいです。じゃ、早く着替えてください。私漫画読んどくので」
そう言って志乃原はベッドに腰を下ろし、身体を伸ばす。
先ほどまで俺が寝転がっていた場所だ。
志乃原は俺の家に通い始めて以来、すっかり少年誌の魅力にハマったらしい。
「分かったよ」
どうせ用事があって来たわけでもないだろう。
俺はクローゼットから私服を取り、脱衣所へ赴きダラダラと着替える。
顔を洗い髪をワックスで整え、最後にジャケットを羽織ると、やっと外へ出たい気持ちが湧いてきた。
部屋着で過ごしているといつまで経っても外へ出たくないのだが、外出着に着替えるだけで頭のスイッチが切り替わるのだから不思議なものだ。
「お待たせ」
部屋へ戻って声を掛けると、志乃原は「おおっ」と反応した。
「先輩、なかなか私服のセンスいいですね。良い感じです」
ジャケットにスキニーのセットアップなんて誰が着てもカッコよく見えるものだが、褒められて悪い気はしない。
バレンタインパーティで彩華に私服に難癖を付けられて以来、外出する時は多少気の張った格好をするように心掛けている。
恐らく長続きはしないだろうが。
そういう志乃原の格好はというと、黒のニットに赤のスカート。
ベッドの側には小さい鞄も置いてあり、相変わらず女子大生の流行を抑えにきている。
一際輝いて見えるのは、優れた容姿にマッチしているからだろう。
「私久しぶりに黒のニットなんですけど、似合ってます?」
黒のニットといえば彩華のイメージが強かったが、志乃原が着るとまた違った印象を受ける。
普段可愛い格好をしているギャップというものだろうか。
女はギャップに弱いというが、それは男も然りだ。
「似合ってる、似合ってる」
「あはは、照れたー」
「照れてねえよ」
軽く否定して、俺は冷蔵庫の中を覗く。
大学へ行く前の腹ごしらえだ。
「朝ごはん食べるから、そのまま漫画読んでて」
「そっか、先輩朝ごはんまだだったんですね。ちゃちゃっと作りましょうか?」
「気持ちだけ受け取っとくよ。早く大学行かなきゃいけないだろ」
「その自覚があるならもう少し早く起きて下さいよぉ」
そんなことは昨日夜更かしした俺に言ってほしいところだが、寝坊した自分が悪いので押し黙るしかない。
「あれ」
「どうしました?」
「何も入ってなかった。……行くか」
「先輩、私が来ないとほんと食材とか買わないですもんね……」
「だからいつも感謝してるよ」
そう言って、俺は鞄を拾い上げる。
「行くぞ」
「……さりげなく言われすぎて聞き逃しそうになったんですけど、今結構嬉しかったです」
志乃原は少しはにかんで、ベッドから腰を上げた。
自分でも素直な言葉が口をついて出たことに驚いたが、無意識にお礼を言うくらいには感謝していたのだろう。
その気持ちに嘘はない。
志乃原は俺の家で家事をすることに何ら違和感を抱いていないようだが、きっとこの関係は側から見れば歪なものだ。
それでも俺は、志乃原と過ごす時間が気に入っている。
人の目なんて気にする必要はなく、本人たちが満足していれば良いということを、以前志乃原は言っていた。
二人で玄関を出ると、ちょうど桜の花弁が空を舞っているのが視界に入る。
「風つよー!」
──この日常は、悪くないな。
志乃原が楽しそうに髪をかきあげるのを横目に見ながら、俺は春の訪れを感じた。
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